『教育』2020.2号を読む 校長の役割

 『教育』2020.2号の第一特集は「いま求められる校長の役割」である。編集後記によると、これまで『教育』では、こうしたスクールリーダー論は、ほとんど取り上げられてこなかったのだそうだ。その理由は、校長が、勤評以来、教育行政の末端に位置づけられてきたからだという。そのために、校長とどう闘うかが意識され、校長が本来果たすべき役割についての検討が弱かったことが否めないと書かれている。
 しかし、私のような高度成長期から、『教育』を読んできた世代からみると、この見解はかなり違和感がある。戦後の校長の中でも際立って大きな功績をあげたといえる斉藤喜博は、教科研の主要メンバーであったし、彼の戦後の仕事は、ほとんど校長としてのものだった。校長として、どう教師を育てるか、育てた教師とどのように学校の実践を作り上げていくかを、提起し続けてきた。そして、その主要な場が教科研だったはずである。しかも、斉藤喜博は、勤評以前の、まだ校長が敵(?)ではなかった時代の校長だったわけではなく、斉藤喜博が校長時代にそうした推移があり、斉藤喜博自身が校長の教育行政のおしつけ的役割と対峙したわけである。教科研が、校長論、スクールリーダー論を掘り下げるには、斉藤喜博のみならず、教科研や民間教育運動に参加していた、優れた校長の実践をもっと注意深く分析し、継承する必要があるだろう。
 そうした違和感のせいか、今回の特集には、あまり触発されることがなかった。また特集と関係ないような文章もある。例えば、小野方資「主体的な追従を強いる・強いられる学校教育」は、福山市の教育長によるイエナプラン教育の押しつけ的行政への批判であって、校長はあまり出てこない。もちろん、この文章が変だということではなく、とても興味深い報告だが、特集で期待されていることとの関連があまりないという意味だ。逆にいえば、内容的には、この特集のなかでは、興味深いものだった。(後述する)
 私は、このような雑誌編集に関与したことがないので、実際に『教育』の特集がどのような過程をへてまとめられるのか知らないけれども、初めてに近い特集のためだろう、必要なことが充分に検討の対象とされていないように思われるのだ。各論の基本的な主張は、確かにその通りだ。校長は、リーダーシップを発揮するものだが、それは、対話を重視する姿勢、子どもと教師とともにある姿勢等々であり、そうした実践例も紹介されている。だが、私の普段疑問に思っていることには、まったく触れられていないといってよい。もちろん、私の問題意識こそが重要だなどというつもりは毛頭ないが、しかし、教育研究者として、あるいは読者としても、それを日本の重要な教育雑誌である『教育』に期待してもいいだろうとは思う。
今後明らかにしてほしい校長に関すること
1 今現場で、やる気のある教師の多くが、管理職になることを嫌って、避けている現状がある。つまり、勤評以来の「校長敵論」とは違うとしても、管理するのは嫌だ、あるいは、あまりに大変そうで敬遠するというような雰囲気は感じられる。これは、やる気のある教師が、ずっと教室での教育実践に関わり続けることを意味するから、よいことだというのだろうか。また、校長などは所詮、教育的情熱のない者がやればいいのだから、特に問題にする必要がないことなのか。あるいは逆に、校長も教育的情熱が必要であり、なんとか熱意のある教師たちが、どんどん管理職試験を受けて、校長になっていくべきなのか。しかし、情熱をもって校長になれば、教育行政の末端の管理統制する存在ではなく、教育的な校長になれるのか。
 こうしたことに、現場の校長になった人や、なることを忌避している人の見解を知りたいと思うのである。
2 文科省は一貫して、校長のリーダーシップを強調し、その下に学校が一丸となって教育にあたることを求めている。しかし、教育行政的には、「監督・命令」と「指導・助言」を区別し、学校においては「校務」と「教育」とを区別している。特集で、篠原岳司氏の「対話と合意の学校づくり--校長のリーダーシップはやめませんか?」は、ジョン・コッターの論を参考に、リーダーシップ(課題を設定し、成員への動機付けによって達成を行うこと)とマネージメント(統制と問題解決によって達成すること)を区別し、文科省的な「リーダーシップ」ではなく、対話と合意によるリーダーシップを提起している。しかし、一人の人格が、この相反する機能を実行し、かつ、教育的な成果をあげることは大変に難しい。また、何か大きなトラブルがおき被害が生じたとき、校長は責任を負う存在であるが、しかし、それは機能しているようにも見えない。このようなことは、実際にどのようになっているのか、両立が可能なのか、可能だとしたら、その条件は何か。対話を重視する校長も少なくないはずであるが、しかし、彼らが日々ぶつかる問題は何なのか。実際の校長の手記がほしい。元校長の著作はたくさん出るようになっているということだから、『教育』に登場してくれる元校長も少なくないはずだ。
校長の選任方法
3 学校が人の組織である以上、そこに責任者が必要であることは自明である。しかし、責任者であることと、現在のような選任プロセスでなければならない絶対的な理由はない。私は、教育制度論が専門なので、どうしてもそうした選任方法に関心がある。選任方法は、選任された人がどのように仕事をするかを、大きく規定するからだ。公選制の教育委員は、住民を意識して活動するが、任命制の教育委員は、任命した首長を意識して活動するものだ。だから、校長も選任方法が本当は極めて重要なのだ。
 大学でいえば、校長は学部長に相当するだろう。学部長の選び方は、一様ではないだろうが、多くは教授会メンバーの選挙によるのではないだろうか。私の所属する大学も当然そうしている。2年ごとに選挙があるのが普通だが、2年できっちり交代する習慣となっている学部と、長く続ける場合が多い学部がある。しかし、どちらにせよ、「管理職」的意味合いはかなり薄まり、みんなが選んだ同僚のなかのリーダーという性質になる。それで、学部運営がやりにくくなるということは、通常はないだろう。むしろ、選ばれたわけだから、みなが支持することが多いから、やりやすいのではないだろうか。
 では、学校の校長にそれを適用することはできないのだろうか。何かまずいことがあるだろうか。世界でもっとも数の多いフリースクール(オールタナティブスクール)であるシュタイナー学校は、校長は教師間の選挙でなるとされている。つまり、教師の役割を少なくしつつも継続して、校長事務を行い、校長の任期が切れたら、教師に戻るわけだ。だから、実例がないわけではない。
 さて、国際的にみて、(といっても先進国の例だが)校長の選任には、二通りあると思う。ひとつは、日本のような教師集団の経験者のなかから、管理職試験を受けて、合格したものが、管理職の階段を登っていって、校長になる型である。他は、最初から教師と校長の基礎資格が異なっていて、校長になる者は、その資格をえて、校長となる。教師の資格をもつものは、通常ずっと教師を続けるという型である。その場合、もちろん、教師が、あらたに校長資格をとることによって、校長になることも可能である。オランダはこの型だった。日本は、校長はその学校でもっとも高齢者グループに属するが、オランダでは、校長より年配の教師は珍しくない。
 どちらがよいのか。もちろん、一長一短があるだろう。シュタイナー型、日本型、オランダ型と仮に名付ける。私立学校は、その学校が独自に決められるとして、日本の公立学校のように、法で運営が基本的に決まっている場合には、学校に任せるという方式をとることはできない。だから、どれかに統一する必要はある。
 私自身は、シュタイナー方式がベストであると思っているが、しかし、シュタイナー方式は、教員の移動がほとんどない場合にのみ有効に機能すると考えられる。日本のように、7年程度で移動していく場合には、戸惑う面もあるかと思うが、しかし、そういうものだと思えば、大丈夫だろう。
 日本式とオランダ式とでは、日本式のほうがうまく機能するような感じはする。とりあえず、今のままの選任を当然視するのではなく、考察の対象であることを認識することが必要ではないかと思うので書いておいた。
イエナプランをめぐって
 続きは、後日書くが、イエナプランに関連して。
 実は、昨年の秋、NHKの広島支局の人が取材にきて、学校選択とイエナプランについて、現地で動きがあるので、教えてほしいというのだ。この『教育』の文章で、ああこういうことだったのかとわかったのだが、要するに、イエナプランの学校を作って、そこは選択できる、アメリカのチャータースクールのようにしようということなのだろうか。イエナプランの学校は、オランダで実際に見たことがあるが、評価の難しい教育形態だ。戦前のドイツで生まれた教育形態だが、3学年をひとつの学級にまとめて、自発性を重んじた教育をする。ヒトラーがすべての私立学校を禁止したときに、何故かイエナプランだけは存続を許されたのだが、それが仇となって、戦後にむしろ消滅してしまった。ところが、自由な教育が可能なオランダで生き残り、オランダではかなりのイエナプラン学校が存在し、高い評価を得ていた。そして、ドイツに逆輸入され、今ではドイツにも存在する。新教育運動のなかで生じた学校だから、本来自由な教育を主体としているが、広島の福山市では、教育長が強引に導入しようとしており、単にイエナプラン学校を作るだけではなく、その方式(といっても教育長が理解するところの)がかなり強引に押しつけられているというのだ。いろいろなところで教育長みずから授業をしているのだそうだが、例えば次のように小野氏によって、紹介されている。
 「道徳の授業で彼は『このページをどう読みますか。自分で読みますか、先生が読みましょうか、それとも声を出して読みますか、黙って読みますか』と子どもたちに尋ねた。子どもたちは何が何だかわからないながら、約25分間を読み方についてのやりとりに費やした。最後に、子どもたちが『こうしよう』とした読み方で読んで、授業が終わった。」
 別の中学の理科の授業で、生徒に質問をして、「そうなんですか」と答え、また次に生徒に質問して、「そうなんですか」をずっと繰り返したという。
 本当だろうかという疑問もわくが、それを素晴らしい授業だと褒めた教師もいるし、「自習の監督のようだ」という者もいたという。
 はっきりしているのは、この教育長のイエナプラン教育理解は、まことに自己流のもので、似て非なるものだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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