杉田水脈氏は「発言」を認めたが

 自民党のお騒がせ議員である杉田水脈氏が、また物議を醸した。性的被害者の相談窓口を設けるための施策を議論する場所で、「女は平気で嘘をつく」と発言したということが、漏れてきて、非難轟々となったわけだ。これまでの話題に欠かない人だから驚きはしないが、その後の対応も相変わらずというところだろう。
 一応非公開の会合ということなので、詳細はわからないが、相談窓口に民間の施設をあてるということだったことに対して、民間でやっているだけでは、「女は平気で嘘をつく」から、もっと厳格に取り調べをする警察がやるべきだというのが、彼女のいいたいことだったようだ。また、これには、全く別の推測をする人もいて、それによると、民間の施設であれば、当然それを後押しする議員がいるわけで、一種の利権が絡んでいる。だから、利権派が、民間施設という利権を守るために、杉田氏の発言をリークしたというのである。真相はわからないが、いずれにせよ、そこに、一部の真相があるとしても、発言そのものの不当性は変わらない。

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同調圧力を再生させる仕組み1

 毎日新聞に「日本の「感染者バッシング」「マスク警察」は、なぜ? コロナ禍があぶりだした「世間」の闇」と題する長文のインタビュー記事が出ている。興味深い内容であることと、若干の疑問、そして、根本的なところが欠けていると思うので、この文章を材料に考えてみたい。話し手は、「世間評論家」と称している佐藤直樹九州工業大名誉教授である。
 簡単に氏の述べている趣旨を整理しておく。

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部活動指導者は、部活問題を解決するか

 文科省が、部活動について新たな方針を提示して、話題になっている。部活動の在り方が、現在の学校教育の大きな問題であることは、多くの人によって論じられている。しかし、議論の方向性や基本的立場は、相当な違いがある。しかも、根本的な相違を含んでいる。部活動を学校教育のなかに位置づける人と、学校教育から外すべきであるという人の違いは、まったく異なった考え方である。指導者については、外部指導をどうするかという点があった。

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コロナ後の大学の在り方を想像する3

(昨日の続きで、今回は残った課題を個別に考察する)
(7)現在の大学で、単位制限の問題が、かなり学生たちを苦しめている。文科省の指導などで、学部として、学期ごとの最大単位申請数の制限を設けるようになっているのだ。文科省が、こんなことを指導するのは、おかしなことだと思うが、最近の文科省は、大学の自治を無視するようなことを平気でやっている。
 特に最近の学生は資格を多くとりたがる。社会全体が資格社会になっているのに対応しているのだ。ところが、多くの資格は、正規の学部や学科の科目とは別の科目が要求されることが多い。もちろん、資格取得が認められるには、土台となる分野があるから、学科の科目と共通する部分もあるが、それだけでは足りないのが普通だ。従って、資格をとろうとすると、余分の授業をとらなければならない。それで、履修数が多くなる。資格のための特別費用を徴収する場合もあるが、それは事務的な経費にかかるもので、余分な授業などは含まない。従って、資格用に、授業を設定すれば、それは大学にとっての負担になる。大学にとっての負担というのは、その資格をとる学生にとっては利点だが、とらない学生にとっては、自分に関係ない余計な負担をすることになる。これはやはり不合理だ。

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コロナ後の大学の在り方を想像する2

(4)教員も学生も、ひとつの大学、学部に縛りつける必要はなくなると書いた。この縛りから幾分解放してくれる単位互換システムには、これまでみっつの制約があった。
 第一は、地理的制約である。東京にある大学と名古屋の大学が単位互換制度を実施しても、実質的には授業をとることはできない。だから、かならず近場の大学同士が組むことになる。
 第二は、大学の水準である。偏差値40の大学が早稲田や慶応と単位互換をしたいといっても、絶対に断られるだろう。今の大学には、明確な「偏差値格差」があるから、偏差値がだいたい同水準の大学間でしか、単位互換は難しい。

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コロナ後の大学の在り方を想像する1

 毎日新聞(2020.9.25)に「大学「全面再開」わずか2割 足りぬ教室、実験や実習は感染リスクと向き合い模索」と題する記事がある。コロナ禍真っ最中のときには、全面オンラインだった大学が多いはずであるが、その後対面授業が部分的に再開しても、全面再開が2割に留まっているということだ。いろいろな大学の事情が報告されているが、要するに、大学は3密社会であることが大きな要因である。アメリカのような巨大なキャンパスをもつ大学なら別だろうが、日本の大学は、学生の人数に比較してキャンパスは小さい。講義中は、クラシックの音楽会と同じで、ほとんどしゃべらずに聴いているからよいが、講義の入れ代わりの際は、教室の入り口が電車のラッシュ時に近くなる。そして、そういうときには学生はかなりおしゃべりをする。食事時もかなり3密とおしゃべり状態が普通だ。そして、毎時間、すべての学生が教室を移動するのだから、感染リスクは非常に高いのである。それから、大学の教授は高齢者が多い。自分が感染する危険性を、より多く感じている集団だ。
 そうしたことを考えれば、大学が対面授業全面復活に踏み切れないのは、自然なことだと思われる。しかし、何事も、危機のときこそ、発展の機会でもあるのだ。幸か不幸か、私はこの3月に退職してしまったので、リアリティはないかも知れないが、それだけ自由に考えることができる立場でもあるので、ここで、思い切り、空想的であっても、改革案を構想してみよう。

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当たり前をやめる(続)

 昨日に続いて工藤勇一校長の「当たり前」をやめる実践について。
 氏の著書には、いろいろと驚くことが多いが、「学校に行くこと」について悩んでいる生徒に、「学校にいかなくていいんだよ」というアドバイスを与えた話が出てくる。ひとつは、囲碁のプロになりたいと思っている生徒が、他のライバルたちは学校を休んで、囲碁のプロ試験のための練習に取り組んでいる。だから進歩も速い。しかし、自分は学校に行かねばならない、しかし、それではライバルに抜かされてしまう。悩んで、工藤校長に相談に来た。生徒がこういう悩みを、校長に相談にいくというのが、かなり驚きで、よほど生徒たちに信頼されていたのだろう。
 そして、工藤校長は、「学校に来なくていいんだよ。本当にやりたいことがあるなら、思いきって、学校休んで打ち込んでみたら」というようなアドバイスを与える。校長がいうのだから、と安心して、一年間休学のようにして、中国に修行に出かけることになる。そして、中学に復帰して、無事卒業し、囲碁のプロ試験にも合格したという話だ。

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「学校の当たり前をとめる」工藤勇一校長の実践

 今日(9.24)のFNNプライムオンラインに「学校の「当たり前」をやめた工藤校長が目指す未来の教育」という記事が掲載されている。今年の3月まで東京の麹町中学の校長をやっていた人で、そのときの実践を『学校の「当たり前」をやめた』という本を出版し、ベストセラーになったという。私も遅まきながら購入して、ざっと読んでみたが、近頃稀な面白い本だった。3月で定年退職になり、4月から横浜創英中学・高校の校長に就任したそうだ。
 私たちの年代に東京で育った人にとっては、麹町中学というのは、特別な学校だった。公立の中学であるにもかかわらず、越境入学が多く、当時東大合格者数一位だった日比谷高校に大量に進学していた、「名門」中学だったからである。その後、都立高校の進学校としての凋落で、話題にならなくなったが、都立高校の改革(独自入試の許可等)で若干の復活をとげるのと同時に、麹町中学も話題になることが多くなっていた。そして、この工藤勇一校長の赴任とともにはじまった大改革で、進学などとは異なる次元で話題を呼んでいたことは知っていたが、ここまで徹底的にできたのかと、今回認識を新たにした。題名の通り、「当たり前」をやめると、どれだけのことができるかということだ。

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JR九州で無人駅化に障害者が提訴

 JR九州で、無人駅化したところ、障害者の権利が侵害されたとして、提訴されたという記事がでていた。ポイントは以下の通りだ。
 
 「 訴状によると、原告3人は脳性まひや、事故による脊髄損傷のため体が不自由で、常に車いすを使っている。無人化で、事前に予約し、調整が必要になると主張。憲法が保障する移動の自由を侵害し、障害者差別を禁じた法律にも違反していると訴えた。」(共同通信2020.9.23)
 
 無人駅は以前からあるが、最近定年退職による人手不足で無人化する駅が増大しているのだそうだ。東京都内でも、早朝の無人化とか、あるいは、無人ではないが、以前はたくさんいたホームでの監視員がいなくなるなど、駅で運行を司る労働者がいなくなる傾向がある。私の家の比較的近くを走っているツクバエクスプレスには、駅員はホームにはまったくおらず、改札口の脇にある駅員室に常時いるだけだ。

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矢内原忠雄と丸山真男16 丸山は分析以上に語らない

 
 丸山真男の文章を読んでいくと、丸山は、現実の日本社会をどうしていったらいいのか、それをどのように考えていたのかが、ほとんど触れていないことがわかる。しかも、それは自覚的であったといえる。「ある自由主義者への手紙」(著作集4 p314)で、以下のように書いている。
 
 「これまで僕は、広い意味での政治学を勉強していながら、当面の政治や社会の問題についての多少ともまとまった考えを殆んど新聞や雑誌に書かなかった。なぜかということはここでは述べないが、ともかく、それには僕なりの理屈があったし、いまでも原則としてはその理屈を間違っていないと思っている。」

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