ある国が、他の国とかなり違う政策を導入して、他国から批判されても退かないことは、たまにある。オランダの麻薬政策、安楽死政策などが代表だが、そうした政策は、少しずつであるが、他の国にも広がっている。そこには、多くの国では実施していないことの理由も、大きく存在しているし、また、新しく始める理由もある。
今の新型コロナウィルス対策でいえば、スウェーデンのやり方がその例だろう。まだ充分に理解しているわけではないが、スウェーデンの試みは、単純に危ない冒険だというように片づける必要はないように思う。ただ、疑問もある。
簡単にいえば、欧米の国がとっているロックダウン政策をとらず、より緩やかな自粛を呼びかける方式をとっている。日本も自粛政策だが、スウェーデンよりは多方面に渡っている。例えば、学校はほぼ全面的に休校だし、客を扱う営業は、かなりの自粛が要請されている。スウェーデンは、小中学校は、授業が行われているし、客を扱う店の営業も、注意はあるとしても、原則認められているようだ。国民の注意によって、事態を乗り切ろうとしているということのようだ。 “スウェーデンの新型コロナウィルス対策で考えること” の続きを読む
投稿者: wakei
検察庁法改訂の断念は当然
安倍首相が、検察庁法改正を断念したと報道されている。ただ、報道をいくら読んでも、国家公務員法はどうなったのか、検察庁法改正の定年延長部分がどうなったのかが、正確に書かれていない。要するに、まとめて成立させようとしたが、無理なので、まとめて断念なのか。問題になっている特例措置の撤回なのか、正確にはわからないのだ。たぶん、まとめて諦めたということなのだろうとは思うが。毎日新聞の速報記事を読んでも、そこらがきちんと書かれていない。毎日新聞の速報の見出しは「検察庁法、今国会での改正断念、世論の反発強く首相近く最終判断」というもので、国家公務員法は触れていないのだ。 “検察庁法改訂の断念は当然” の続きを読む
9月入学にメリットがないのか?
9月入学問題がさかんに議論されるようになっているのは、とてもいいことだと思う。いろいろ読んでいくと、気になる議論があるので、気づいたら、その都度検討していきたい。
明確な反対論として、会計年度との関連で反対する議論があった。「「9月入学」にデメリットの数々、社会のリーダーは民意を読み違えるな」と題する日刊工業新聞の記事で署名はない。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200515-00010003-newswitch-bus_all)
会計年度は4月から始まるとするのだが、それは誤解ではないだろうか。国としての基本となる会計年度は1月から始まると、私は理解している。それは、課税の基礎となる、国民の基本的な資産 が1月時点から12月時点までで計算されるからである。組織としての会計年度が、多く4月からになっているのは、教育全体が4月から始まり、その結果として、人の移動が4月を開始点とすることが多いからであろう。だから、9月入学になれば、社会の新年度がすべて9月になるのであって、これまでの4月から始まる会計年度を9月から始まるようにすればよい。それでも税金の基本となる年度は1月のままだろう。
したがって、会計年度との関係での否定論は、意味がないことになる。 “9月入学にメリットがないのか?” の続きを読む
教育行政機関の不甲斐なさ オンライン授業がなぜうまくいかないか
関東近県でも、休校措置が解かれることになっているところが出てきた。5月中は休校だという前提で動いていたようだが、急に事情が変わったということもあって、現場はかなりてんてこ舞いのようだ。そういうなかで、いわゆる「足並み論」が強固なせいか、学校や地域の自主的な行動を制約し、混乱を生んでいるという声をきく。21世紀の教育は、子どもたちの自ら行動できる能力の向上が、極めて重要であるのに、それを指導する立場の人たちが、自発的な行動を阻害し、かといって、優れた統一的な指針をだすことで、全体的な効率をあげているのではなく、現場をとまどわせているというのでは、何をか況んやである。これは、必ずしも、現在のような緊急事態だからそうなっているのではなく、平素のやり方が、「足並み論」であり、「上からの指示で動け」というものだからだ。今回の騒動で、もっとも欠陥が露になったのは、オンライン教育に関してだと思うが、これは、普段のIT教育のあり方から、ごく自然におきた混乱であるにすぎない。こうした間違ったやり方を、まずは上から改めなければ、今後の日本の教育は、まことに心配である。
ではどういうことか。
普段のIT教育について考えてみよう。
私は、学校でパソコンの教育を受けたことはないが、現在の40歳以下の年代なら、ほぼ受けたことがあるだろう。そして、その教育とは、ほとんどが、週1程度、パソコン教室で基礎的なことを教わって、実際にやってみる。普段は教室は鍵がかかっていて、自由に使うことはできない。おそらく、ある程度の数のパソコンが、自由に使えるようになっていて、自分のやりたいことができるのは、大学にはいってからではないだろうか。少なくとも、私が学生たちに聞いたところでは、例外はなかった。
他方、私が1992年にオランダに海外研修にいき、娘を現地の公立小学校にいれたときには、オランダの小学校はみな本当に小さいのだが、そのホールみたいなところに、パソコンが2台置いてあって、子どもは自由に触ることができた。しかも、インターネットにつながっていたのである。1992年といえば、国際的に、インターネットの商業利用が可能になった年だから、すぐに学校でも可能にしたということだろう。驚いたのは、子どもが勝手に使うことができた点である。
この差は極めて大きい。 “教育行政機関の不甲斐なさ オンライン授業がなぜうまくいかないか” の続きを読む
検察庁法改正に問題を感じない人がいるのに驚き
国家公務員法と検察庁法の改正案に関して、youtubeなどをざっと見ていると、何が問題なのか、騒ぎすぎだなどと語っているのが多い。例えば、高橋洋一氏は、これはずっと前から段階的に定年を延長してきたものの一環であって、新しい動きではまったくないし、また、日本は公務員を政治的に選出することがまったくない、世界的にも稀な国なのだ、などと述べて、反対している人を揶揄するかのような発言をしている。しかし、単純に年金開始年齢にあわせるための、段階的な定年延長の法案でないことは、まともに今年の政治状況をみていれば、誰にも明らかである。それに、定年を延長することについて反対しているわけでもない。もちろん、高橋氏だってわかっているのだろう。もし、これまでの延長上の一環としての定年延長法案であれば、特別条項などはいらないはずである。検察庁法に、特別条項などないのであって、これは完全に新設である。これまでなかったから、黒川問題が起きたわけだ。今後、黒川氏のように、政府に都合のいい人物を、特別扱いしても、「違法」ではないようにしておこうという意図が見え見えではないか。だから、国民の多くが反対しているし、検察の人たちも多くが反対していると報道されている。 “検察庁法改正に問題を感じない人がいるのに驚き” の続きを読む
教育学会の9月入学反対声明への疑問
5月11日に日本教育学会の名前で、9月入学に反対する声明がだされた。題名は「拙速な導入はかえって問題を深刻化する」となっていて、「慎重な検討」を求めているものだが、実質的には反対声明と受け取らざるをえない。ちなみに、私も日本教育学会の会員だが、この声明には反対せざるをえないし、また、学会員に対する意見聴取の機会があったわけでもない。このような場合には、学会総意ではなく、理事会とか、そういう管理組織での議論だろうから、それを断るべきではなかろうか。
内容的にも、大きな疑問をもたざるをえないものだ。(全文はhttp://www.jera.jp/20200511-1/)
まず声明は、長い休校が続いているなかで、再開後の詰め込みをしないでほしいという子どもたちの切実な声があることを認めつつ、しかし、9月入学では問題を解決できないとする。
9月入学自体については、これまで検討されてきたが、メリット・デメリットがあるので、コロナ騒ぎの解決策としてだすには、解決策の検討がなされていない。例えば、入学年齢が高くなる、就職活動や私立大学の学費問題など。
そして、今求められているのは、緊急の教育の保証である。
以上の3点が論拠になっている。 “教育学会の9月入学反対声明への疑問” の続きを読む
9月入学にすると半年分過密になるというが
9月入学に対する世論調査で、賛成が50%を越えており、反対は30%程度なのだという。私は、制度として9月入学が、あらゆる点で合理的であると思っているので、新型コロナウィルス災難をプラスに変える柱の一つとして、ぜひ実現させてほしいと思っている。
ところが、かなり困難があるという記事が出ている。「9月入学で発生する大混乱 「1学年の人数が増える」問題とは」と題する週刊ポスト5.22.29号の抜粋記事である。名古屋大学の内田良氏が指摘していることだが、9月入学にすると、要するに、4月から8月までに生まれた人たちが、9月から翌年の8月までの人たちと一緒の学年になるために、その一学年分は、人数が1.5倍になるから教師も教室も足りなくなるというのである。
確かに、そういう問題が起きる。しかし、現在の少子化事情を踏まえれば、乗り越えられない不利とは思えないのである。 “9月入学にすると半年分過密になるというが” の続きを読む
横断歩道は、青でも注意して、車の停車を確認して
横断歩道を渡ろうとした中学生が、車にはねられて死亡するという痛ましい事故が起こった。信号が青だったので渡ったということだから、中学生にはまったく非がないし、運転手はぼうっとしていたという。しかも、かなりスピードを出していたということだから、過失としても、重過失だろう。
そういうことを確認した上で、事故にあわないために必要なことを考えたい。
私は車を運転するし、歩行者でもあるので、双方のことを考える。ただし、運転手と歩行者とでは、立場がまったく違う。どんなに運転手に非があろうとも、事故が起きれば、歩行者側が被害を受ける。だから、私がまず気をつけているのは、歩行者として信号を渡るときだ。私は、信号がある横断歩道でも、信号が青に変わったからすぐに歩き始めるということは、絶対にしない。双方向の車が止まったこと、あるいは、とまるべくスピードを明らかに緩めていることを確認してから、渡り始めることにしている。理由は単純で、信号が赤に変わったからといって、車が必ず停車するとは限らないからである。これは、私自身が運転しているときにも起こることだ。双方向に横断歩道の信号がある場合には、かなり遠くからでも歩行者用の信号が黄色になれば、車の信号もやがて黄色、そして、赤に変わることがわかるので、スピードを信号のかなり前から落とすことができるが、そうした歩行者用信号がないと、黄色に変わるタイミングがわからず、直前で黄色に変わると、そのまま止まれず急いで抜けることになる。そして、抜けきらない間に赤になってしまうことが、たまにあるわけだ。急ブレーキを無理にかけて止まるとかえって危険なことがあるから、これは、緊急避難的な方法として教習所で習ったことだ。ただ、いつも感じていることだが、黄色の時間が短すぎるのではないかと思うのだ。黄色がもう少し長ければ、減速できずに交差点に入ってしまっても、抜ける時間に余裕がある。 “横断歩道は、青でも注意して、車の停車を確認して” の続きを読む
大本営発表を鵜呑みにしていないか、毎日新聞
毎日新聞5月9日(ウェブ版)に「金正恩氏「重体説」騒動、北朝鮮情報は何を信じるべきか」(米村耕一執筆)という記事が出ている。一読して非常に驚いた。ちょっと長いが、最初の部分だけ引用しておこう。
「北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の健康状態を巡る騒動は、4月20日に韓国の北朝鮮専門ネットメディアが「心血管手術をした」と報じ、さらに同じ日に米CNNテレビが米情報機関も注視する情報として「手術後に重体」と伝え、5月2日の北朝鮮公式報道が金委員長の動静を動画や写真と共に公開するまで続いた。
「重体説」や途中から出た「死亡説」は誤りだったわけだが、今回は韓国ネットメディアに加えてCNNが報じ、さらに韓国で著名な脱北者が重体説を補強する発言をしたことで「信ぴょう性がある」との印象が広がった。北朝鮮の最高指導者の生死に関わる情報が、一定の信頼のあるソースから相次いで出された場合、私たちはどう受け止め、何を信じるべきか。それらが試されたケースだったともいえる。」
つまり、4月以来金正恩の死亡説、重病説がでていて、情報が錯綜したが、5月2日の北朝鮮公式報道によって、それらの誤りが正された。なぜ、そうした誤りが生じたのか、情報の吟味が必要なのだとして、以下、今回重病説等を出していた人たちの情報の出所の吟味をして、最後に、以下のように結んでいる。
「強力な情報機関を持つ米韓などの政府や、北朝鮮ならではの思考方式を熟知し、中朝国境経由で内部情報へのアクセスもある脱北者が、北朝鮮についてわれわれよりも正確で豊富な情報を持っていることは疑う余地がない。ただ、それぞれに限界や特有のバイアスがある。それらを踏まえながら、北朝鮮に関する情報や報道に接していくほかないことを今回、改めて認識させられた。」
ところで、最初の部分から致命的な欠陥がある文章だ。 “大本営発表を鵜呑みにしていないか、毎日新聞” の続きを読む
教育することと格差の拡大
新型コロナウィルスによる休校が続いているが、その対応に関して気になる理屈がある。9月入学論や遠隔授業に関して、教育格差がある、教育格差を広げるという理由で否定的になる論調である。だから、どうせよ、というところまで踏み込む文にであったことがないので、積極的に何を主張しているのかは、わからないのだが、想像するに、教育格差を広げるから、遠隔授業はやるべきではないと考えているのだろう。一応そういう前提的な認識で以下書いていく。
遠隔授業を実施するといっても、環境的に格差があるというのは、もちろん事実である。遠隔授業をする側、つまり、学校としても、学校単位、市町村単位、都道府県単位で考えても、かなりの格差があるだろう。カメラ、ネット環境、教師たちのIT水準等にまず格差がある。家庭のほうでも、家族全体がネット環境を普段から使っていてい、有線でも無線でも常時接続環境にあり、パソコンもタブレットも揃っている家庭と、それらが何もない家庭、そして、その中間の家庭など、多様であろう。だから、遠隔授業をするといっても、学校と全家庭含めて十全に実施できる例など、ほとんどないに違いない。また、やれば、効果的に受容できる人と、できない人の格差がでることも確実である。 “教育することと格差の拡大” の続きを読む