久しぶりにソ連製映画『戦争と平和』をみなおした。とにかく長い。4部まであって、全部で7時間以上かかる。国家の総力をあげて作成した映画という感じの作品で、とにかく、動員した物量、人員に圧倒される。しかし、映画としては、どう考えても駄作としか考えられない。アマゾンのレビューをみると、半分が絶賛だが、厳しい見解も多数ある。大分前に見たときには、けっこう感激したのだが、今回見直したときには、むしろ、何のために作った映画なのかが、疑問に思えてきた。1812年の戦争を、第二次大戦の祖国大防衛戦争になぞらえ、アメリカとの冷戦に負けない姿勢を誇示しようとしたのか、と思いたくなるような作り方を感じるのは、私だけではないだろう。そういう部分は辟易する感じだ。
もちろん、国家的威信をかけて制作したほどだから、素晴らしい点が多数ある。
1 登場人物が原作のイメージに非常に近い。唯一違う感じなのがピエールで、監督自ら演じているためか、原作より、とにかく年寄りである。行動とか風貌のイメージは原作に近いのだが、原作では20代から30代にであり、まだ若さをもっている。しかし、アメリカ版のフォンダよりはよい。特にナターシャについては、アメリカ版のヘップバーンのあまりの原作と異なる姿と比較すれば、ほんとうにナターシャはこういう人だったのだと思わせる。しかも、かなりの長期間をかけて作られたので、原作では中学生から大学生くらいの年齢であるナターシャの成長の雰囲気も醸しだされている。原作に最も忠実に選んだと思われるのが、ボルコンスキ公爵令嬢のマリアで、原作では醜い女性であると、何度も強調されているくらいだが、本当に醜い女性なのだ。しかし、人間的には非常に温かい人で、そういう人間性もよく出ている。アメリカ版のマリアは、美人が採用されているが、ソ連だからこそできる人選なのかと思うくらい、原作にぴったりだ。しかし、こういう感心をされても、うれしいかどうかはわからない。アンドレイ公爵、ロストフ伯爵夫婦、ニコライ、ペーチャ、ロシア皇帝、ナポレオン、みなこんな人だったのだろうという雰囲気をもっている。
ただ、唯一アメリカ版のほうが、原作イメージに近いと思われるのは、ピエールの人生観を変えた農民のカラターエフで、ソ連版が違うというのではないが、アメリカ版のカラターエフのほうが、よくおしゃべりをする感じが、原作に近い感じがした。確かに、ピエールの人生観を変えるほどの魅力を発散しているのは、アメリカ版のほうだ。
2 原作を歪めていないことだ。たぶんロシア人がアメリカ版をみたら、そうとうに腹をたてるだろう。その最大の問題は、ふたつの首都ペテルスベルグとモスクワをアメリカ版は、区別していないことだ。それは冒頭でわかる。原作は、ペテルスブルグの社交界の模様から、アンドレイとピエールの会話(結婚なんてするな、アナトーリなどの不良と付き合うなというアンドレイの忠告)、そうすると約束するのに、その足で、ピエールは、アナトーリの馬鹿騒ぎの場にでかけ、そのあと、町に繰り出して、警官を袋叩きにしてしまう。そのため、ピエールは、ペテルスブルグを追放されてモスクワにくる。こういう筋が、ソ連版では忠実に再現されるし、まわりの建物の相違としても表わされているが、アメリカ版は最初からモスクワで起きることになっている。日本でいえば、外国の映画として作られた日本の話のなかで、京都と東京がひとつの都市として表現されるようなものだ。
アメリカ版は最近見直していないので、詳細は覚えていないが、たとえば、ナターシャがアナトーリと駆け落ち騒ぎを起こしたとき、ソーニャが急を知らせて、アナトーリを追い返すのは、原作では、ナターシャに宿を提供していたマーリア・ドミートリエヴナのお供で、更に、門のところでは、庭男がアナトーリを逮捕しようと控えていた。ドミートリエヴナはアナトーリを捕まえる意思で対処していたのだが、友人のドーロホフがいち早く気づいて、庭男をはね飛ばし、アナトーリを引き換えさせて逃げるのである。ところが、アメリカ版だと、ソーニャが知らせたのはピエールで、ピエールが門で待ち構えていて、アナトーリをそのまま追い返してしまう。そして、そのままナターシャを慰める場面になる。ここは、はじめてピエールがナターシャに愛を告げる場面なのだが、原作は、ソ連版のように、ピエールの自宅に匿われていたアナトーリを、出て行かせた(しかもお金を渡して)あとの話だ。アナトーリは、ピエールの美貌の妻の弟なのである。それから原作では、ドミートリエヴナが、駆け落ち騒ぎを自分の邸宅で起こしたナターシャを激しく叱責し、そのために、ナターシャは自殺も考え、病気になってしまうのだが、アメリカ版では、駆け落ちが失敗した時点で、ピエールにやさしく慰められる。
3 とにかく物量人海作戦で、圧倒的な迫力がある。ボロジノやアウステルリッツの大きな戦闘の場面では、とにかく広大な地域に、無数の兵隊たちが配置され、それぞれのところで動いている。何万人いるかわからないような場面だが、すべて実際の人間が動いているのだ。現代なら、確実にCGで構成するだろうが、当時はそんな技術はない。戦闘だから、爆発もひっきりなしに起きる。それも実写だ。これは、大舞踏会の場面も同様だ。そして、狩猟場面の迫力も大変なものだ。ハリウッド全盛期の西部劇のインディアンとの戦闘シーンなどでも、こんなに大量の人数が動員されている例は、絶対にないだろう。これこそ、国家の威信をかけた場面といえる。
さて、こうした感心する場面は多々あるが、しかし、映画として見たときには、やはり、否定的にならざるをえない要素が、それ以上に多いのである。
1 あまりに無意味というか、映画にはそぐわない「哲学的な意味を示唆しているらしい」映像が、延々と挿入される点だ。これがかなりたくさんある。心象風景を表わしているのだろうが、やはり、映画はドラマの進行や、そのときどきの演者の表情で、心象を表現すべきであって、なにか抽象絵画のようなものを、長々と見せられても、興ざめするだけだ。少なくとも、私には、まったく惹きつけられるものがなかった。
2 心象風景だけではなく、ドラマが進行する場面でも、モザイクのつなぎ合わせのように構成されていて、おそらく、原作を知らない人には、今何が起きているのかわからないだろう。というより、かなり原作を詳細に読み込んだ人だけが、場面場面の内容を理解することができるに違いない。ナターシャの弟のペーチャが戦死する場面をみてみよう。
フランス軍を追撃している軍隊に、ペーチャが伝令のために訪れる。ところが、そこにデニーソフ(兄のニコライの親友)がいるので、すっかりそこに居たくなり、帰るように言われている命令を無視して、いついてしまう。そこに、ドローホフ隊が応援にかけつけ、翌日フランス軍への攻撃をする。そのとき、まだ16歳のペーチャは、いくべきでないという意見を無視して、突撃隊に加わり、そこで撃たれて死亡してしまうのである。そして、そのとき解放したロシア人たちの捕虜のなかに、ピエールがいて、ペーチャの死と、ドーロホフに会うことになる。もちろん、ペーチャをピエールはよく知っており、ドーロホフは、かつて決闘した相手である。そのドーロホフが、ペーチャの参戦を許して、戦死させてしまったことに、当然ピエールは激怒し、ドーロホフはさすがに頭を垂れる。そういう場面である。しかし、この映画では、伝令としてやってくる場面はなく、
・ペーチャが、いろいろと食べ物をもっているので、まわりのひとに食べてくださいと配っている場面
・フランス人の少年の捕虜をなかにいれてあげようという提案をして、いれてあげる
・夜、剣を研ぎ師に研いでくれるように頼む場面
・攻撃が始まって、馬上のペーチャが狙撃されて落馬する場面。
それだけが、流される。ピエールとドーロホフの再開もないし、何故ペーチャがここにいて、しかも死んでしまうのか。これで話の流れが理解できる人は、この場面を原作で熟知している者だけだろう。こういう映像展開が、この映画には非常に多い。もう一つ例をあげよう。
ナターシャの駆け落ち騒ぎを知ったアンドレイは、失意のあまり、アナトーリに復讐するために、あちこち追いかけていくのだが、そのうち、ナポレオンの侵入を迎えて、再び軍隊に入る。そして、ボロジノ戦で負傷し、馬車で運ばれ、そのままモスクワから疎開をする。そして、たまたま近くに疎開していることを、ロストフ伯爵家のひとたちは気づくが、ナターシャには知らせない。しかし、ナターシャは感ずついて、ある夜抜け出して、いろいろな人に聞きながら、とうとうアンドレイの宿舎を見つけ出して、入っていく。そのあと、献身的な看病をする。疎開の場面あたりから、アメリカ映画は丁寧にこの筋を追っていくが、ソ連版は、
・じっと考えこんでいるナターシャ
・みんなが寝てから抜け出す場面
・横たわるアンドレイの側に座っているナターシャ
この三つの場面がつなぎ合わさっているだけだ。
3 私なら、冗長としか思われない心象風景の抽象的な映像と、延々と続く戦闘場面をかなりカットして、原作の筋を終えるような場面を付け加えたい。上のようなあまりに省略の多い部分を補うだけではなく、省かれた重要な展開がたくさんある。
アンドレイの父親のボルコンスキー公爵は、ナポレオンが侵入してきたあと、まだ領地には到達していない時点で死んでしまうのだが、映画は、この時点で、公爵とマリアの話は終りになって、以後出てこない。しかし、原作では、このあと、領主である公爵が亡くなり、令嬢だけが残ったので、領地の農民たちが、叛乱に近い行動にでる。それでマリアは窮地に陥るのだが、たまたま物資調達で派遣されていたニコライ(ナターシャの兄)が、騒ぎを聞きつけて、騒乱を静めて、マリアを保護し、安全なところに移動させるのである。そして、これが、マリアとニコライの結婚のきっかけとなるわけだ。「戦争と平和」のなかでは、ずっと若いころから、相互に愛し合っているソーニャという、財産のない親戚の女性がいて、ナターシャの親友なのだが、ニコライは、ソーニャとの愛との葛藤に悩む。そして、この二人の間に複雑な駆け引きが行われ、結局、財産が完全に傾いたロフトフ家を救うために、大貴族の唯一の相続人であるマリアと結婚することになるわけだ。そして、ニコライとマリアこそ、トルストイの父母のモデルなのだから、この一連の動きをまったく除外してしまうのは、読者からすると、容認しがたいものなのだ。戦後大分たった時点を描いたエピローグでも(映画では完全に省略されている。米ソともに)ピエール・ナターシャ家族と、ニコライ・マリア家族がともに詳しく描かれているのである。この流れは、やはり、重要だと思うのだ。
もうひとつあげれば、ドーロフホとの関係だ。
ドーロホフは、原作の最初期から、かなり終末期まで登場する、魅力的に描かれる悪役だ。ピエールの妻エレンと不倫しているという噂がたち、ピエールとドーロホフの決闘が行われる。そのドーロホフの立会人がニコライなのである。傷ついたドーロホフは、運ばれる途中、ニコライに最愛の母と妹のことを語り、通常のイメージと異なる彼の姿をみる。(以上の場面は映画でもわかりやすく描かれている。このあとが省略されている。)そして、ロストフ家に出入りするようになったドーロホフは、ソーャニに恋をして、結婚を申し込むが、伯爵夫婦の賛成にもかかわらず、ニコライのことを思って、ソーニャは断ってしまう。そこで、絶望したドーロホフは、ニコライを賭け事に誘い込んで、天文学的な借金を作らせてしまうのである。これが、ロストフ家の財産を傾ける最大の理由となる。だからニコライはずっと責任を感じているし、ドーロホフに裏切られたという感情を引きずることになる。こうしたことが、すべて、ペーチャの死の場面で、ピエールの怒りを誘発するのである。ソ連映画は、トランプでまける場面だけが、ごくわずか出てくるが、前後のソーニャとの関係や、借金を立て替えてくれるように、父親にニコライが頼む場面などは、まったく出てこないので、これも、どういう場面なのか、理解できないだろう。しかし、物語的には、重要だと思うのだ。
以上、いろいろと考察してみた。もちろん、国家総力をあげたこの映画は、無視しがたい魅力があることは事実だ。そして、これだけの映画を制作することは、今後は無理だろう。そういう意味で、記憶される価値が十分にあるが、見て楽しいかと言われれば、かなり退屈である。「戦争と平和」という小説は、壮大な歴史的事件を背景にしたスケールの大きな背景をバックにしているが、面白さは、やはり、込み入った人間関係に展開する、様々な事件と縺れ、つまり、ストーリー性にある。それが、かなり無視されているのが、残念である。
ペーチャ