最終講義2 予習・討論を促す試み

予習を促す試み
 それで、これから、具体的にどうやってきたかということですが。まず最初に予習を促すための作業についてです。これはいろいろとやりました。
 予習をしてもらうためには、教材がなければならない。簡単な方法としては、テキストを指定して買わせる。私は、どうも学生にテキストを買わせることに躊躇がありました。アメリカの大学では、100人の履修学生がいて、テキストを指定すれば、そのテキストを100冊大学が用意して、図書館に置いてくれるというのですね。そういうことは、日本の大学ではとうてい望めないので、自分で作るしかない。それで、授業の一回分くらいのものを、私が作文しまして、プリントを作って、研究室のドアの脇に、レターケースを置いて、2,3日前にプリントを入れておく。必ず事前にとって、読んで授業にでなさい、と言っていたわけですが、実行してくれた学生は、少数はいましたが、少数しかいない。僕が授業にでるために、ドアをあけて出ようとすると、そこに学生がたくさんプリントをとりにきているわけですね。だから当日とって、授業中読む、読みながら聴くという学生が多くて、予習にはなっていない。 “最終講義2 予習・討論を促す試み” の続きを読む

最終講義1 知的能力向上

1月25日に行った最終講義を、何度かにわけて掲載します。実際の講義そのままではなく、若干読みやすくする変更はしてあります。

最終講義の意図
 ただいま紹介にあずかりました太田です。今日は、お忙しいところ、わざわざおいでいただき、ありがとうございます。最終講義というのは、最初は、やる気なかったんですけど、それでは、まずいかなと思いました。それでやることにしました。通常は谷口先生がやられるように、研究に関することを話すことが多いかと思うのですが、私は教育学者ということもありまして、教育学を研究しつつ、大学での教育活動をどうしていくかということは、絶えず考えていましたので、テーマに書いてあるように、「文教大学の教育活動で目指したこと」を、テーマにして話そうと思いました。めざしたことをひと言で言えば、「学生諸君の知的能力を向上させる」、そのために、「できることはなんでもやる」ということでやってきた。それを具体的にどういう風にやってきたか、どういう成果があったのか、あるいはなかったのかということについて、お話したいと思います。 “最終講義1 知的能力向上” の続きを読む

野村ノート(再論)

 昨日、野村ノートの出版を望むと書いた。野村の書いた本を何冊か読んだが、念のためアマゾンをチェックしていたら、『野村ノート』という本が出版されていることがわかり、野村が日頃つけていたノートだというので、早速購入して読んでみた。しかし、予想通り、それは私のいう野村ノートではなかった。確かに、野村ノートを元にしているのだろうが、これはあくまでも、野村が書いた著作だ。私が考えているのは、野村のつけていたノートをそのままコピーするなり、写真製版したものだ。もちろん、だれかの解説が付されているほうがよいが、そのままでもよい。そんなものより、本人が書いた、整理された内容があればいいではないか、と思う人も多いかと思うが、やはり、取捨選択してかみ砕いたものは、たとえそれが本人が書いたものであっても、別物であり、オリジナルの書きつけたものには、それだけの価値がある。
 音楽の世界で考えてみると、その違いがよくわかる。
 たとえば、ベートーヴェンのピアノソナタの楽譜は何種類も出版されているが、実はみんな同じではない。音符そのものはほとんど違いはないとしても、強弱に関する記号、指使い、スラー、ペダルなどは、けっこう違いがあるのだ。 “野村ノート(再論)” の続きを読む

野村元監督の死 野村ノートの出版を願う

 子どものころは、東京育ちだから普通に巨人ファンであったので、パリーグの試合を見ることは、駒沢球場がなくなってからはほとんどなかった。オリンピック会場が建設される以前は、駒沢には東映フライヤーズの本拠地の駒沢球場があり、そこはよく見に行った。小学校時代、友達とだ。思い出に残っているのは、山本八郎という捕手がいて、直ぐに暴力を振るって退場させられることが多かったのだが、その現場を2度くらい見た。また、近くにある合宿所で、新人のときの張本にサインをもらったこともあった。当時、新人の張本をよく知らなくて、ただうろうろしていただけなのだが、張本がこっちこいといって、自発的にサインをしてくれたのだ。小学生なので、ありがたみもわからずに、そのサインはすぐにどこかにいってしまったのだが。
 そんななか、野村が出る試合を一試合だけ見たことがある。後楽園で巨人とのオープン戦で、どういう事情でチケットを手にいれたのか、まったく憶えていないが、ネット裏の特等席で、野村を間近に見たことははっきり憶えている。もちろん、まだばりばりの現役キャッチャーだった。長島や王が目当てだったが、ネット裏だったから、野村のほうが印象に残った。 “野村元監督の死 野村ノートの出版を願う” の続きを読む

指揮者のリハーサルビデオ フリッチャイ

 最近、指揮者のリハーサルビデオをいくつか視聴した。クライバー、ベーム(ドン・ファン)、カラヤン(シューマン4番)、フリッチャイ(モルダウ)等。市民オーケストラで演奏していることもあるが、以前から指揮者に最も興味があるので、こうしたビデオはできるだけ見るようにしている。このなかでは、フリッチャイのものが、非常に興味深く感じられた。というのは、フリッチャイが病気に倒れて、極めて健康状態の悪いときになされたリハーサルだからである。
 フリッチャイは、1958年に白血病と診断され、大手術を受け休養を余儀なくされたが、1959年夏に復帰したとされる。しかし、1962年に白血病が悪化、翌年3月に亡くなっている。このリハーサルは、1960年6月に行われているので、復帰後1年のときのものだが、前日は苦痛で睡眠もとれないので、よほどキャンセルしようかと思ったのだと語っていたそうだ。 “指揮者のリハーサルビデオ フリッチャイ” の続きを読む

信号機の除去で事故 環状交差点の拡大を

 2月8日の京都新聞に、「12月に信号撤去、軽トラ同士が衝突し重体 市道の交差点」という記事が出ていた。滋賀県、見通しのよい道路で、それまで設置していた点滅式の信号を撤去してすぐの事故だったという。滋賀県では、2017年から、順次信号を撤去しており、これまでに70基を撤去しているという。

 こんな感じの道路になっているという。(京都新聞掲載)事故が起きた時間帯が記事には書かれていないのだが、注意深く運転すれば、確かに事故は起きにくい道路であるとは思う。左右前後の見通しはとてもよい。にもかかわらず出会い頭の事故が起きた。それは、優先順位が一瞬あいまいになったのだろう。もちろ、「止まれ」のない方が優先道路であり、「止まれ」がある方は、その場合絶対に止まって、相手側が通ってから交差点にはいらなければならない。しかし、「止まれ」の信号は、普段の運転では見過ごされがちなものだ。とくにそれまで信号があったとすれば、とくにそうだろう。 “信号機の除去で事故 環状交差点の拡大を” の続きを読む

読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)

 クラシック音楽の聴き方に関して、「モーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる」という言葉がある。私の場合、確かにそれが当てはまる。子どものころ、我が家にあった古いレコード、当時は既にLP時代に入っていたのではないかと思うが、我が家には、手回しの蓄音機とSPレコードしかなく、LPを買うようになったのは、2,3年後だった。そこで、ブルーノ・ワルターのSPを何度も繰り返し聴いたものだ。そこにモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークとジュピターがあった。戦前のウィーン・フィルの録音だ。アイネ・クライネの演奏に関しては、いまだに、この演奏を越えるものを知らない。ただし、CDになったその演奏は、SP時代の潤いのある音質がなくなっている。SPは確かに針の音がはいって、聞き苦しかったが、回転数が速かったせいか、音そのものは悪くなかったのだ。とにかく、モーツァルトから始まったのだが、その後、ベートーヴェン、マーラー、ヴェルディとめぐって、やはり、モーツァルトが最高というところに戻ってきた。だからモーツァルト本は、できるだけ読むことにしていて、今回この本を読んでみた。 “読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)” の続きを読む

管理教育・体罰・懲戒

 教育実習を行った報告を聞いていると、ここ数年荒れた中学が増えてきたような気がする。もちろん、80年代の校内暴力が吹きあれた時代ほどではないが、学級崩壊している状態、つまり、たち歩く、教室から出てしまう、教師のいうことを聞かないなどの状態である。また、実際に教師になった卒業生が、学級運営に苦労して、学級崩壊寸前までいってしまったという話も、ときどき入ってくる。
 朝日新聞の記者であった佐田智子が書いた『新・身分制社会 「学校が連れてきた未来」』(太郎次郎社1983)の一部を読みかえしてみた。新・身分社会とは、いうまでもなく、学歴が新たな身分社会を作り出しているという意味であるが、この本の「管理のなかの自由と平等-教育の構造が生みだす校内暴力」という章に関してである。
 通常の理解では、1970年代に大学紛争が高校にまで及び、70年代と80年代を通じて、校内暴力が吹きあれた。それを、体罰などをもちいた管理主義を徹底させることで押さえつけ、全員加盟制の部活などで、さらに生徒たちを縛りつける教育が進行した。その結果校内暴力はおさまったが、いじめや不登校などの問題が生じた。今度は、「ゆとり教育」でストレスを緩和する教育で対応しようとしたが、学力低下をもたらしてしまい、ゆとり教育は失敗した。そして、学力重視の現在に至っている、というような大きな構図が描かれている。 “管理教育・体罰・懲戒” の続きを読む

読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)

 大学を退職して、これから自由な研究ができると思っている。ただ、義務もないし、いつまでに何をということもないから、本当に気楽だ。ただ、大学では近年、研究倫理に極めてうるさくなっている。ネットで受講する研究倫理の講座と試験を受けなければならない。全員修了しないと、対文科省においてまずくなるということで、大学管理者は非常に神経質になっている。大学に迷惑かけるわけにはいかないので、修了したが、実際には、私の研究にはほとんど関係ないことばかりだった。実験したり、データとったりする領域では、倫理問題は重要であるし、特に医学や生物分野などは、人間や動物を扱うので、守らねばならない倫理問題は多数ある。そして、身近に自然科学の研究者がいるし、研究不正問題がその周辺で起きているので、他人ごとではない。 “読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)” の続きを読む

検察への違法な政府の介入


 黒川東京高検検事長の定年延長を閣議決定した件が、法曹界で大問題になっている。多数のコメントが出ているので、特に新しい見解をだすことではないが、批判の数を増やす意味もあるだろうと、考えをまとめてみる。
 安倍内閣に関わる不祥事を、検察がもみ消したと思われる事実は少なくない。どこまで黒川氏が関与していたかは、もちろんわからないが、報道によれば、安倍内閣に極めて近く、逮捕起訴されてもおかしくない事件で、緩い対応だった事例がいくつかあるそうだ。そして、定年延長は、明後日の2月7日に定年退職する黒川氏を、本年8月に定年退職する稲田検事総長の後任にするためであると、多くの報道機関によって伝えられている。もちろん、先に定年退職している人を検事総長に昇格させることはできないからとった措置であろう。
 報道によれば、同期の林真琴名古屋高検検事長と黒川氏が長年のライバルで、どちらかが検事総長になると、前から予想されていた関係なのだそうだ。しかし、定年の関係で、黒川氏はなることができず、自然に林氏になると考えられていた。黒川氏が安倍寄りのスタンスであるのに対して、林氏はニュートラールな姿勢だということで、法曹界では、その点でも林氏を支持する声が多いという。安倍内閣は、稲田検事総長を、定年前に辞めさて、黒川氏にバトンタッチさせたかったが、稲田氏が自発的な辞任を拒んだために、黒川氏の定年延長という、違法行為にでたということだ。 “検察への違法な政府の介入” の続きを読む