前回は、「教育の自由」と「参加」が、戦後改革からしばらくの間、民間教育研究団体や「国民の教育権」論の立場の主要な概念であったにもかかわらず、反対の側、つまり、支配的勢力の側にからめ捕られてしまったことを指摘した。そして、今回は、なぜそういう敗退が起きたのかを考察する。
勤評闘争
戦後の教育的対立のなかでも、勤評問題は最も大きな騒動のひとつであった。私は、学生時代に、大学紛争のあとでなされた改革の一環で開かれた「全学ゼミ」のなかで、この勤評問題をとりあげたことがある。ゼミの指導者は、石田雄教授で、このテーマの研究のために、1カ月以上、勤評闘争の舞台であった愛媛県の新聞を読むために、新聞研究所の地下に通って、当時の愛媛新聞をずっと読んだものだ。石田教授も、この発表を受けるための準備だろう、何冊もの勤評関係の本を読んでこられた。
地方公務員法には、公務員の勤務評定をすることが、明記されている。だから、勤務評定をすること自体は、法的に必要であるのだが、誰もが容易にわかるように、教師の勤務を評価して、昇給や昇格に活用することは、極めて難しい。だから、今でも、教師の評価方法に関しては、コンセンサスはないといってよい。当時は、実際上、教師は勤務評定の対象にはなっていなかったのである。
しかし、1950年代は、財政的に行き詰まった地方自治体が多く、愛媛県は、財政再建のために、教師の給与を削減することを試みた。その方法として、教師に対しても勤務評定を実施し、評価の悪い教師の給与をカットしようとしたわけである。更に、当時、教育行政当局との対立が激化しつつあった日教組の勢力を弱体化させるという政治的意図が重なった。勤評を取り入れようとする自治体が増加するに従って、日教組最大の闘争となったのである。
このとき、勤務評定の政治的意図を批判する一方、多くの教育学者は、ではどのように勤務評定を実施すればいいのか、という点については、明確な構想をうちだすことはできなかった。日本教育学会も、もっと研究が必要だという声明を出している程度だ。そして、実は、教師の運動に冷やかな視線を送る国民が多かったとも言われている。それは、「教師は子どもを評価しているのに、何故、教師は自分が評価されることを拒否するのか」「いい先生と悪い先生がいるんだから、いい先生の待遇をよくするのは当然だろう」という疑問に集約された。この議論は、自然な感情に発するといえる。私が知る限り、この疑問に納得できるように答えた教育学者はいない。当時学生だった私は、ずっとこの問題を考え続けてきた。そして、私なりの「教師に対する評価制度」の考えはまとまっている。ここで、簡単に提示しておくと、「学校選択制度」がその答えである。このことは、後ほど詳しく述べる。
自分がやっているのに、自分がやられるのは嫌だ、という似た感情が「学校選択」への反対に影響していると、私は考えている。もちろん、そのように明確に意思表示する人はいないが、反対感情の裏にあると考えるのが自然である。確かに、選ぶことは気持ちいいが、選ばれる対象になることは、あまり気持ちのいいものではない。これはほとんどの人にとって同じ感情だろう。
大学では、ゼミの選択にいくつかの方式がある。テーマを出させて、テーマに相応しい担当教員を、教員が振り分ける。その対極として、学生がテーマを添えて、教員を選ぶ。この間に、バリエーションがいくつもあるといえる。人数制限をするか、希望者が多すぎる場合、どのように調整するか、等々で、結果は異なってくるが、基本は、学生が選ぶことを認めるかどうかである。もちろん、選ばれる当事者として30数年間勤務したわけだが、あまり気持ちのいいものではない。しかし、学生たちの権利を保障するためには、仕方ないと思っていた。選ぶ権利があることについては、選ばれる側は、それを甘受しなければならない。しかし、かつては学生の選択権がほぼ制限なく認められていた、私の所属学部でも、いろいろな理由で、制限がかけられるようになっている。人数が多いと指導できないという理由で制限をするのだが、その結果、志望する教員につけない学生が多くなってくるわけである。ただ、学生の希望から出発する点は、いまでも維持されていると思われる。
臨教審と学校選択
1950年代初頭の勤評は、明らかに不当な政治的弾圧であったから、反対は当然であった。しかし、どのような評価なら合理的であるのか、積極的な意味があるのかは、その後真摯に検討すべきであった。勤評闘争における弱点が、必要なことを回避しただけで、積極的な方法を追求しなかったことであるとすれば、臨教審と学校選択に関しては、どうだったのだろうか。1980年代の臨教審をめぐる議論は、日本の教育関係者の位置関係を劇的に変化させた。それまで犬猿の仲だった文部省と日教組が共同歩調を組むようになったのである。そのきっかけは、臨教審の第一部会が大々的に打ち上げた「教育の自由化」論だった。学校と塾を同じように扱うべきだというような、公式に確認された見解ではなかった「教育の自由化」論に、日教組も文部省も猛烈に反対し、特に文部省は臨教審対策に力をいれるようになり、そして、日教組とともに、「教育の個性化」という言葉に変えさせた。最終答申に、「教育の自由化」論は盛り込まれず、「教育の個性化」となったが、それは、後に、教育行政への批判勢力としての日教組が消え(事実その後分裂した)、そして、「国民の教育権」論者たちから、「教育の自由」という概念が、薄れていった。私からみると、消えてしまった。国民の教育権論者が、臨教審を新自由主義政策の教育面での適用をしようとしていると見ていたことも、「自由」という言葉をその後使わなくなった理由であると、私は解釈している。
そして、この流れが、「学校選択」という政策が打ち出されたとき、文科省と国民の教育権論は、多少異なる位置になったが、後者の「自由」概念への無関心はより強まった。国民の教育権論者の多くは、学校選択に反対であったが、文科省は推進派と消極派の両方がいたのではないだろうか。表向き選択制度の導入に前向きであったが、かならずしも熱心ではなかったからである。
このとき、国民の教育権論者の学校選択反対には、いくつかの問題を感じる。(私のような賛成論者もいた。)ひとつは、勤評と同じで、される側に回ることへの抵抗感である。これについては、既に述べた。
第二は、教育現場の課題の把握についてである。選択されたくないという意識で、問題を考察すると、今ある問題にはあまり注力せず、実行した場合に起きるだろう問題を重視するという姿勢である。
私の賛成する立場からも、反対論が言及する起こりうる問題は同意している。格差が生じるという点は、オランダでもずっと議論されていることである。しかし、本来の趣旨、つまり教育の多様性を実現するという目的からすれば、その欠点は許容できる範囲になる。多様性が実現していれば、優劣の意味が低下するからである。日本で実施しようとしている、同質的な中での選択ならば、競争主義が煽られ、序列化が起きるが、多様性のなかでの選択では、序列化は、なくならないまでも、かなり緩和されることになる。
他方、現行制度における、つまり「選択できない」ことによる弊害はかなり深刻であるから、その是正のためには、選択制度を導入することが、大きな意味をもつことになる。しかし、反対論は、現行の「選択できない」制度は、長く続いてきたものであり、教育の質を保障することで、機会均等を実現できるという意識にとらわれているから、いじめによる自殺と学校選択を結びつけて考えないのである。だが、文科省ですら、いじめの被害者に対して、居住地から離れる転校の理由となると認めているのである。「転校できるのだからいいではないか」と言われかも知れないが、現行システムで、いじめを理由として転校しようとすることは、「問題を解決しようとするのではなく、回避している。逃亡である」というような否定的な感覚が教師の間に根強く存在するのだ。解決は学校がしなければ、いじめの被害者が自分でできるはずがない。逃げる必要があるときに、逃げることを可能にするのは、学校選択制度なのである。もちろん、私も教師が解決のために努力することのほうが大事であると思っている。しかし、すべての学校や教師が努力してくれるわけではない。
こうした現実の問題に注意を向けず、改革によって生じうる欠点について、殊更強調して反対するという思考様式が、9月入学問題にも現れたのである。散々別の文章で書いたので、具体的なことは省略する。
結論としていえることは何か
教育という行為には、教える側と学ぶ側の双方の異なる立場がある。教師と生徒は、もちろん立場が異なるのであるが、実は、教育という行為を通じて必要なこと、得ることはほとんど共通している。予習・復習が必要だというのは、生徒だけではなく、もちろん、教師にも絶対必要なことである。
教師が生徒に教え、生徒は学ぶが、実はその過程で教師も学んでいるのである。教育というプロセスには、評価が伴い、評価に基づいて実践されるが、同時に生徒も教師を評価しているし、双方が、自己評価を必要としている。従って、教育学は、双方を考察の対象にしなければならないし、また、実践課題とする場合にも、必要な行為を一方だけに認める領域は、ほとんどないのである。