学術会議問題は、ますます混迷を深めている。総理大臣に任命権があるから、推薦を義務として受けいれる必要はないのだ、という説明は、一貫しているが、菅首相が、名簿を受け取ったときには、既に6名はなかった、とか、首相は、その名簿を見ていないとかいって、では、誰が削除したのかという犯人探しが始まり、杉田氏であることか判明したと思ったら、今度は、加藤官房長官が、名簿は菅首相か見るべき書類の束のなかにあったのだと、説明したり、とにかく、めちゃくちゃというべきだろう。そして、これは、菅首相を基本的には支持している人たちですら、何故6人を削除したのか、ちゃんと説明する必要があると語っている。これは当たり前のことだ。しかも、理由の開示は、拒否された本人たちが望んでいるわけである。もちろん、拒否理由を言わない原因ははっきりしている。「言えない」からである。言えないのは、思想的な差別をしたからである。これは、断定しても構わないほど、明瞭なことである。
以前の内閣の国会に対する答弁で、任命は形式的であるとしていたのだし、通常の法令の解釈からすれば、任命が形式的なものであることは、ほぼ明らかである。もちろん、絶対的に、形式的なものでなければならない、という解釈ではなく、合理的な理由があれば、拒否もできるという解釈は、成立しうるとは思う。しかし、その場合も、「合理的な理由」が必要なのだから、その合理性を開示してければならない。ここまでは、ごく常識的な判断ができる人ならば、同意できるに違いない。
さて、学術会議問題は、単に、この任命問題ではなく、他のところに波及している。多くが、学術会議について、デマとしかいいようがない内容が、テレビの解説者や、SNSで流布しているからである。
フジテレビの平井氏による、学術会議の会員は、自動的に学士院の会員になり、多額の年金が支給されるというのは、語った者の社会的地位を考えれば、この上なく悪質である。そもそも、学士院の会員と、学術会議の会員の人数を見れば、平井氏のいうことなど成立しようがないことが、子どもにもわかる話である。
そういうなかで、日本学術会議は、答申などをほとんど出さず、たいした活動をしていないという類の意見が出されている。そういう意見を出している人は、日本学術会議のホームページをチェックしたのだろうか。確かに、答申は21世紀になって、3件しかない。しかし、学術会議の説明によれば、諮問がそれしかないから、答申もそれだけだという。答申というのは、諮問に対して出すものだから、諮問がなければ答申がないのは当然だ。要するに、逆に政府のほうで、学術会議に答申を求めていないというに過ぎない。それに対して、自発的に議論して出す提言は、実に多数出されている。2020年をとってみても、9月までに70件以上の提言が出されているのである。2019年、2018年は少ないが、2017年は、多い。こうした提言や勧告をみれば一目瞭然、学術会議が非常に活発に日本の学術的な課題に、積極的に取り組み、提言をまとめていることがわかる。だから、たいした活動をしていないというのは、完全なデマであり、かつ、ちょっと調べればわかることであるのに、事実と逆のことを言っているのである。
それから、SNSなどをみると、中国と活発に交流しているからけしからんというような意見がけっこう見られる。そういうひとたちは、学術研究ということを、まじめに考えたことがないのだろう。そうした意見は、ふたつの点で完全に間違いである。もちろん、間違いは、中国と交流などしていないという意味ではない。しているだろうが、それを非難するのは間違いであるということだ。
まず、学術研究とは、基本的にオープンな情報交換を基本にしているものだ。研究段階では、通常研究者は、それを秘匿して研究を進めるとしても、結論が出た段階で、最大限速やかに公表する。学術雑誌に投稿したり、あるいはインターネットで公表したりする。科学の成果は、誰がいつ発見したか、達成したかという「時間」が大きな問題となるので、できるだけ早く公開するものなのだ。どんなに優れた研究で、ノーベル章級の発見だったとしても、公開していなければ、社会に認められることはない。そして、公開であれば、中国とであろうと、ロシアとであろうと、どんどん交流すればいいわけだ。もちろん、企業や国家機関が、厳密に秘密を必要とするなかで研究を進めることは、いくらでもあるだろう。しかし、そういう研究は、企業なり、国家機関のなかで秘密を厳守することであって、そうした研究に携わっている研究者が、学術会議の国際会議を通して、その秘密の研究を開示してしまう、などということは、通常考えられないことであるし、そうならないようにするのは、企業や国家機関の責任であろう。
また、中国などと交流していると非難するひとたちは、おそらく中国のほうが日本よりも科学技術の水準が低く、交流すると、日本の優れた成果が中国側に盗まれるという前提的認識があるのだろう。もちろん、日本のほうが優れている分野はたくさんあるだろうが、逆の面も多数あるのだ。大学の国際ランクでも、中国の大学のほうが、既に日本より上位にランクされており、特許申請や学術論文数なども、日本は中国に遅れをとっているのが実情である。そんなことは、ニュースをみていれば、直ぐにわかることである。だから、交流するメリットは、日本側にもたくさんあるのだ。
そして、その非難は、戦前の鬼畜米英思想で、英語教育を廃止したり、米英から学ぶこと自体を抑圧したりした姿勢と、なんら変わらないといわざるをえない。単に米英が中ロになったに過ぎない。その認識構造は同じである。
優れた研究ほど、狭い意味での政治的立場からは独立しているものだ。逆に、政治的立場から独立することを保障し、学問の自由を保障することが、優れた研究を実現させる上で必要なことなのである。
菅首相のとった態度は、日本の科学研究に大きな痛手を与えるもので、それは日本全体の力にマイナスになることを、胆に銘じる必要がある。