オランダ
オランダの自由党(Partij voor de Vrijheid)をみてみよう。
オランダは、長い間、移民政策の優等生と言われ、移民に対する寛容政策が最もうまくいっていると考えられてきたが、2001年の911同時多発テロで空気が一挙にかわる。労働党の論客だったフォルタインが移民への制限を訴える主張をひっさげて、フォルタイン党を結成、2002年の総選挙に挑戦した。選挙の1週間前に暗殺されてしまうのであるが、第二党となったフォルタイン党は入閣した。その直後にオランダに一年の海外留学にいった私は、その当時の政治的混乱をつぶさにみることになったが、フォルタインの人気はかなり大きなものだった。モスクやイスラム学校への暴力的介入などがおき、次第に、社会の反移民的雰囲気も少しずつ強くなっていった。そういうなか、EUへの懐疑も大きくなり、オランダでは、2005年のEU憲法を国民投票で意志を問うことになり、60%が否定し、結局、EU憲法は成立しないことになった。その反対運動の先頭にたったのが、ウィルダースで、自由党を結成し、今では有力な政党として、オランダ政治に大きな影響をあたえている。 “ポピュリズム政党の教育政策(2)” の続きを読む
投稿者: wakei
ポピュリズム政党の教育政策(1)
メディアでは、最近のポピュリズム政党を「極右」と位置づけて報道しているが、それはあまり適切ではない。「極右」とは何かという問題もあるが、常識的には、ネオナチやKKKのように、激しい差別感情をもって、対象を暴力をもって攻撃するような団体と考えるべきだろう。現在でも、そうした「極右」は存在しており、やはり、主要なポピュリズム政党とは区別すべきものである。本来、国民の人気とり政策をするのをポピュリズムというのだから、政治的潮流は多様である。故チャベスのような、あきらかな左翼ポピュリスト政治家もいるのである。現在問題となるポピュリズム政党は、得に欧米では、ほとんどが、「移民政策」への反対を軸にしている。程度の差はあるが、イスラム教徒の流入に反対し、イスラム教徒がその国の価値を受け入れることを条件づけることで一致している。特に、その国の言語を習得することを重視する。そういう意味では、教育が重要な意味をもっているのであるが、実は、ポピュリズム政党の政策のなかで、教育政策はあまり重要な位置を占めていない。しかし、移民問題の現われている場のひとつが学校なのだから、教育政策が彼らの移民政策と合致していなければ、彼らの政策は実現しようがないはずである。 “ポピュリズム政党の教育政策(1)” の続きを読む
『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」
『教育』9月号の第二特集は「誰もが何かのマイノリティ」である。これも意欲的な企画だと感じるし、また執筆者が、私にとっては非常に新鮮であった。企画の趣旨は、マイノリティの配慮が、逆に「やわらかい排除」になってしまうことのないような、「普通の人」のなかにある多様性を見つめ、多様な人たちが多様なままに生きられる社会をめざすと書かれている。非常に意味のある提起だと思う。しかし、ものごとは単純ではないように思うのである。それを少し考えてみた。
最初に喜久井ヤシン氏の『「ふつうの人」ってなんだ問題』という文章がある。
一緒にボートにのっていた兄が嵐にあって転覆し、死亡してしまったことをずっと悩んで、カウンセリングにかかっている高校生を描いた『普通の人々』というアメリカ映画があったが、正直あの映画で、何が「普通の人」なのかはよくわからなかった。喜久井ヤシン氏の文章も、「ふつう」ということの難しさを語っている。氏は、不登校、引き籠もり、フリーター、ゲイという様々な普通でない属性をもっている。だから、「ふつうになりたい」と思っている。ふつうじゃないと、なぜそうなのか説明しなければならない。しかし、説明しても、なかなか理解してもらえないだろう。同じひきこもりのグループにいけば、異質ではなくふつうになる。結局、ふつうとは、「説明する必要がない」状態である。だから楽なのである。 “『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」” の続きを読む
黒染強制から考えること
9月4日の毎日新聞に、「東京都教委 都立中・高「黒染め指導」禁止周知へ 全校長会合で説明」という記事が出ていた。黒髪ではない生徒に、黒く染めるように指導するのが「黒染め指導」で、ほとんどなくなっているのかとも思っていたら、まだかなりあるようで、大阪府の訴訟や市民運動による要請をきっかけとして、このような周知徹底がなされたということだ。もっとも、このような指導は何度もなされているようだが、あまり効果があがっていないことが、こうした説明会の開催に現われているともいれる。
毎日新聞には、この問題に関する記事がいくつもある。大阪の訴訟は、生まれつき茶色の毛髪だった高校の女子生徒が、1,2週間ごとに指導をうけ、度重なる染色で髪がぼろぼろになったという。「母子家庭だから茶髪にしているのか」と中傷されたり、指導の際に過呼吸になったりしたという。文化祭・修学旅行に茶髪を理由に参加させてもらえなかった、そういう事情で訴訟を起こしたわけである。損害賠償請求の訴訟だから、訴えの利益がないということで、却下されてしまうことはないだろうが、こういう提訴は、勝敗に関係なく社会的に大きな影響がある。そのひとつが東京都の説明会であろう。 “黒染強制から考えること” の続きを読む
オリンピックで心配なこと 駆り出される子ども
私は東京オリンピックには反対であったし、他にもっているブログでも何度か書いてきた。今でもその気持ちは変わっていない。とにかく、嘘で固めた理由で招致を成功させたことは、否定しようがない。そのなかでも、実際に大きな弊害として、さすがに賛成のひとたちからも危惧されているのが、暑さである。
私は、前回の1964年の東京オリンピックのとき高校生だった。だから、当時のことはよく憶えている。長く10月10日が「体育の日」だったが、それは東京オリンピックの開会式の日だったわけである。現在その日は年によって異なることになってしまったが、10月に行われたのは、通常の開催月である8月は暑いからにほかならなかった。だから、温暖でかつ雨が少ない時期として10月が選ばれたのである。 “オリンピックで心配なこと 駆り出される子ども” の続きを読む
森の幼稚園を認可するように、幼稚園設置基準の改正を
ヤフーニュースに、森の幼稚園の紹介記事があった。 https://news.yahoo.co.jp/byline/maeyatsuyoshi/20190723-00135247/
岐阜県にある森の幼稚園に務めることになった人の体験記のような記事だが、ぜひ多くの人に読んでほしい。
私が森の幼稚園を初めて知ったのは、2004年に、卒論ゼミの学生募集のときに、ある学生が「森の幼稚園」を題材に卒論を書きたいといってきたときだった。私はまったく知らなかったので、「え、なに、森の幼稚園、知らないけど」というような応対をしてしまった気がする。同じ専修に幼児教育の専門家がいたので、実は最初そちらにいったのだが、その先生が私のところにいくように勧めたのだそうだ。というのは、当時、森の幼稚園のことなどは、ほとんど知られていなくて、日本語の文献がほとんどなく、研究するには、どうしてもドイツ語文献によらざるをえなかったから、国際教育論の担当者だった私に頼めということだった。文献もないのに、何故興味をもったのかは、実はよく聞かなかったのだが、私が知らないことを、学生が研究してくれるのは大歓迎なので、それから一緒に勉強するような卒論の取り組みになった。
くりこまの森の幼稚園の活動2005年
当時日本には、森の幼稚園と称する園がひとつかふたつで、現在ある「NPO法人森の幼稚園全国ネットワーク連盟」が2005年に宮城県のくりこま高原で第一回の交流集会を開催して発足したと思われるが、(当時は任意団体で法人ではなかった)卒論の学生もそこにでかけていった。実際に森の幼稚園の活動に参加し、ビデオをとってあるのだが、かなり強い雨がふっていて、「雨の日も、風の日も、雪の日も」行うという森の幼稚園のモットーそのものを実践していた。 “森の幼稚園を認可するように、幼稚園設置基準の改正を” の続きを読む
教科書はなぜ書店で変えないのか
『季刊臨教審のすべて6』にある香山健一氏と山住正己氏の対談を読んでいると、なかなか興味深いやりとりがあった。第三次答申のための議事を整理してまとめたもので、本答申の前の段階の文書についての対談である。興味深いやり取りというのは、実際の答申に書かれなかったのだが、教科書を一般書店でも売れるようにする、21世紀には、教科書検定をやめて、自由発行・自由採択にするという話し合いがもたれていたことが報告されている。臨教審への反対派である山住氏もこの点については、大いに賛成だと発言しているのである。こうした提言が実現していないことは、残念なことだ。このふたつが実現するだけでも、日本の教育の風景は相当に変わると思われる。
教科書が市販されていないのは、つまらないので誰も買わないからだ
教科書を一般の書店で販売することが、法的に禁じられているわけではない。教科書検定訴訟を受けて、国は、教科書検定が憲法で禁止されている検閲ではない理由として、検定に通らなくても市販することはできるのだから、検閲ではないという反論をしていたことでもわかる。実際に、検定に不合格となって後、市販された本はある。これも興味深いことに、家永三郎氏の高校の日本史と、新しい教科書をつくる会の中学歴史教科書という、立場的にまったく逆の書物が、同じように検定不合格になりながら、市販されているのである。また、教科書を販売している特別な書店も県にいくつかある。これは市販のためというよりは、何かの事情で教科書が不足してしまったときに購入できるようにするための、特別の契約関係にあるのだろう。転入生がくるなどもそうした事情だろう。 “教科書はなぜ書店で変えないのか” の続きを読む
教員採用試験の倍率低下しているというが
教員採用試験の倍率が低下していることが、大分話題になっている。
私自身、教師になりたい学生を指導してきたので、いろいろと考えるところがある。
教師に本当になりたいと思っている学生にとっては、倍率が下がるのは歓迎だろう。なにしろ、なりやすくなるなのだから。しかし、倍率が下がると、教師の質が低下するという心配をしているひとたちも多いようだ。また、倍率が下がった原因に関しても、いろいろな考えがある。
私自身は、教員採用試験の倍率が下がった最大の理由は、社会全体の人手不足で、特に民間企業の採用が多くなり、学生たちにとって、ほとんどの分野で、就職しやすくなっている。その分教師になろうという人が少なくなっているわけだ。こういうことは、景気の変動の影響として、過去何度もあったことだ。しかし、最初から教師になりたい人が、民間に志望を変えるということは、あまり起きていないように感じている。免許をとっていても、迷っている学生や、とってはみたものの、あまり向かないことがわかったような学生は、企業に鞍替えしていくだろう。そういう結果であると思う。 “教員採用試験の倍率低下しているというが” の続きを読む
読書ノート『西洋の自死』ダグラス・マレー
ダグラス・マレーは、イギリスのジャーナリストで、現在40歳。この著書は、2017年に公刊され、日本の訳は、2018年暮れである。2015年の稀に見る大量の難民がヨーロッパに押し寄せた事態を受け、その後それなりに落ち着いた時期に書かれたものである。著者は、難民たちとの対話のために、ヨーロッパのあちこちにでかけ、直接インタビューをしてきたという。しかし、本書にそれはあまり反映されているわけではなく、むしろ、ヨーロッパとは何か、イスラムがどのようにそれを失わせているかを、むしろ思考の産物として書いている。
さまざまな情報が書かれているが、いわんとしていることは、以下のようなことである。 “読書ノート『西洋の自死』ダグラス・マレー” の続きを読む
最近の韓国騒動で思うこと
結論からいえば、日本はなんてだらしない国家になったのだろう、ということだ。今回の騒動の発端は、よく言われているように徴用工に関する韓国の最高裁判決という前提で考える。長い歴史があるから、その判決もひとつの展開点に過ぎないわけだが。
完全かつ最終的解決とは
徴用工判決については、私も大方不当だと思っている。しかし、100%日本が正しいとは思っていない。日本の報道では簡単に言葉だけで済まされている1965年の日韓条約の「 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」には、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」と書いてある。これが、「完全かつ最終的」の根拠であるが、この協定そのものには書かれていないのだが、議事録(当時は公開されなかったが、大分たってから公開された。)に、韓国人への個人補償は、日本からの支払いのなかから、韓国政府が行うという確認があるわけである。しかし、それは正式な条文には書かれていない。双方が確認したのに何故条文に盛り込まなかったのかはわからない。おそらく、韓国政府は、個人補償に使う気はなかったのだろう。実際に、極めてわずかしか個人補償にはまわさず、経済発展のための投資に資金をまわしたのである。 “最近の韓国騒動で思うこと” の続きを読む