パリのテロ事件再考 表現の自由の扱い方1

 フランスの歴史の教師パティ氏の葬儀が国葬として行われ、マクロン大統領が弔辞を読むという異例の事態となった。それだけ、フランスとして「表現の自由」を重んじているということだろうか。マクロン大統領によれば、「風刺の自由」となるそうだが。この問題については、既に一度書いたが、もう少し補充した形で論じたい。(パリのテロ事件 原因となった授業を考える http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1885 2020.10.18)
 報道によれば、パティ教師は、非常に優しい人で、生徒の意見等をよく聞く人だったという。殺害された人を悪くいうことは、あまりないわけだが、しかし、一部のイスラム教徒たちは、SNSで非難し、報復行動を呼びかけていた。そして、犯人が教師の顔を知らないために、その学校の生徒に確認するように協力を求めたところ、二人の生徒がそれに応じ、2時間ほども一緒にパティ氏が校舎から出てくるのを待って、そして、あの人だと教えたという。当然、既に騒ぎになっていたわけだから、その生徒は、犯人がテロ行為に近いことを行うことを知って、協力したと考えるべきだろう。とするならば、やはり、誰の意見もよく聞いたというわけでもなさそうだ。事実、問題となった授業を行ったときには、イスラム教徒の生徒を教室から退出させたという。もっとも、イスラム教徒というだけの理由で、かつ全員を退出させたかどうかは、報道ではわからない。

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印鑑廃止を考える

 行政改革の目玉として、印鑑の廃止が推進されているが、少なくともメディアの扱いは、あいまいな形でムード的なものになっている。行政事務で、不可欠なもの以外は、印鑑を廃止せよという通達が出されたというが、どうもその通達の本文が見いだせない。大分検索したのだが。
 印鑑の機能は、本人であることの確認と、本人が確認したという証拠であるというふたつの側面がある。実際には、争いになったときの印鑑による本人証明能力はかなり低いのだということなので、本人確認としての印鑑は、原則的には不要である。婚姻届けではしっかり印鑑を押したいという意見もあるようだから、そういうのは、押したいひとは押す欄をつけておいてもいいように思うが、必須にする意味はない。実際に、他人でも簡単に押せるのだから。私自身、他人に印鑑を押された経験がある。実害はなかったが、やはり、気持ちのいいものではない。本人確認は、自筆署名を原則にすれば済む。ただし、現在印鑑証明が必要な大きな取引や行政手続については、残す意味はあるようにも思う。

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フルトヴェングラーのバイロイト第九再論

 徳岡氏のyoutubeを見ていたら、突然古いものがでてきて、最初新しいものと勘違いしてみていたのが、実は昨年のものだったことがわかった。フルトヴェングラーのバイロイト第九を論じたもので、私自身このブログで書いたものだが、再度聞き直してみる気になったので、EMI盤とバイエルン放送盤を全部ではないが、重要箇所をチェックしてみた。どちらがゲネプロで、どちらが本番かという、バイエルン盤がでたときに、大論争になった問題である。私自身は、EMI盤が本番で、バイエルン盤がゲネプロだと思っているが、徳岡氏は、その逆で、フルトヴェングラー協会で講演までしている。今回聴きなおしてみて、やはり、同じ結論だ。しかし、この問題は、結局、バイエルン放送局が、正式に表明しない限り真相はわからないのだろうし、あるいは、バイエルン放送局自身が、記録は残っていないのかも知れない。結局、聴いた者が、自分の物差して判断するしかないわけだ。

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オリンピックはできるのか 審判が確保できないというが

前回の東京オリンピックを実際に、東京に住んでいて体験した人間からすると、今回のオリンピックのどたばたはあまりに恥ずかしいと感じる。本来は招致活動などはすべきではなかったのだと思っているし、東日本大震災から間もない時期には尚更のことだし、福島の原発事故は完全にコントロールされているとか、7月8月の日本の気候は温暖で過ごしやすい、などという嘘までついたことが、今日の現状につながっていると考えざるをえない。
 さて、私は、オリンピックは中止すべきであると思っているし、そういう見解も多数あるわけだが、そうした意見は、すべて大手メディア以外から出ている。開催・中止に関するウェブの見解をみてみたが、多くは開催不可能論である。もちろん、絶対に行われるという意見もある。たとえば、「2021年東京五輪の中止はありえない!絶対に開催される理由」(https://answersong.com/news/tokyo-2020-2021-olympics/)という文章は、題名の通りの主張をしているが、その理由は、新型コロナが終息していなくても開催可能、そもそもワクチンが完成するから終息する、ウィルス対策よりも経済再生が優先されるというもので、およそまっとうな思考がなされていないような文章である。森会長や安倍首相(当時)がやるといっているからやるのだ、という信念があるようだが、世界一金のかからないオリンピックだとか、国と都は3兆円を別途しまっているとか、まるで事実と思えないことも書いてある。現在の時点で、オリンピックをどうしてもやるのだ、というためには、こういう論理を使わないと説明できないということでもある。

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トランプはヒトラーに似てきた

 題名のごとく、最近のトランプ及びその周囲をみていると、ヒトラー登場の状況に似てきていると、どうしても感じてしまう。
 まず、話し方だ。ヒトラーの話し方には、いくつかの特徴があるが、ひとつは、「熱狂的」な話し方をすること。何かに憑かれたような感じだ。トランプの話し方も、特にコロナに感染してからは、ステロイドの使用でハイになっているという説もあるが、選挙戦での不利を自覚して、なんとか挽回しなければならないという焦りもあるだろう、狂信的な人の話し方になっている。
 第二に、集会に参加しているひとたちの熱狂ぶりだ。大観衆がトランプの、まとまった演説というよりは、スローガンの列挙と叫びに、呼応して叫ぶ。ヒトラーが群衆を前に演説している映像を見れば、その類似性を多くの人が感じるだろう。

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パリのテロ事件 原因となった授業を考える

パリでまたイスラム教徒による、風刺画に関する殺人事件が起きた。フランス政府は、これをテロとしているが、現時点では、まだその背景などは、明らかになっていないようだ。
 事件は、歴史・地理の教師が、表現の自由、特に、シャルリ・エブド襲撃事件を題材にして教えるときに、シャルリ・エブドが掲載したムハンマドに対する風刺画を教材として用いたという。その際に、教師は、イスラム教徒の生徒は不快感をもつ可能性があるという理由で、教室から出したという。授業では、ディベートなどを行ったとされているが、イスラム教徒の生徒を退出させたということは、風刺画を許容する立場と、表現の自由としても、特定宗教への冒涜は認めるべきではない、という双方の見解をたてて、自由に討論させたものだったとはいえないようだ。イスラム教徒には不快だとしたわけだから、結論は推測される。フランス的表現の自由について、肯定的に教えていたと考えられる。フランスの公教育の教師としては、当然であるのだろうが、イスラム教徒の保護者が腹をたてて、学校に抗議をし、その抗議活動を広めようとした。おそらく、犯行に及んだ青年は、その広報でこのことを知ったのだろう。だいたいの内容と教師の名前も広められていただろうから、その名前の教師を、学校の前で生徒に確認し、あとを追って殺害に至った。犯行が夕方だったので、直ぐに伝わり、警察が駆けつけたが、犯人が空気銃を警官に向けて撃ったので、警官が応戦した。犯人は警官に撃たれて死亡し、彼の家族を中心に知り合いが拘束されている。妹は、イスラム国に参加していたという報道もある。

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教育学を考える20 勝田の学力論とコンピテンシー論について

今日、初めて教科研の「教育学部会」という研究会に出席した。これまでは、当然特定の場所に集まって行っていたが、コロナ対応で、オンライン開催になった。そこで私も、参加する気持ちになったわけである。題は、「教科研は学力をどう論じてきたか」というもので、本田伊克氏が報告した。当然、勝田論から入って、神代氏の議論等が検討され、坂元、佐貫氏の議論、そしてコンピテンシー論が議論された。私自身、教科研の研究会に参加するのは、初めてであるし、『教育』の熱心な読者ではあるが、内部的議論には通じていないので、議論には参加せず、聞き役に徹した。多少、私の問題意識と交わるところが少なかったからもある。そこで、勝田論やコンピテンシー論について、考えたていることを書いてみることにする。
 教育は、当然の前提として、教えるべき価値をもっている。そして、その中心は「学力」である。日本では、学校教育の目的の中心に「学力をつけること」をおいており、入学試験では学力試験が柱となっている。だから、学力とは何かという議論や、学力が身についているのかという「低学力論争」が行われるのが常であった。1960年代から70年代にかけて、中心的な学力を提出していたのが勝田守一であり、現代では、中心をコンピテンシー論が占めている。 

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政府とは誰なのか 学術会議問題

 日本学術会議に関する情報は、毎日激しく動いている。 
 10月13日の毎日新聞の記事「首相決済文書に105名名簿添付 6人任命しない政府方針も説明 官房長官」は、非常に不思議なことを書いてある。既に周知のように、菅首相の学術会議会員の一部任命拒否問題に関する答弁が、ふらついているのだが、この官房長官の説明は、驚くべきことだ。菅首相が、6人を含む105人の名簿はみていない、と語ったのは、自分が6人を拒否したのではないという意味なのだろうが、それに対して、6名を拒否するという「政府方針を首相に説明してある」というわけだ。その場合の「政府」とは誰のことなのか。首相が知らない内に、政策が決まる「政府」なるものがあるらしい。つまり、首相を含まない「政府」があって、そこで6名の拒否を決めてあり、それは首相に説明したのだということだ。

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アメリカ大統領選挙の方式への疑問

アメリカの大統領選挙が近づいているが、いつも疑問に思うことがある。そもそも民主主義国家で、近代国家であるはずのアメリカが、何故こうなのだろうという疑問が、大統領選挙に関しては湧いてくるのだ。Forbes Japan の10月14日の記事に「米大統領選の選挙人団制度、6割超が廃止支持」という記事がある。ただし、廃止に賛成の割合は、民主党員は89%、共和党員が23%である。つまり、民主党員は圧倒的に廃止支持で、逆に共和党員が圧倒的に廃止反対なのだ。だが、平均的には、6割が廃止を支持しているという数字は、いかにも妙な感じがするだろう。しかし、民主党と共和党の数字がわかれるのは、最近の大統領選挙の結果を見れば、理由は単純である。21世紀になって、共和党の大統領は、ブッシュとトランプだが、このいずれも、選挙人の数で上回ったが、得票数ではゴアとクリントンに負けているのである。それに対して、民主党のオバマは、両方で上回っている。選挙人団の制度がなかったから、21世紀になって共和党大統領は選出されていないことがわかる。国全体の得票数が多いのに、選挙人の数で逆転現象が起きるのは、いかにもおかしなことだ。しかも、総取り方式という、得票率が51対49であっても、51の陣営が選挙人を全部とるという方式にも、首をかしげざるをえない。歴史的には、建国時におけるメディアの未発達、識字率の低さ、奴隷制の問題があり、また、イギリスの小選挙制度の影響などが、全体として現在のようなシステムをつくりあげたのだろうが、事情がまったく異なってきたにもかかわらず、つまり、上の状況がすべて変化しているにもかかわらず、制度を変えないというのは、いかにも不可解である。全国でただ一人の大統領を選ぶのだから、全国民の得票数で決めるのが合理的であることは、誰にも同意できるはずである。だからこそ、世論調査でも、この制度の廃止を支持する人が多いのだろう。 “アメリカ大統領選挙の方式への疑問” の続きを読む

ソ連映画「戦争と平和」を見て

 久しぶりにソ連製映画『戦争と平和』をみなおした。とにかく長い。4部まであって、全部で7時間以上かかる。国家の総力をあげて作成した映画という感じの作品で、とにかく、動員した物量、人員に圧倒される。しかし、映画としては、どう考えても駄作としか考えられない。アマゾンのレビューをみると、半分が絶賛だが、厳しい見解も多数ある。大分前に見たときには、けっこう感激したのだが、今回見直したときには、むしろ、何のために作った映画なのかが、疑問に思えてきた。1812年の戦争を、第二次大戦の祖国大防衛戦争になぞらえ、アメリカとの冷戦に負けない姿勢を誇示しようとしたのか、と思いたくなるような作り方を感じるのは、私だけではないだろう。そういう部分は辟易する感じだ。
 もちろん、国家的威信をかけて制作したほどだから、素晴らしい点が多数ある。 “ソ連映画「戦争と平和」を見て” の続きを読む