教師の養成について考える2 実習について1

 私の勤めていた大学は、教育実習にいった学生の研究授業を見に行くことが義務づけられている。もっとも、近郊の都県だけで、遠いところは行かない。教育実習は、小学校は4週間、中高は3週間あるのだが、学生にとって、この経験は非常に大きい。私は、教職科目のいくつかの科目を担当していたが、自分では教職免許はもっていない。小学校や中学校の教師は、性格的にむかないと思っていたことと、高校時代に研究者になることを決めていたためでもあった。だから、現場のことを知るには、教育実習を訪問することは、とても有意義だった。訪問が義務になったのは、私が勤めてから大分経ってからだが、私は教師一年目から、卒論担当のゼミ学生の教育実習を訪問して、その頃はビデオを気軽に撮影することができた。
 このビデオ撮影はとても有意義なもので、学生が大学に帰って来てから、反省材料にしてもらったり、あるいは、翌年実習に行く学生が、雰囲気を知るためにもとても効果的だった。
 しかし、ある時期から、ほとんどビデオ撮影は許可されなくなり、学生の教育上非常に不便になったと感じている。ある時期というのは、個人情報保護が重視されるようになってからだ。もっとも、そうなっても、その学校の教師が撮影することは、けっこうあって、もし個人情報が漏れて危険だというなら、その学校の教師が撮っても、大学の教師が撮っても同じではないかと思うのだが、実習は将来教師になる学生にとっての重要な実地の学習だから、そういう点でのおおらかさを期待したいと思っている。 “教師の養成について考える2 実習について1” の続きを読む

新型コロナウィルス対策は現行法でもできるはず

 安倍首相が、突然2月末に全国の小中高を休校にするという発表をしてから、政府が俄然動き出したように見えるが、逆にいえば、社会ではかなり混乱も生じており、やがては終息するだろうが、この混乱のつけは、かなり大きく社会の負担になると思われる。
 動き出した他のひとつは、新型インフルエンザ対策特別措置法改正である。現状では野党も賛成せざるをえないだろうから、早々と成立するようだが、この議論には、かなり気になる面がある。それは、法が整備されていないので、なかなか対策がとれないのだという主張である。だから、特措法の改正が必要だと政府は主張している。しかし、特措法の改正がなくても、かなりのことができる。というより、政府がやる気があるなら、ほぼなんでもできるだろう。明らかに違法である検事の定年延長までやってしまうくらいの内閣なのだから、得意の解釈変更でやることだって可能だろう。検事の問題は、自分たちに危険が及ぶのを防ぐためだから、まさしく「悪事」だが、感染症対策であれば、少々の解釈変更を、国民は前向きに受け入れるだろう。
 だから、法整備がないから、というのは、これまでの無為無策の糊塗に過ぎない。 “新型コロナウィルス対策は現行法でもできるはず” の続きを読む

チェリビダッケのリハーサル1

 チェリビダッケのDVDボックスが格安で売られていたので、入手して、リハーサルを見た。ミュンヘン・フィルとのブックナーの交響曲9番である。また、クラシカジャパンで放映されたベルリンフィル復帰コンサートの7番を再度見直した。
 率直にいって、私はチェリビダッケは好きではない。どちらかというと嫌いな指揮者だ。よくあるパターンで、あのテンポの遅さに耐えられない。また、指揮者としては理論派で、とにかく哲学的な内容をオーケストラ団員にも長々と語る。オーケストラの楽団員にとっては、そういうお話は、有り難くない。むしろ、うんざりするのが本心だろう。ベルリンフィルとのビデオでは、現在は引退した古い団員のチェリビダッケに関する思い出話がかなり出てくる。チェリビダッケがベルリンフィルを指揮していたころは、当然20歳前後の若手だった。チェリビダッケが団員と軋轢が生じたのは、主に古参団員との間だったようで、若手には人気があったそうだ。フルトヴェングラーがナチ協力の疑いで、演奏禁止されていた時期、ほとんどの演奏会をチェリビダッケが指揮していた時期もあったようだし、結局、フルトヴェングラーの死の直前に、最終的な決裂をして、ベルリンを去るまで、絶対的な指揮者であったフルトヴェングラーよりずっと多くの演奏会を指揮していたはずである。しかも、最初にベルリンフィルを指揮したときには、まだ音大を卒業したばかりで、実際のオーケストラを指揮した経験がほとんどなかったというのだから驚きだ。あの時代でなければ、絶対になかったチャンスだった。しかし、ものすごい勉強で、ほとんどの曲を暗譜で指揮したという。しかも、かなりベルリンフィルとしても新しいレパートリーも含まれていた。 “チェリビダッケのリハーサル1” の続きを読む

『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える2

 今回は、米津直希氏の『学生の「自治的活動」と学び』を取り上げる。
 2019年3月の大学評価学会における中山裕之氏の報告が、大学における生活指導の領域(部活動、サークル活動、自治会活動、社的な活動など)を「課外の自治的活動」としてとらえ、青年期の発達における意義と位置づけを検討したもので、討論の結果、「そうした能力の形成が大学教育、あるいは青年期教育において重視されるべきだとの認識が得られた」とする。最後の「認識が得られた」というのが、多少わかりにくい。というのは、このあとすぐ、「学生自治」に関して、1968年からの大学紛争で得られた認識は、日本においても、また、ヨーロッパやニュージーランドにおいても、学生参加や自治会活動が、「学生教育として位置づけられているのだろうか」と疑問を呈しているからである。日本においては、そもそもが貧弱な成果しかなかったのだが、ヨーロッパでは、学生参加の権利は、高等教育だけではなく、中等教育のレベルまで保障されている。そして、初等・中等教育においては、父母の参加も制度化されている。そして、米津氏の指摘するように、それは、「学生教育」として位置づけられているのではなく、運営に対する参加の権利として位置づけられているのである。 “『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える2” の続きを読む

『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える

 『教育』2020年3月号の第二特集が、「大学で、教養と教育を考える」である。4つの論考が掲載されており、それぞれ興味深いが、まずは教科研委員長である佐藤広美氏の『「三つ編み」の学び--学問を自己と社会に結ぶ』を取り上げる。
 佐藤氏は、卒業研究をする場である氏のゼミは、なんでもありだということになっていて、美容、アイドル、恋愛、食文化、痩身願望、不登校など多様なテーマを扱っていると書き、そんな中、最終盤でテーマをかえた学生の事例を、このテーマの題材として提起している。高校時代に告白されて友人関係が切れてしまった、それを研究テーマにしたいということで、セクシュアルマイノリティとの出会いを通して自分の生き方を考える卒論を書いたという例。それから、小さいころ虐待され、母子で児童養護施設に避難した経験、その後出会った里親(制度)について書いた例。佐藤氏は、このふたつを、自分が切実に感じる問題を学問の対象とし、自分一人の問題ではなく、社会的な広がりをもって存在し、学問的に解明できることを経験してほしかったという位置づけをしている。
 ただ、私には、佐藤氏のいわんとするところが、あまり明確には理解できなかった。後者の事例は分かりやすいが、前者の事例は、高校時代の経験とセクシュアルマイノリティとの出会いという関連が、明確ではないからである。
 それはさておき、「自分の切実な問題」は「社会的な広がり」があるということと、学問的に解明できるということは、どういうことなのだろう。単にそう書かれていても、大学での教育や教育の分析は、それは結論ではなく、出発点ではないか。 “『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える” の続きを読む

自転車巻き込み事故は、いつも車の責任か 自転車免許制度は必要だ

 トラックと自転車の事故は、最悪の事態になる場合が少なくない。先日、18歳の女子高生が自転車を運転していて、左折トラックに巻き込まれ死亡する事故があった。トラック運転手が逮捕されたとニュースで報じられていたが、どのような状況で事故になったのかは、説明がなかった。車を運転していると、とにかく、自転車にはひやりとさせられることがある。私も、人身事故一歩手前になったことが2,3回ある。いずれも、スピードをだしていなかったために、事故にならなかったが、自転車がいたら、とにかく注意するようにしている。
 しかし、上のような事故報道に接したとき、本当に運転手が悪いのか、いつも気になる。もちろん、そういうこともあるだろうが、車を運転するには、試験があるし、また、事故が起きたら大変だから、ほとんどの人は注意しながら運転している。他方、自転車の場合、まるで交通法規など知らないというような、乱暴な運転をする者が少なくない。統計によると、車と自転車の衝突事故では、自転車側に、違法な運転があったとされるケースが60%以上あるのだそうだ。 “自転車巻き込み事故は、いつも車の責任か 自転車免許制度は必要だ” の続きを読む

アバドのドキュメント「沈黙を聴く」を見て

 アバドのドキュメント「沈黙を聴く」は、DVDボックスセットのなかに入っており、以前にもこのボックスの演奏をいくつか書いたが、改めてこれを視聴した。繰り返しになるが、クラウディオ・アバドは、私がもっとも好きな指揮者の一人だ。まだ30代のときから、ファンだったといえる。最初に買ったのが、ロッシーニの「セビリアの理髪師」で、これは、いまでもこの曲のベストだと思っている。映像バージョンもあって、ポネルの演出のオペラ映画で、ロッシーニにあってほしいと思われている「おふざけ」にも事欠かない楽しい映画だ。
 アバドのドキュメントは多数あるが、「沈黙を聴く」は、アバドがベルリンフィル常任の途中で、癌にかかったために、契約の更新をしないと表明して、手術後復帰したあたりまでを描いている。契約を更新しないと表明したのは、ベルリンフィル史上初めてだ、ショックだったと楽団員が語っているが、途中でやめたという意味では、初めてではない。そもそも、アバド以前の3人の常任指揮者は、形式的には、任期のない終身制の指揮者だった。しかし、フルトヴェングラーは聴力が衰えたために、辞任しているし、カラヤンは喧嘩分かれして辞任した。もっとも、二人とも、辞任後数カ月で死去している。 “アバドのドキュメント「沈黙を聴く」を見て” の続きを読む

羽田新ルートの問題 着陸の安全性は?

 新型コロナウィルス問題があまりに大きくなって、もうすぐ始まる、羽田着陸の新ルート問題は、あまり取り上げられていない。「全国新聞ネット」(2020.3.2)に「羽田都心新ルート、これだけある危険な理由 落下物や騒音だけじゃない深刻リスク パイロットには恐怖の空港に」という元パイロットで航空評論家の杉江弘氏の文章が載っている。これは、映像によるインタビューとして掲載されていた内容と基本的に同じで、その後文章化されたものだ。(ただし後述するように、重大なことが削除された内容になっている。)昨年末か、新年早々かは忘れてしまったが、この新ルートの実験的飛行が開始されるという記事があった。私の親しい人物が、ちょうどそのルートの下に住んでいるので注目した。実験後の記事も少しだけ見たが、かなりの騒音だったという。
 それより問題なのは、杉江氏の指摘する安全性だろう。 “羽田新ルートの問題 着陸の安全性は?” の続きを読む

演劇公演中止に対する野田秀樹氏の声明

 新型コロナウィルスの影響で、学校が全国的に休校になっている。(もちろん、すべてではない。)スポーツも無観客試合の形式で行われるものが多くなっている。そうしたなかで、野田秀樹氏が声明をだした。意見書を全文引用しておこう。

意見書 公演中止で本当に良いのか
コロナウィルス感染症対策による公演自粛の要請を受け、一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます。演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。もちろん、感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません。けれども劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄(しんずい)をついた言葉かと思います。 野田秀樹(毎日新聞2020.3.1)

 私も同感である。 “演劇公演中止に対する野田秀樹氏の声明” の続きを読む

ベルリオーズの「ファウストの劫罰」

 ベルリオーズの「ファウストの劫罰」は、ずいぶんと奇妙な音楽だ。もちろん、ゲーテの「ファウスト」の内容に剃った音楽だが、構成は違うところが多いし、また、原作にはない場面が挿入されていたりもする。また、ベルリオーズ自身が、どのような形態での上演を考えていたのかも、あまり明確ではないようだ。
 更に、ゲーテのファウスト自体が、現在、原作のままで上演されることはあるのだろうか。私は、2003年に、ドイツで実際にファウストの野外公演を見たことがある。しかし、それは、原作をかなり短縮したもので、野外だから、あまり仕掛けはなく、リアルな形式での上演だったように思う。話題になったのは、メフィストフェレスが女性だった点だった。メフィストフェレスは悪魔だから、男性に限定することもないのかも知れないが、通常は男性がやる。ドイツ人に、女性だったと話したら、怪訝な顔をしていた。 “ベルリオーズの「ファウストの劫罰」” の続きを読む