昨日(1月10日)のワイドショーでとても奇妙な光景があった。イギリスのヘンリー王子がイギリス王室から離脱するという話題でのことだ。番組では、その話題に移ったあと、イギリスでの街頭インタビューの模様が放映され、そこには、勝手な振る舞いだとという批判的見解と、理解できるという同情論のふたつが紹介された。そして、その後、長年イギリス王室の取材をしてきたという女性がコメンテーターとして紹介され、レギュラーとゲストを含めた活発なおしゃべりが展開された。およそ議論というほどのものではなかった。そこで、驚いたのは、コメンテーターに、司会者が何度か、イギリス国民の反応はどうですかと質問したが、毎回、国民は完全に怒っています、とだけ述べていた。誰もが感じると思うが、最初のインタビューはふたつの対応があると明確に示していたのに、一応専門的に理解しているという前提で登場したのだろうが、コメンテーターは、国民はひとつの立場になっていると、およそ躊躇するような感じもなく断定していたのである。
もちろん、私はどちらが正しいかは分からないが、しかし、同一の番組のなかで、このような扱いが生じているというのは、誰もが疑問に感じるだろう。コメンテーターに対して、インタビューでは同情論もありますが?というような質問を投げかける人もいない。最近のワイドショーは、けっこう異なる見解の人が登場して、率直に議論しあう場面も少なくない。それがけっこう面白い。そうした議論の有無は、番組の水準ということなのだろうか。
ただし、この問題はかなり重要な意味をもっていると思う。
インタビューを見れば、イギリス国民は、両方の立場があって、拮抗しているだろうという印象をもつだろう。しかし、それも本当かどうかはわからない。インタビューを試みたところ、圧倒的に批判が多かったが、バランスをとるということで、一人ずつ双方の立場をだしたのかも知れない。もちろん、本当に同じ程度だったのかも知れない。そういうことは、まったく知らされていなかった。
しかし、明らかに、インタビューで同情論が流されているのに、コメンテーターがそれを無視して、国民はみんな怒っている、というような言い方をするのは、そのまま納得する人は少ないだろう。コメンテーター自身の感情が反映されているのだろうと、多くの人は訝るのではないか。もちろん、徹底的にイギリス本国の情報を調査して、確かに同情論もあるが、それは圧倒的に少ないので、国民は怒っているという表現になったかも知れない。しかし、その場合には、少数は同情しているが、国民の大部分は、というような言い方になるだろう。おそらく、このコメンテーターは自分の見解に、同じ感覚をもつイギリスの情報のみにアクセスしているような気がする。
ただ、双方の見解があるとき、どのように情報を提供するのが、「公平」なのだろうか。
以前の日本の大新聞は、「公平・公正」を重視していた。欧米の新聞は、むしろ政治的立場を鮮明にしていることと対比されてきた。しかし、日本の新聞も次第に、政治色をだすようになっている。現時点では、例えば安倍政権に対して、擁護の立場の新聞と、批判的立場があるから、バランスはとれている。ただ、それぞれの新聞が、一般的な見解を紹介するときに、自社の立場に近い見解を多く紹介する傾向は間違いなくある。
しかし、テレビは、今でも「中立・公正」が重視されているように思われている。だから、インタビューの紹介では、双方を同じだけ放映する形式がとられることが多い。コメンテーターも比較的中立的であることに注意するか、あるいは、双方の人を呼ぶことも少なくない。このワイドショーは、特別なのかも知れない。
これが王室の問題であるが故に、偏りのあるコメントがなされたという面があるかも知れない。日本でも、皇室ジャーナリストは、たいてい、皇室のなかの誰かの立場を代弁していることが多いようだ。イギリスの王室は、メディアに晒されることが多いためだろうか、あるいは、自分たちが財産をもって、ある程度経済的活動をするからだろうか、それぞれの行動への賛否が露になったり、批判がなされたりする。しかし、日本の皇室は、そうしたある種の「対立」に無関係であるかのように扱われてきたが、今では、明らかに、皇室内の対立がある。昨日書いた西尾氏の著作へのコメントの主題だった「人格否定発言」は、その端的な例であるが、今では、小室問題をめぐる一連の騒動に現われている。皇室は、特別な位置にあるから、中立的な見方というのは、ありうるのかという問題もある。
30年近く前に、初めてオランダに一年滞在することになって、驚いたことは多々あるが、そのひとつが、オランダ王室を国民は、「コストパフォーマンス」的な見方で評価していることだった。オランダ国家の歴史は、スペインからの独立戦争に始まるが、その独立戦争を指導したオラニエ公ウィレム一世が、道半ばで暗殺されてしまったことも影響するだろうが、その後のオラニエ公も、長く「王」としては扱われず、ある種の契約関係的な総督であった。ナポレオン戦争後に初めて、オランダ国民がオラニエ公を、王に選出したわけであるが、そうした歴史的背景もあって、国民は、税金を出している以上、それに見合った貢献を国家や国民に対してしなければならない、それを監視するのは、国民の役割であるという意識をもっていると言われた。だから、王室に批判的な人々も多数いて、みんなが敬愛の念をもっているわけではないのである。その代わり、王室のひとたちは、国民に理解されるような活動をしている。それは日本の皇室とはかなり違う。日本の皇室が行う活動は、何かの式典や催しに出席して、手を振ったり、あるいは挨拶をするような形式的なことである。平成から始まった天皇皇后の被災地訪問は、そうした形式的活動を打破する鋭意であったが、オランダ王室の活動に比較すれば、まだ形式的であるように、私には感じられる。誤解のないように断っておくが、この場合の形式とは、「心がこもっていない」とか「形式を踏むだけの行為」という意味ではない。被災を受けた人々との交流は、もちろん、心からの共感を伴ったものだろう。しかし、被災地にいって、被災した人々とひと言ふたこと言葉を交わすという、だいたい同じ形式での訪問が行われるわけである。
しかし、私がオランダで見た王室の活動で、もっとも驚いたのは、当時の皇太子のしたことだった。
オランダは、周知のように、国土の40%が海面より低い土地であるために、度々大洪水の被害が起きていた。中でも1953年に起きた洪水は、大きな被害をもたらした。私が2003年に、二度目のオランダ滞在をしたときが、大洪水50周年の記念の年で、さまざまな行事が行われた。あるときテレビを見ていたら、洪水が起きた地域を見渡す区域をヘリコプターから写している。そして、ヘリコプターは、そのなかのある区域に着陸して、レポーターが降りて、当時の洪水の被害に対して、詳細な報告を始めたのである。そのレポーターは、一人でマイクをもって話している。最初、私は気づかなかったのだが、やがてそれが、皇太子であることがわかった。もちろん、SPとかは、側にいたのだろうが、画面にはまったく写らず、一人でヘリコプターにのっていて、ずっと一人でしゃべっていた。相手をする人もいない。もちろん、オランダは、洪水を防ぐために、大きな工事をやっており、この大洪水の被害を受けた地域には、巨大な水門が建設されている。そうしたことも含めて、解説していく。王室として、オランダで起きたことについて、詳細に理解し、政府や国民がやってきたことを踏まえて、過去に学び、かつ将来に向けて必要なことを訴える、そういうことを、1時間近い番組を、一人で回して実行していたのである。
もちろん、そういうやり方に批判的な人もいるかも知れない。しかし、国民に対する王室としての責任を果たそうという活動であることは、充分に理解できた。
参考までに、この皇太子が結婚するときには、国内的な大問題が起きた。結婚相手が、アルゼンチン人で、その父親が、独裁政権の大臣を務めた人だったからである。その独裁政権下で、多くの人が虐殺されたわけで、そんな政権にいた人の娘が、オランダ王室に入ってきていいのかという反対が巻き起こったのだ。そのときの対応を、私は散々オランダ人から聞かされた。フィアンセ自身が、テレビでの記者会見に臨み、自ら、自分の父親は虐殺には一切関わっていないことを国民に、しかも、見事なオランダ語で訴えたので、国民の受け取り方が逆転し、祝福される形で結婚が実現したのだそうだ。日本の件のお二人に、同じことが可能だろうか。もし実行すれば、事態は一気に変化し、国民が祝福する可能性もあるのだが。おそらく、これまでの経緯からすれば、ないだろう。
国民の側でも、冷静な評価の立場をとり、王室も国民の理解をえるべく活動する。そうしたあり方は、日本の皇室と国民のあり方としては、明らかに違うものだったが、最近、それは変わりつつあって、国民も、ある程度「コストパフォーマンス」的な見方をし始めているように思われる。その際にメディアに必要なのは、やはり、一方的な見方ではなく、多様な見方を提示していく姿勢ではないか。