無駄に気づいて改めよう 学校での起立して回答

 新型コロナウィルスは、様々な側面でこれまでの生活に対する反省を迫っている。今日6月2日のMSNに「飲食店関係者がコロナ禍で気づいた「無駄だった慣習」の数々」という文章が掲載されていて、なかなか面白い。BGMや、子連れNGルール(居酒屋)、全員での声だしなどがあがっている。BGMは、マスクをするようになると、声が届きにくくなり、うるさいと感じるようになった。居酒屋の子連れがだめというのは、常識的だが、テイクアウト方式がでてくると、家族で買いに来るので、断りにくくなったし、客を選べる状況ではない。全員の声だし(「いらっしゃいませー」とみなで大声をだす)は、そもそも大声での話は感染リスクだから、やめたのだが、客には喜ばれているという。
 要するに、店側でよいと思っていたことが、実は逆だったということがわかった事例だろう。
 学校教育にもそういうことが少なくないはずである。「学校教育から何を削るか」で書いたことだが、違う理由でますます主張すべきであると思うので、再度書く。
 それは、教師が質問して、当てられた子どもが、起立して答えるという礼儀作法である。「削る」理由は、時間の無駄という点に置かれていた。しかし、新型コロナウィルスの感染防止対策として、大きな声で話さないことが強調されている。人間は座っているときよりも、たっているときのほうが、声が大きくなる傾向がある。また、たっているときのほうが唾が飛ぶ範囲が当然広くなる。そういう意味で、座ったまま答えるような習慣に変えていくべきである。
 ただ、私が起立して答える作法をよくないと考える最大の理由は、それが思考を妨げるし、聞く側も意識が散漫になるからだ。教師が質問をして、子どもが答えを見いだしたときには、指名されてすぐに表現するほうがいいに決まっている。授業見学にいくと、たっている間に自分の答えを忘れてしまう子どもが、意外に多いものだ。その場合、恥をかいてしまうおまけまでつく。また、聞く側も、起立の動作をしている間に、聞く姿勢が途切れてしまうことが多いものだ。
 そして、大きな声は、意外に聴きづらいもので、聴く者の注意力を低下させるものなのだ。
 もうひとつ、起立しての回答方式には、おまけの習慣がある。回答したあと、「いいですか?」と大声で尋ね、「いいです」と答えるという方式である。大声もまずいが、もっとよくないことがある。
 ほとんどの場合、答えはただしいのであり、従って、「いいです」というのが大勢になる。その場合、少数の違う意見や疑問などは、かき消されてしまいがちなのだ。未熟な教師だと、そこを見落としがちなのだ。
 教師の質問に、誰かが答え、「**さんは、そういうんだけと、みんな同じかな?」といって、見回し、「違う意見の人はいる?」「よくわからないっていう人は?」と静かに聞けば、思考が途切れず、しっかりと入っていくものだろう。
 そして、大きな声をださないから、感染の可能性も低減できる。
 学校社会は、大きな声をだすことがよいことだという、なんとなくみんなが信じている価値観がある。しかし、それは間違っているのだ。新型コロナウィルス対策をしていれば、そのことに、やがてみんなが気づくに違いない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

「無駄に気づいて改めよう 学校での起立して回答」への2件のフィードバック

  1.  中学校教員ですが、中1の生徒は授業で指されると「立った方がいいですか?」と聞いてきます。小学校での丁寧な授業規律の指導が良くも悪くも出るところで、今回の記事を読み、改めて考えさせられました。
     また、本校ではコロナウィルスの関係で部活動はまだ再開されていません。もちろん朝練習もないのですが、そこで感じたことをコメントしたいと思います。
     本校では感染予防や子どもたちの体調の様子を見守るために全職員で登校指導(担任は教室、副担任は昇降口や正門)を行なっています。これは、コロナウィルス関係なく近い形の登校指導を普段の学校生活から行っている学校もあると思いますが…。ここで、子どもたちと簡単な会話を行ったり、表情を見たり、誰と一緒にいるのかなどがわかったりと、教員にも子どもにも朝の余裕を感じられます。やはり朝練習があると生徒も職員も慌ただしいように感じられます。
     一方で朝練習の効果としては、競技の技術向上だけではなく、生活リズムの安定・定着(朝練習があるから早く寝る、早く起きる)、学校の活気などが挙げられるのではないでしょうか。
     部活動の問題はコロナウィルス関係なく、ここ最近の話題となっています。今回、埼玉県は学校総合体育大会(3年生にとって最後の大会)が中止となり、3年生の落胆は計り知れません。しかし、学校生活を過ごす中で、子どもにとっても教員にとっても部活動が大きな負担となっていることは事実です。
     今回は朝練習のみの考えでしたが、放課後や土日を含めて部活動の在り方に関しても、ここで考え直す機会なのではないかと思っています。

  2. コメントありがとうございます。
    部活については、個人的にはここで何度も書いていますが、学校の部活というスタイルは、既に制度疲労をおこしており、時代にあわないと思っています。やりたいスポーツや文化活動は、多様になっていて、しかも、中学ですらかなりの実力差があります。それをひとつにまとめ、また学校に多くの部をそろえるのは無理なのです。また、部員が100人いる野球部やサッカー部では、試合に出られない者が多数になります。しかも、指導の教師はほとんどがボランティアで生活を犠牲にしています。私から見ると続いているのが不自然なくらいです。
    だから、ヨーロッパのように社会体育の制度に移管すべきだと思っていて、やがてはそうなるでしょう。そういうシステムが知られていないから、なんとか続けようと思っていますが、きちんとわかれば、その方が合理的です。
    ヨーロッパでは、施設も多くは別ですが、日本では社会的施設は少ないので、学校施設を利用すればいいと思います。5時で完全に学校は、管理が移行し、社会教育施設の場になる。それぞれの学校に相応しいスポーツなり文化のクラブが置かれ、自分のやりたいクラブがある場所に、夕方移動してクラブ活動をする。そこで指導者になりたい教師は、登録して、そのクラブに責任をもつ指導者として活動する。それぞれのクラブは、水準や練習の方法などを明示して、同一種目に複数のクラブを設置する。クラブ員は、低額のクラブ料を支払い、指導者にはそこから謝礼をだす。
    こうすれば、自分にあうクラブに入れるし、教師もボランティアではなくなる。また、同一校庭に、野球部、陸上、テニス部が一緒に練習するような危険もなくなる。
    私の見解はこんな感じですが、他にもいろいろなやり方はあるでしょう。みんながもっと柔軟に考えて、今のような無理のあるやり方を変えていければいいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です