「人質司法」をやめる利点

 ゴーン問題は、様々な領域で今後とも大きな影響を与えるだろう。司法の領域、日産の経営に留まらないだろうが、ゴーンの弁護士だった高野隆氏が、1月4日付けで「彼が見たもの」という題でブログを書いており、それに膨大なコメントがついて話題になっている。高野氏は、ゴーン保釈の際、変装させたことでも話題になった。
 ブログの趣旨は、ゴーンはかなり法律の専門知識をもっており、裁判の先行きに関していろいろと質問してきたが、妻にもあえない保釈のあり方や99%以上の有罪率に次第に悲観的になっていった。高野氏も、公正な裁判は期待できないが、最大限の努力はするし、これまでも無罪を勝ち取ってきたと励ましていたのだが、逃亡してしまった。激しい怒りを感じたが、全否定することはできない気持ちもある。そして最後に「確かに私は裏切られた。しかし、裏切ったのはコルロス・ゴーンではない。」と結んでいる。
 あちこちで話題になり、コメントが多数ついている。多数は、高野氏を批判するものだが、擁護したり、あるいは、自分がお金持ちでゴーンと同じ立場なら、やはり逃げるだろうという見解もある。 “「人質司法」をやめる利点” の続きを読む

離島高校生の大学受験 会場に来させないで済む方法はないのか

 大学入試の本場がやってきた。入試競争そのものも厳しさもあるが、過酷な条件を強いられる高校生もいる。毎日新聞の記事「センター試験のため28泊…東京・小笠原の受験生 精神的負担大きく」(1月15日付け)は、離島の受験生たちの過酷さの例を報告している。ただし、離島に事件会場を設定して配慮している地域もあるそうだ。記事によると、「離島にある五島、壱岐、上五島、対馬の県立高4校」に2009年から会場が設けられたという。センター試験はそうした配慮も可能だが、個別の大学だと、地方会場を設定しても、離島まではカバーできない。
 日本における入試制度のもろもろの条件を、日本人はごく当たり前のものだと思っているが、国際的にみれば、かなり特殊なものが少なくないのだ。これまでいろいろ書いてきたが、今回は、大学側、あるいは試験実施機関が指定した場所にまでいって、試験を受けるということについて考えてみる。 “離島高校生の大学受験 会場に来させないで済む方法はないのか” の続きを読む

新聞は朝夕刊、両方が必要か 大分合同新聞の夕刊廃止

 大分合同新聞が、夕刊を廃止するという記事があった。(読売2020.1.14)廃止の理由は、人件費や原材料費の上昇、配達員の確保が難しくなってきたということをあげているそうだ。月極め料金を3565円から3500円にして、ビジネス、教育などをテーマにしたハーフサイズ版を週4回、朝刊に折り込むかたらで発行するという。大分合同新聞というのは、知らなかったが、インターネットでも部分的には読めるようだ。
 私は、常々、日本の新聞が朝刊と夕刊を毎日(最近は休日もあるが)出し、しかも、地域版があり、一日のうちに版を変えていくというシステムに、疑問を感じている。朝か夕に一回出し、しかも、版の変更などすることはないと思うのだ。今は、ネットで新聞記事を読むことが普通になっており、新しい記事はネットで流していけばいい。
 長年の慣習なので変えることは難しいのだろうが、変えることによるメリットはたくさんあると思う。 “新聞は朝夕刊、両方が必要か 大分合同新聞の夕刊廃止” の続きを読む

名城大学刺傷事件再論 レポート締め切りは絶対か

 伊東 乾氏がJBpressに『「単位あげない」殺人未遂事件を起こした甘えの構造』という文章を書いている。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「単位あげない」殺人未遂事件を起こした甘えの構造/ar-BBYSST0?ocid=spartandhp)
 この時期の大学は、成績認定や大学入試など、一年で最も忙しい時期であり、成績処理などもコンピュータ化されて、個々の状況で操作できるものでもなく、教師が締め切りに間に合わなければ単位を出さないというのは、当たり前のことで、学生のとんでもない甘えであるという趣旨の文章である。
 私は、この事件があった日に、まったく反対の趣旨の文章を書いたし、この文は見過ごすことができないので、再論する。当日は、刺した原因がわからなかったが、その後、レポートの締め切りに遅れたことだったと説明されている。
 いまでは、ほとんどの大学で、成績処理がコンピュータ化されている。しかし、だから、成績処理の融通をきかせることは不可能だということにはならない。教員が成績を提出しなければならない日は決まっていて、これを動かすことはできない。しかし、この期限とレポート提出期限は当然同じではなく、教員は、提出されるレポートを読む時間を、多少余裕をもてるように、レポート提出期限を定めているはずである。 “名城大学刺傷事件再論 レポート締め切りは絶対か” の続きを読む

『教育』2020.2号を読む 校長の役割

 『教育』2020.2号の第一特集は「いま求められる校長の役割」である。編集後記によると、これまで『教育』では、こうしたスクールリーダー論は、ほとんど取り上げられてこなかったのだそうだ。その理由は、校長が、勤評以来、教育行政の末端に位置づけられてきたからだという。そのために、校長とどう闘うかが意識され、校長が本来果たすべき役割についての検討が弱かったことが否めないと書かれている。
 しかし、私のような高度成長期から、『教育』を読んできた世代からみると、この見解はかなり違和感がある。戦後の校長の中でも際立って大きな功績をあげたといえる斉藤喜博は、教科研の主要メンバーであったし、彼の戦後の仕事は、ほとんど校長としてのものだった。校長として、どう教師を育てるか、育てた教師とどのように学校の実践を作り上げていくかを、提起し続けてきた。そして、その主要な場が教科研だったはずである。しかも、斉藤喜博は、勤評以前の、まだ校長が敵(?)ではなかった時代の校長だったわけではなく、斉藤喜博が校長時代にそうした推移があり、斉藤喜博自身が校長の教育行政のおしつけ的役割と対峙したわけである。教科研が、校長論、スクールリーダー論を掘り下げるには、斉藤喜博のみならず、教科研や民間教育運動に参加していた、優れた校長の実践をもっと注意深く分析し、継承する必要があるだろう。 “『教育』2020.2号を読む 校長の役割” の続きを読む

メディアの公平さを考え イギリス王室とオランダ王室

 昨日(1月10日)のワイドショーでとても奇妙な光景があった。イギリスのヘンリー王子がイギリス王室から離脱するという話題でのことだ。番組では、その話題に移ったあと、イギリスでの街頭インタビューの模様が放映され、そこには、勝手な振る舞いだとという批判的見解と、理解できるという同情論のふたつが紹介された。そして、その後、長年イギリス王室の取材をしてきたという女性がコメンテーターとして紹介され、レギュラーとゲストを含めた活発なおしゃべりが展開された。およそ議論というほどのものではなかった。そこで、驚いたのは、コメンテーターに、司会者が何度か、イギリス国民の反応はどうですかと質問したが、毎回、国民は完全に怒っています、とだけ述べていた。誰もが感じると思うが、最初のインタビューはふたつの対応があると明確に示していたのに、一応専門的に理解しているという前提で登場したのだろうが、コメンテーターは、国民はひとつの立場になっていると、およそ躊躇するような感じもなく断定していたのである。
 もちろん、私はどちらが正しいかは分からないが、しかし、同一の番組のなかで、このような扱いが生じているというのは、誰もが疑問に感じるだろう。コメンテーターに対して、インタビューでは同情論もありますが?というような質問を投げかける人もいない。最近のワイドショーは、けっこう異なる見解の人が登場して、率直に議論しあう場面も少なくない。それがけっこう面白い。そうした議論の有無は、番組の水準ということなのだろうか。 “メディアの公平さを考え イギリス王室とオランダ王室” の続きを読む

名城大学で教員が刺される事件

 1月10日の夕方、名古屋市の名城大学で、准教授が学生に刃物で刺されたという。報道によれば、レポートをめぐってトラブルになっていたとか。今の時期だから、レポートのトラブルといっても、成績評価のことではないに違いない。提出期限とか、あるいはレポートの形式などで、受け取り自体を拒否されたというようなことなのだろうか。以前、中央大学でも構内で教員が刺された事件があったが、やはり、理工系だった。文系でレポートをめぐってトラブルになり、教員が暴行を受けたりということは、あまり聞いたことがない。文系の場合には、成績が就職に直結することは、ほとんどないと思われるが、理工系の場合には、そうした面が文系よりは強いに違いない。だから、成績は重要な意味をもつのだろう。
 あまり参考にはならないが、成績に関するトラブルは、起きないに越したことはないので、一応は気をつけている。 “名城大学で教員が刺される事件” の続きを読む

読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二

 皇室問題を考える一環として、西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワックKK)を読んでみた。この手の本を読んでいつも感じることだが、作者は本当にこんなことを考えているのだろうかと、どうしても思ってしまう。
 この著書は、今上天皇が皇太子であったときに、大きな衝撃を与えた「人格否定発言」に触発されて書いた文章と、その反応に対するコメント的な文章を集めたものである。ここで書かれたことは、現時点で考えると、明らかに誤解に基づくか、あるいは偏見に基づくものであったことがわかる。しかし、この発言を機に、一気に皇太子批判が起き、皇太子を退くべきであるという議論まで、公然と語られていた。この本は、そこまでの主張はしていないが、皇太子(当時)と雅子妃に対して、姿勢を改めることを強く要求していた。しかし、実際に代替わりのあと、事情はすっかり変わっている。天皇と皇后への批判はほとんどなく、称賛で埋まっているような気がする。私としては、それはそれとしてどうかとも思うが、西尾氏は、現状をどのように見ているのか気になるところだ。西尾氏のブログを見たが、コメントは何もないようだ。(ただし、youtube発言はチェックしていない。)
 雅子皇太子妃の病気に関して、西尾氏が触れている点をひとつだけ紹介しておこう。 “読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二” の続きを読む

相模原障害者施設の殺傷事件公判について考えること

 相模原の障害者施設に、元職員だった男が侵入して大量殺傷事件を起こしたことは、記憶に鮮明に残っているが、容疑者に対する裁判が始まった。しかし、容疑者が反省の弁を述べたあと、奇声を発し、押さえつけてもやめないので、傍聴人を外にだし、休廷した。そして、午後、容疑者のいないままの裁判が継続された。その後どうなるのか、原則被告がいないと公判を開けないはずだが、暴れるなどの事情があるときには、許されるのだろう。麻原の場合にも、その場にはいないまま裁判が進行したから、もしかしたら、この裁判でも被告不在で進行するのかも知れない。現在は以前と異なって、裁判員裁判だから、公判は迅速にかつ短期間で行われる。
 この奇声が、意図的なものなのか、あるいは、精神的異常による無意図的なものなのかは、まったく判断ができないが、弁護側は責任能力で争う方針なので、もしかしたら意図的なのかも知れない。精神異常であるか否かで、ある意味生死が左右されるのだから、ありえないことではない。 “相模原障害者施設の殺傷事件公判について考えること” の続きを読む

イランとアメリカの関係史の誤解

 アメリカとイランの関係が、極めて危険な状態になっている。そして、多くの人が指摘しているように、これは昨今始まったことではなく、長い対立の歴史がある。そして、ネットで専門家と思われる人の解説記事が多数載っているが、多くは、誤解を生むような内容になっているのが気になる。それは、アメリカとイランの対立が、ホメイニによるイラン革命、そしてその後直ぐに起きたイラン人の一部によるアメリカ大使館の選挙と人質事件から始まっているような記述である。もちろん、そうした事実があって、アメリカとイランの対立が激化したという指摘は間違いではないが、それ以前の重要な対立を無視している点で、誤解を与えるものだ。
 20世紀になって石油が重要な資源であることが発見され、現在の中東地域がそれまでとは格段に異なる意味あいが生じた。そして、この地域は長くオスマントルコ帝国と西欧列強の対決が続き、第一次大戦後のオスマントルコの崩壊によって、一気に西欧列強の支配が優位になる。そして、石油採掘の作業が、西欧の企業によって進められることになった。そして、そこから生じる利益は、西欧企業がほぼ独占したわけである。 “イランとアメリカの関係史の誤解” の続きを読む