朝日新聞2020.3.17に、「『大学蔵書を大量廃棄』梅光学院に作家ら106人抗議」という記事がでている。山口県下関にある梅光学院大学が、図書館の蔵書を廃棄していることに、作家たちが抗議しているという記事だ。
記事によれば、大学は、36万冊の蔵書があるが、7年前から25000冊減っているという。「梅光学院大学図書館を守る会」という団体が、抗議しているわけだが、おそらくその団体の話だろうと思うが、
・大学の研究論文や調査報告書を掲載した紀要7-8万冊がすべて廃棄されている。
・資料価値のある新聞縮刷版や辞書辞典類、図録、江戸後期の和古書などの廃棄を確認。
ということのようだ。そして、記者会見で、「本は大学だけのものではない。日本の歴史が詰まっている。電子書籍もあるが図書館という根本のところで紙で所蔵しないのは問題だ」と指摘したという。そして、中原館長自身が、「図書館は未来の読者への責任を負っており、無秩序な廃棄はやめるべきだ」と述べたという。
さて、この記事をみて、みなさんはどう思うだろうか。 “大学蔵書の廃棄 場所がないときはどうすればいいのか?” の続きを読む
投稿者: wakei
「宿題」というテーマから考えること
『教育』を読むということで、今月号の特集テーマである「宿題」についての文章の検討をした。せっかくなので、私自身の考えや体験を書いてみたい。
宿題をだすことの意味は、いろいろあるのだろうが、大学でも宿題をだす教師はいるし、私自身、かつて、非常にきつい宿題をだしていたことがあった。また、定年まで、教科書を自分で作成して、それを事前に読むことは、日常的な授業での課題としていた。明確な宿題ではないが、似たようなものだったろう。ただし、提出などはもちろんないのだが。
かなりきつい宿題については、「最終講義」のなかで若干触れているが、再度紹介する。大学の一年生が主に受講する「生涯教育概論」という授業で、「自伝」を書かせていたことだ。年間の宿題として出し、主に夏休みなどに書くようにさせていた。秋になるとぼちぼちだしてくるので、今考えると、書く方もずいぶん大変だったろうが、読む自分もずいぶんと大変な作業をしていたことになる。間違いなく、これは全部読んだ。レポート用紙20枚が最低基準であり、それ以上いくら書いてもいいということにしていた。この宿題を最初の授業でだすと、当然驚きの声があがるのだが、実際に書き始めると、だんだん興味深くなるようで、40枚くらい書く学生もたくさんいた。 “「宿題」というテーマから考えること” の続きを読む
『教育』2020.4を読む 宿題を考える2
研究者とジャーナリストの次に、小中の教師と保護者、塾の運営者の宿題論が続く。
まず、中学教師の柳井良壽氏の「子どもの学びを励ます」は、朝授業のために教室に入ると、前の時間の教師だろうか、宿題を忘れた生徒を叱っている場面に出くわす。宿題を忘れたケン→明日やってきて、朝一番に提出すると約束→してこなかったので叱責という状況だった。そして、その教師は、「約束を守れない人は人から信頼されない」「友達がいなくなる」といって説教する。
しかし、柳井先生は、このやりとりに違和感を感じているようだ。宿題を提出できない生徒はいつもいる、子どもの生活が忙しすぎる、自分の時間をもっていない。こういう状況で宿題などできない生徒がいても、仕方ないのではないか。
宿題などださなくても、勉強してくる主体的学びができたらいいのに、と他の教師に語ると、そんなの理想だよと一蹴される。 “『教育』2020.4を読む 宿題を考える2” の続きを読む
チェリビダッケのリハーサル3
チェリビダッケは、映像などを見れば見るほど不思議な人物に思えてくる。そういう意味では、カルロス・クライバーと双璧だろう。クライバーは、父親の反対を押し切ってまで、指揮者になったのに、指揮することを拒むような指揮者になっていった。小沢征爾は、クライバーのことを、「彼は、いつも、予定された演奏会を、どうやったらキャンセルできるか、その理由を探していた」と述べている。本当にささいなことで、キャンセルしている。ベルリンフィルを初めて指揮することになっていたときに、「新世界交響曲」の楽譜を、新しく買ってほしいと事務局に注文を出し、新しい楽譜に、自分の注意書きを転記してほしいのだと言い添えた。ところが、事務局では、その要求に応えるには時間がかかりそうだということで、いつも使っている楽譜(パート譜のこと)にある書き込みをきれいに消し去って、とりあえずきれいな状態にしていた。ところが、早めにやってきたクライバーは、そのパート譜を見たとたんに、新しくないではないかと憤って、そのまま帰ってしまったというのである。予定通り、演奏旅行から帰って、練習会場にやってきたメンバーを待っていたのは、指揮者がいない状況だった。そうした事態を引き起こした事務員は、カラヤンに、このような対応で間違っていたかと質問したところ、カラヤンは、まったく問題なかったはずだ、パート譜はきれいになっているし、と答えたそうだ。次にクライバーが指揮することになったときには、この事務員を、クライバーから目につかないところに退避させたという。 “チェリビダッケのリハーサル3” の続きを読む
『教育』2020.4号を読む 宿題をどう考える
『教育』4月号の第二特集が「たかが宿題 されど宿題」となっている。宿題は、教師にとって非常に悩ましい対象だろう。宿題などださなくても、子どもたちみんなが必要な家庭学習をきちんとやって、学力が確実についていけば、理想的だ。しかし、現実はそれにはほど遠いのだから、宿題をださなければならない気になるし、また、家で勉強するように、たくさん宿題だしてくださいという親もいるだろう。そうすると、子どもにとっては重荷になるわけだから、「何故宿題だすの」という疑問もだされて、それに答えなければならないし、また、だして来ればそのチェックも必要だ。ださない子どもには、催促もしなければならないだろう。子どもにとって重荷であるように、教師にだって重荷であることに変わりはない。
この特集の最初に、編集部の書いた文章が掲載されており、そこには、「させられる教育という言い方に収斂しない、学習としての宿題について問い返してみたい。」と書かれている。しかし、興味深いことに、最初に書かれている丸山啓史氏の「宿題のどこが問題か」と杉原里美氏の「家庭を巻き込む親子参加型宿題-家庭教育の推進を背景に」のふたつが、宿題に極めて否定的な立場から書かれており、そのあとの5つの文章は、宿題に疑問をもちながらも、積極的な意味の模索も感じられる。丸山氏は、大学の教師であり、杉原氏は、朝日新聞の記者である。そのあとは、教師、親、地域活動家である。 “『教育』2020.4号を読む 宿題をどう考える” の続きを読む
神戸教師間いじめの起訴 「寛大」には疑問
神戸新聞2020.3.122に、「教員間暴行の加害教員4人、なぜ起訴されなかった? 兵庫県警内でも意見割れる」という記事が載っている。昨年の教育界での事件として話題となった、教師が教師に継続的ないじめ行為をしていた事件で、警察内で扱いに関して意見が分かれ、「起訴猶予」を求める「寛大」という処分意見が付されて、送検されたようだ。刑事罰を課すべきであるという世間の意見が強かったが、「物的証拠が乏しい上に4人の加害の意識は薄く、2人は職を失った」というのが、その判断の根拠とされる。
被害教員は、100項目にわたるハラスメント行為を訴えたが、加害教員は、「ふざけ合いの延長だった」と犯意を否定し、「動画以外の明らかな物的証拠がない」と立証の難しさをあげたとする。より厳しい措置を求める捜査員もいた。
これに対して、逆といえる処分もあった。一般的に公務員が犯罪の疑いをもたれたとき、刑事処分が決定されるまでは、「推定無罪」が適用されて、実際の仕事を解かれることはあっても、正式な処分はくだされない。しかし、この事件では、処分を待たずに、懲戒処分がくだされている。それに対して、弁護士から不当であるとの申し入れもあった。 “神戸教師間いじめの起訴 「寛大」には疑問” の続きを読む
チェリビダッケのリハーサル2
「チェリビダッケのリハーサル1」を書いてから、いくつかチェリビダッケの演奏を聴いてみた。
チェリビダッケはレコーディングをまったく許さなかったという点で、他に存在しない指揮者だった。レコーディングが嫌いな指揮者は、カルロス・クライバーなど他にもいる。しかし、クライバーは、CDでは12枚分の正規録音を残しているし、映像は、正規に許可したものもいくつかある。ただし、死後、自分のライブ録音を市販することを、厳格に禁じる遺言を残していたらしい。だから、私の知るかぎり、死後表れたライブ録音の製品化は、皆無ではないが、極めてわずかだ。「ばらの騎士」「椿姫」「ボツェック」などだろう。しかし、これらは、ファンから真っ先に望まれている音源とはいえないところが、不思議だ。クライバーファンが望んでいるのは、おそらく、バイロイトでの「トリスタンとイゾルデ」、ミラノでの「オテロ」と「ボエーム」などだろう。もちろん、いずれも鮮明な録音で残れされているはずである。とにかく、クライバーは生前は僅かだが、正規のレコーディングを残した。(しかし、晩年は演奏そのものをしなくなったし、セッション録音は、かなり早い時期からしないようになって、発売されるものはほとんどがライブ録音になった。)しかし、死後、録音されているライブを絶対に発売しないように禁止した。 “チェリビダッケのリハーサル2” の続きを読む
3月10日は東京大空襲の日
世の中は新型コロナウィルスで大混乱だが、歴史をふり返っておくことも必要だろう。明日の311は記憶に新しいが、3月10日は東京大空襲(第一回目)の日であることは、歴史的知識としてのみ知っている人が、いまでは圧倒的多数だろう。私もそうだ。終戦間近の原爆の被害が大きく意識されるが、実は、何度も繰り返された東京や大阪等の大空襲の被害者のほうが多いのだ。そして、原爆投下は、政府も真剣に降伏を考えていた時期だが、東京大空襲のときには、戦争続行した。真相はわからないが、3月10日の空襲による惨禍をみて、さすがに降伏を勧めたひとたちがいたようだが、昭和天皇は、「もう少し戦果をあげてからにしよう」と降伏案を退けたという。 “3月10日は東京大空襲の日” の続きを読む
教師の養成について考える2 実習について1
私の勤めていた大学は、教育実習にいった学生の研究授業を見に行くことが義務づけられている。もっとも、近郊の都県だけで、遠いところは行かない。教育実習は、小学校は4週間、中高は3週間あるのだが、学生にとって、この経験は非常に大きい。私は、教職科目のいくつかの科目を担当していたが、自分では教職免許はもっていない。小学校や中学校の教師は、性格的にむかないと思っていたことと、高校時代に研究者になることを決めていたためでもあった。だから、現場のことを知るには、教育実習を訪問することは、とても有意義だった。訪問が義務になったのは、私が勤めてから大分経ってからだが、私は教師一年目から、卒論担当のゼミ学生の教育実習を訪問して、その頃はビデオを気軽に撮影することができた。
このビデオ撮影はとても有意義なもので、学生が大学に帰って来てから、反省材料にしてもらったり、あるいは、翌年実習に行く学生が、雰囲気を知るためにもとても効果的だった。
しかし、ある時期から、ほとんどビデオ撮影は許可されなくなり、学生の教育上非常に不便になったと感じている。ある時期というのは、個人情報保護が重視されるようになってからだ。もっとも、そうなっても、その学校の教師が撮影することは、けっこうあって、もし個人情報が漏れて危険だというなら、その学校の教師が撮っても、大学の教師が撮っても同じではないかと思うのだが、実習は将来教師になる学生にとっての重要な実地の学習だから、そういう点でのおおらかさを期待したいと思っている。 “教師の養成について考える2 実習について1” の続きを読む
新型コロナウィルス対策は現行法でもできるはず
安倍首相が、突然2月末に全国の小中高を休校にするという発表をしてから、政府が俄然動き出したように見えるが、逆にいえば、社会ではかなり混乱も生じており、やがては終息するだろうが、この混乱のつけは、かなり大きく社会の負担になると思われる。
動き出した他のひとつは、新型インフルエンザ対策特別措置法改正である。現状では野党も賛成せざるをえないだろうから、早々と成立するようだが、この議論には、かなり気になる面がある。それは、法が整備されていないので、なかなか対策がとれないのだという主張である。だから、特措法の改正が必要だと政府は主張している。しかし、特措法の改正がなくても、かなりのことができる。というより、政府がやる気があるなら、ほぼなんでもできるだろう。明らかに違法である検事の定年延長までやってしまうくらいの内閣なのだから、得意の解釈変更でやることだって可能だろう。検事の問題は、自分たちに危険が及ぶのを防ぐためだから、まさしく「悪事」だが、感染症対策であれば、少々の解釈変更を、国民は前向きに受け入れるだろう。
だから、法整備がないから、というのは、これまでの無為無策の糊塗に過ぎない。 “新型コロナウィルス対策は現行法でもできるはず” の続きを読む