2月号の第二特集は、「『みんなの学校』は誰のもの?」という、テーマとしては、かなり刺激的なテーマだ。しかし、ざっと読んだ限りでは、このテーマそのものを掘り下げた文章は、あるのだろうかという印象だ。そもそも「みんなの学校」という概念自体、そうとう検討の余地ありではなかろうか。学校は本当に「みんなの」ものなのか。公立学校は、少なくとも、何かの要素で制限するということはあってはならないわけだから、「みんなの」という形容は、とりあえず納得できるが、私立学校は、特別な教育理念があってもいいわけだから、その理念にどうしても納得できない人は、排除されることになるだろう。明確なキリスト教の学校に、絶対にキリスト教的な要素は容認できないという人を受け入れる義務はないように思われる。というより、もともとそういう志願者はいないだろうし、そうした人を含んだ「みんなの学校」とは考えていないだろう。このような検討は、この特集ではしていないが、私は、かなり重要な事項であるように思われる。
なぜ、そうした検討をしないかを、私なりに推測してみると、教科研(実は私も会員だが)は、学校選択制度に反対する人たちが、中心メンバーに多い。学校選択制度に反対するは、学校は、基本的に等質の水準を確保しているという前提に依拠するものだ。兼子仁が、『教育法』(新版)で書いたように、学校指定の根拠は、すべての公立学校が一定以上の水準をもっていることだ。他方、学校選択賛成派は、学校は多様であるべきで、多様性が確保されるなかで、自分の望む教育をする学校を選択するシステムが、教育を受ける権利を保障する上では不可欠であると考える。原理的に学校選択に反対すると「みんなの学校」という意識になるが、学校選択を前提にする立場からすれば、学校は「みんなの」ものである必要はない。これは、現代の教育に多様性があったほうがいいのか、あるいは基本的な水準が等質で満たされるほうがいいのかという問題にかかわっている。私は明確に以前から選択派であるので、もともと、「みんなの学校」という概念には、慎重にならざるをえない。
しかし、それはこの特集のテーマではない。
小山郁夫「東京賢治シュタイナー学校の挑戦」を紹介しつつ、考えてみよう。
東京賢治シュタイナー学校は、幼児教育から、18年間の教育をする学校だが、ホームページによると、高校以上については、シュタイナー学校の教師養成コースになっているようだ。シュタイナー学校を名乗るためには、シュタイナー学校の特別な教員養成課程があり、そこで免許をとった教師が在籍していなければならない。現在中心的な人が、その免許をドイツでとったということだが、他の教師たちの養成をここでやっているということのようである。(教師養成課程については、本論では触れていない。)
この学校は、名前の通り、宮沢賢治の教育理念とシュタイナー教育の理念を合わせて核としているということだが、教育の方式は、明らかにシュタイナー教育に則っている。8年間の担任やエポック授業などが軸になっているし、成績表のつけ方も、子安美千子氏が紹介したように、年一度の記述によるものだ。
小山氏は、学校の方針として、学校をつくる力は3つあるとして、教師の力、保護者の力、地域の力をあげている。
教師の力に関しては、「全体から部分へ」という目を重視する。まず全体として、みて、部分に分けていく作業が重視される。足し算は、10=1+9=2+8・・・というように、全体から入るとする。第二に「芸術を愛でる心を育む」として、楽器、演劇を含め、芸術教育を重視する。そして、「痛みを受け入れる勇気をもつ」ということ。成長には痛みが伴うし、また保護者と一緒に活動していれば、軋轢も生じる。そういうなかで、痛みを成長の糧にするということだろう。
保護者の力については、この学校の場合、特に重要な意味をもっている。本論のなかでは触れられていないが、東京賢治シュタイナー学校は、いわゆる日本的な意味での「フリースクール」だ。つまり、そこに籍があれば、通学していることになるという「学校」ではない。だから、それぞれの地域の学校に在籍しつつ、出席はせず、毎日この学校に通学するという形をとっている。いってみれば、最初から不登校する予定で、指定の公立学校にはいり、実態は、東京賢治シュタイナー学校の生徒だという形である。だから、補助金はまったくでないので、すべてを保護者の納入金に頼っている。ホームページを見ると、たくさんの教員スタッフがいるようだから、かなり運営は苦しいし、教員の給与なども少ないに違いない。だから、保護者がボランティアでいろいろな活動を支えることになる。そういう意識があり、かつ教育理念や方法に共鳴する保護者が、子どもを入学させているということだろう。
地域社会の力としては、農業が重視され、実際に農業用地を使わせてくれるところがあり、実習をしているという。宮崎県や長野県ということだから、頻繁に実習することはできないだろうが、生きた地域社会そのものから内面を形成し、強化する力を得ているということだ。
以上が本論の紹介だが、「子どもの力」というのは、位置付いていないのだろうかという率直な疑問は拭えない。
シュタイナー教育は、かなり特別な理念と方法をもったものなので、合う・合わないの差が大きい。すべての子どもに、適合するとはいえない。だから、多数あるヨーロッパのシュタイナー学校でも、退学者は多い。合わないと感じて、通常の公立学校に転校するひとたちだ。おそらく、この学校でもそうした生徒は少なくないに違いない。残念ながらその部分については触れていないし、また、ホームページでも同様だ。しかし、合わない子どもがやめたりすることは、決して、その学校の不名誉ではない。ある理念に基づいた教育方法が徹底している証拠であり、適合する子どもにとっては、大きな飛躍が期待できる。
こうした学校が、補助金を得て、もっと保護者の負担が少なくなるような教育行政が実施されなければならないと思う。経済特区制度を利用して、学校としての位置づけを獲得しているシュタイナー学校は、他にあるが、ただ、経済特区制度での認可は、補助金の対象にならないので、おそらく、財政的な改善にはならないだろう。公立学校に在籍して、不登校状態になるということは解消できるのだが。
ただ、あえてそうしているのだとしたら、公立学校に通いたければ通ってもいい、東京賢治シュタイナー学校のほうがよければ、そちらにずっと通学しよう。そういう選択を、子ども自身に認めていく、つまり、どういう教育を望むのかを考えさせる契機にしたいと考えているのかも知れない。そこらの事情は、私の読んだ限り、どこにも書かれていないのでわからない。その意味は、充分にあるとは思うが、ただ子どもにストレスをもたらす要因になるかも知れない。「葛藤と痛みを受け入れる」方針で、それをプラスに変えていこうということだろうか。
最後に特集の「みんなの学校」という点から、考えてみよう。シュタイナー学校は、いわゆるオルタナティブスクールとしては、国際的にもっとも多い学校である。そして、当然だが、ほとんどの場合、私立学校ではあるが、公的な援助を受けている。オランダは、公立私立の財政的平等が確立しているから、義務教育段階は、授業料は無料である。オランダ以外は、授業料をとるが、それでもかなり安い。日本は、学習指導要領の則った教育をしなければ、通常の学校法人として認められる私立学校にはなれない。だから、シュタイナー学校は、長く日本には存在しなかった。今では、先述したように、経済特区制度で「学校」にはなるが、補助金がないといういびつな形になっている。だから、授業料が高く、私立大学並みである。小学校段階からそうした費用を負担できる家庭でないと入れないということになっている。それを経営者が望んでいるわけではなく、あくまでも日本の教育行政がそうさせているのだが、日本の公教育を豊かなものにするためには、こうした国際的に確固とした基盤をもった教育スタイルが、普通に存在できるような補助をすることが重要である。