「人質司法」をやめる利点

 ゴーン問題は、様々な領域で今後とも大きな影響を与えるだろう。司法の領域、日産の経営に留まらないだろうが、ゴーンの弁護士だった高野隆氏が、1月4日付けで「彼が見たもの」という題でブログを書いており、それに膨大なコメントがついて話題になっている。高野氏は、ゴーン保釈の際、変装させたことでも話題になった。
 ブログの趣旨は、ゴーンはかなり法律の専門知識をもっており、裁判の先行きに関していろいろと質問してきたが、妻にもあえない保釈のあり方や99%以上の有罪率に次第に悲観的になっていった。高野氏も、公正な裁判は期待できないが、最大限の努力はするし、これまでも無罪を勝ち取ってきたと励ましていたのだが、逃亡してしまった。激しい怒りを感じたが、全否定することはできない気持ちもある。そして最後に「確かに私は裏切られた。しかし、裏切ったのはコルロス・ゴーンではない。」と結んでいる。
 あちこちで話題になり、コメントが多数ついている。多数は、高野氏を批判するものだが、擁護したり、あるいは、自分がお金持ちでゴーンと同じ立場なら、やはり逃げるだろうという見解もある。
 ゴーンの犯罪が厳密に立証されるものであるかどうかは、裁判そのものが開かれる可能性がほとんどないのでわからないが、私自身は、ゴーン社長の手腕というのを、あまり高く評価できないし、少なくもとかなりの守銭奴であることに不快感をもつ。心証としては有罪ではないかと思う。
 しかし、ゴーンの日本の「取り調べ」に対する非難は、残念ながらかなりの程度あたっているといわざるをえない。そして、日本国内でも、ずいぶん前から批判するひとたちはかなり存在していたし、また、僅かながらの改善もある。高野弁護士へのコメントで、「それなら何故これまで改革してこなかったのか」との非難が多数あったが、それは事実に反する。改善の一例が取り調べの録音・録画の実施だろう。だが、それはまったく充分ではない。
 これまで、取り調べに関する批判は、人権という観点から行われてきた。推定無罪の原則からすれば、既に有罪が確定しているかのようなやり方は、人権を無視しているというわけだ。私も、当然そういう立場であるが、もうひとつ、司法の合理性という点からも、改善の利点があると思うので、今回は、その点を中心に書くことにする。
 第一に、長い取り調べが、いかに不合理であるか、それをやめることにどのような利点があるのか。
 長い取り調べは、つとに指摘されように、「自白重視」にある。自白すれば、拘留が解除され、しないといつまでも拘留されて調べられるというのが、どの程度本当なのか、私は経験がないから、メディアなどの情報で判断するしかないが、たくさんの取材記事があることからみれば、おそらく事実なのだろうと推測する。警察が行うべきことは、自白をしなくても、犯罪が確実にその被疑者によって行われたという物的証拠を揃えることだ。そういう証拠を揃えるならば、自白がなくても訴訟は維持できる。
 ところが、自白重視の取り調べが行われ、長期間の拘留がなされているが故に、実際に裁判になると、その自白を撤回するという事態が起きる。自白すれば釈放されると、執拗に言われれば、とりあえず、いま罪を認めて、裁判になれば撤回すればいいや、という気持ちになるということだろう。それは、甘い判断で、一度認めてしまうと、公判で撤回しても、かなり心証が悪くなり、信じてもらえないことがおおいそうだが、そうなりやすい状況に置かれるということだろう。 
 弁護士を取り調べに同席させれば、こういうことは起きない。というより、私は、密室の取り調べと、犯罪を認めたにもかかわらず、公判が開かれ、ときとして自白の撤回などが起きるのは、セットだと思っている。
 この点から、第二の点になる。弁護士同席の取り調べということは、容疑者は、意に反して、自分に不利なことを認める必要がないということだ。弁護士が守ってくれる状況で、犯行を認めたとすると、それは間違いなく、容疑者が犯人だと考えてよい。とすれば、わざわざ事実審理を含む公判をする必要はなく、検察と容疑者、そして、弁護士も一致して認めた「事実」を踏まえて、量刑を決めればいいだけだ。裁判自体が、非常に社会的・国家的コストが大きい事業である。国民は裁判を受ける権利を有するから、必要な裁判はきちんと行わなければならないが、容疑者が犯罪容疑を、弁護士の保護の下で認めている以上、公判を開かなくても、権利に抵触することはないと解釈できる。検察の主張に異論があるときには、もちろん、裁判を受ける権利を保障する必要がある。裁判というのは、基本的に、主張が対立するときに、公開の訴訟で、決着をつけるものだ。逆に、犯罪事実と犯人に関して、一致しているのに、わざわざ審理するのは、無駄ではないか。民事訴訟だって、和解すれば、口頭弁論は開かれない。
 取り調べの可視化について、弁護士同席の代替にはならないことは明らかだろう。すべて録画したといいつつ、していない部分があったり、あるいは編集してある部分を削除して弁護士に渡すことが、絶対にないという保障はない。また、すべて渡したとしても、それをすべて弁護士がチェックできるかは疑問だ。弁護士同席システムにすることによって、警察、検察側の証拠調べも充分なものにならざるをえなくなるし、時間も合理的な範囲に縮めなければならない。こうした合理的なシステムによって、被疑者が容疑を認めれば、その時点で有罪が決まるほうが、検察にとっても、ずっとよいのではないだろうか。検察の取り調べと、推定無罪の被疑者の権利を守ることとは、こうして両立可能なのである。検察にのみ都合のよい、これまでの取り調べ方法は、所詮国際的な支持もえらない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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