DH制度の導入の議論

 巨人がセリーグでもDH制度を導入しようと提案したのだが、セリーグのオーナー会議で否決されたそうだ。まず感じるのが、巨人のセリーグにおける地位がずいぶんと低下したものだという点だ。以前なら、巨人の提案に、他球団がこぞって反対するなどということは、考えられなかったと思う。先の日本シリーズで、巨人の主催ゲームでもDH制度を採用したことが、非常に変だと思っていたのだが、要するに、原監督は、DH制度導入を考えていたということだったようだ。
 これまで、リーグ全体に関わるような改革に対して、巨人は非常に消極的だという印象だった。DH制度にしろ、クライマックス・シリーズ、そしてセパ交流戦にしろ、パリーグが熱心であった。特に巨人は冷淡で、要するに、交流戦などは、巨人人気にあやかろうとしているだけだとか、DH制度などは、野球の基本に反するなどという、非常に保守的、あるいは、現状にあぐらをかくような対応だったのである。しかし、いつか、気がついてみたら、実力はおろか、人気の点でもパリーグのほうが上だったというのが、現在のプロ野球の実態になっていた。さすがに、これではいけないと考えての、DH制度の提案だったのだろう。確かに、いきなり提案されて、すぐに賛成するのは難しいだろう。特に、巨人が2年間8連敗でシリーズに敗れての提案だから、負け惜しみと取られても仕方ない。しかし、様々な集団スポーツが、分業体制になっていく傾向ははっきりしている。例えば、バレーボールのリベロなどがそうだ。以前は、6人制バレーボールは、文字通り6人でやるものであり、すべての選手が、守りと攻撃をするものだという前提だったが、リベロの導入は、分業の現れである。

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Eテレ売却騒動

 youtubeの高橋洋一チャンネルで、Eテレ売却論を見たとき、面白い発想だと思った。(実は、雑誌に寄稿した内容をyoutube でも流したようだ。)高橋洋一氏の考えに、すべて賛成できるわけではないが、この案は賛成できると思っていた。ところが、その後、この売却論に大きな反対意見があること、そして大論争になっているらしいことを知った。
 批判の多くは、Eテレこそ、NHKらしい番組を多く放映しており、それをなくしたら、NHKではなくなってしまう、という番組擁護論だった。しかし、高橋氏は、Eテレの内容が悪いから廃止せよとは、一言もいっておらず、電波帯を売却すれば、NHKの受信料を下げられるというだけだった。よい番組は、ネットで流せばよいという。したがって、Eテレの番組を守れ的な批判は、ほとんど取り上げる価値がないものだろう。高橋氏の問題提起をまったくねじ曲げているからである。
 しかし、違う立場からの高橋氏のEテレ電波売却論への反対もある。
 小寺信良氏の「NHK再編の狼煙、「Eテレ売却」は妥当か、素人考え」https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2012/10/news018.htmlだ。氏の主張は、Eテレの電波枠を売却しても、それほど大きな意味はない。Eテレの費用の多くは番組制作費だから、Eテレの電波を売っても、たいした意味がないというわけだ。受信料については、払っている者と払っていない者との公平感がまず問題だという。
 確かに、見ているのに払っていない人、見ないのに払わされている人という、二重の意味での不公平がある。
 そして、小寺氏によれば、むしろ、無駄は衛星放送ではないかという。すると、単に地デジのNHKだけではなく、BS、CS、そして民放を含めた議論にしていかないと、問題を把握てきないことになる。素人考えが無意味とは思わないので、考えてみたい。

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実際に聴いたライブのCD 普門館のカラヤン

 録音された音楽が市販される場合、ライブの録音とスタジオでの録音があるが、実際にライブで聴いた演奏を、市販のライブ録音で聴くことができる機会はあまりない。実は、初めて自分が聴いた音楽会のライブCDを聴くことができた。それは、1977年普門館でおこなわれたカラヤンの、ベートーヴェン演奏である。私は、まだ大学院生で、結婚して間もないころだったが、カラヤンのチケットがとれそうだというので、思いきって2回の演奏会を申し込み、首尾よく入手できた。普門館のときだから、とれたと思う。とにかく5000人は入るらしい大きな会場で、そのために、チケット代も安く、数も多かったからである。聴いたのは、第一日目の一番と三番英雄、そして最終日の第九だった。しかし、40年以上前のことであるだけではなく、なんといっても、ばかでかいというしかないホールで、英雄のときは、まるで、外野席の一番上から野球の試合をみているような感じで、ベルリンフィルという世界一のオーケストラの音などは、まったく味わえないような席であった。カラヤンを聴いたという感動は、まったくえられなかった。だから、演奏については、遠くでやっているなという程度のもので、ほとんど覚えていないのだ。FM東京で放送したらしいが、当時はテレビもラジオもないときで、まったく知らなかった。
 数年前、このときのライブ録音がCDとして発売されたが、えらく高かったし、またカラヤンのベートーヴェンの全集は何組ももっていたので、購入せずにきた。多少安くなったのと、リマスターされたというし、いま買わないと入手できなくなるとも考えて、先日買ってみたたわけだ。

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いまだにトランプの勝利を叫ぶ人がいる

12月14日は、アメリカ大統領選挙で選出された選挙人が投票する日である。これにどれだけの意味があるのか、極めて疑問だが、既に選挙管理当局による正式発表がなされているから、公式にバイデンの当選が確定しているといえるのだが、自分が任命した判事が複数いる連邦最高裁が、トランプの訴えを退けているにもかかわらず、いまだにトランプは自分が勝ったと主張しており、また、逆転がおきるといっている人もいる。しかも、日本人のなかにもいるのが驚きだ。youtubeをみていると、そのうちに票が計算されなおされるか、バイデンの不正が暴かれて、トランプが逆転勝利すると声高に主張しているのが、多数ある。トランプが起こした訴訟では、いずれも証拠がないといって却下されているにもかかわらず、トランプは、証拠を裁判所か認定しないと怒っている。提出していないから「ない」と判断していると考えるのが、常識であり、ないものの認定ができるわけがない。もし、不当に裁判所が提出した証拠を「ない」といっているのならば、その証拠を国民の前にさらけ出せばいいだけのことだ。しかし、国民の前に出せというと、訴訟だから出せないというのでは、なにをかいわんやだ。 

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『教育』2021.1号を読む 久冨善之「教育実践と教育的価値」を読んで思うこと--学校選択の議論と教育社会学

 本論文は、教育科学研究会教育学部会11月例会での報告に基づくものである。当初、例会での報告表題は「教育社会学と教育実践の不幸な出会い」というものだったと記憶するが、当日になって変更になった。内容が全く変わったわけではないだろうが、多くの部分が削除されたと思われる。私自身は、本来の題目での報告を大いに期待したので、少々がっかりした。つまり、教育社会学が教育実践を扱う困難さについて、掘り下げた報告があるかと思ったのである。というのは、私自身が「教育行政学と教育社会学の不幸な出会い」とでもいうべきことを体験したことがあるからだ。『教育』の本文の検討前に、その点について予備的にまず書いておきたい。本論の検討は、すこし間をおくことになる。
 私の理解では、教育社会学は、教育学全般のなかでは、多少特異な位置を占めていると思う。教育学は、教育価値を前提にした学問だが、教育社会学は、教育価値については、少なくとも科学的方法として、相対化すると、私は理解しているからである。私自身、教育社会学の熱心な学徒ではなかったということもあったかも知れないが、ある時点まで、教育学と教育社会学との相違について、あまり意識していなかった。それを強く意識せざるをえなくなったのは、学校選択問題が生じたときである。2000年前後に東京を中心として、学校選択制度を導入する政策動向があった。そのとき、教育学者にも、賛否両論あったのだが、そのときに、面白い対照に気づいたのである。私は教育行政学の専門で、教育行政学専攻を出たのだが、私の年齢の近い元同僚たちは、多くが学校選択制度の賛成派だった。黒崎勲、三上和夫、村山士郎氏らと私である。佐貫氏のような反対派ももちろんいたのだが。それに対して、教育社会学の人たちは、私の知る限り全員反対派だった。久冨氏もその代表的な論客だった。なぜこのような対立的「傾向」が生じたのだろうか。これが、先述した「不幸な出会い」である。

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説明責任は、小室圭氏だけにあるのか

 真子内親王が「結婚決意文書」をだしてから、いろいろな騒動が起きている。その最大のものが、西村宮内庁長官が、小室氏に「説明責任がある」として、国民の不信感に対する説明をきちんとするようにという、見解表明を行ったことだ。私はもちろん、皇室内部事情などは、まったく疎いので、表に現れた情報によって判断しているだけだが、宮内庁長官が個人的な見解を述べるはずがないのだから、これは、皇室の誰かの代弁であるか、あるいは、政府の誰かの代弁なのだろう。そこはわからないが、この説明の要請を聞いて、疑問をもつ人は多いに違いない。
 そもそも、説明責任とは何だろうか。常識的には、何かネガティブな状況になっている、あるいはトラブルが生じている場合に、その状況に対して責任をもっている人が、説明しなければならないということだろう。では、現在生じているトラブルとは何なのか。実は、このトラブルに対する認識が、かなりばらばらなのではないだろうか。
 ある人にとっては、小室家の借金問題と、家庭における複雑な事情であると受け取っている。そう考える人たちは、小室氏に対して、説明を求める発想になるのだろう。あるいは、こんな結婚は絶対に認めないという立場かも知れない。

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選択的夫婦別姓について

 選択的夫婦別姓論議が新たな局面を迎えているようだ。自民党のなかにも、賛成する人がけっこう出てきていることが要因だろう。野田聖子氏が重要なポストについたことも影響しているのだろう。また二階幹事長が、選択的夫婦別姓に違和感かないとも表明している。他方、自民党内に、選択的夫婦別姓をあくまで反対するためのグループ(絆を紡ぐ会)などか結成されるなど、賛否両方の動きが活発になっている。
 海外で、日本のように、法律によって夫婦が同一の姓を名乗ることを原則的に規定していく国は、ドイツやオーストリアなどごくわずかなようだ。http://www.hirokom.org/minpo/siryo01.html
 日本でも、同一姓を名乗ることか規定されたのは、明治からになってからのことであり、もともと、江戸時代までは、庶民には姓が存在しなかったのだから、同一姓などは問題外であったし、女性の場合にも、ほとんど名前だけで呼ばれていたのではないだろうか。歴史的に有名な女性は、それに対して、むしろ生家の姓を名乗っていることが目立つ。北条政子や日野富子など。明治になって、戸主を管理の対象とした家族制度を創設する際に、家族はすべて同じ姓をもつということにしたわけだ。したがって、同一姓というのは、日本の伝統的な制度でもないし、あくまでも戸主を絶対とする家族制度の名残りである。そして、それは女性が独立して社会に出て活躍することを想定しないシステムでもあった。もちろん戦前にも、社会的に名前を知られる形で活躍する女性はいたが、やはり、少数だった。

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道徳教育ノート「きまりは何のために」

 久しぶりに道徳教育の文科省資料について書きたい。「きまりは何のために」という文章だ。久しぶりなので繰り返すが、私が書く文章は、この教材を使って、このような授業をすればよいということではなく、あくまでも、大人として、この教材を読んでの感想である。教師も大人なのだから、まずは、一人の大人として教材を解釈する必要があると考えるからである。(https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/29/1303863_26.pdf)
 さて、「きまりは何のために」という文章は、最初は、国会議事堂を見学する場面から始まり、そこでは、学校で起きたルール違反について反省するきっかけになる。
 明が、自分たちで決めたルールを破ったことだ。それは、放課後の校庭の使用は、下級生から始まって、上級生に移っていくというルールだが、明は、当日発売のゲームの購入に間に合うように、下級生の時間帯に遊んで、ゲームの購入に間に合った。しかし、ルールを守ったために、ゲームを変えなかった浩が抗議する。「遊ぶ権利」とか「買った者勝ち」などの話がでていたが、次の日からルールを破る人がたくさん出た。「塾にあわせて遊ぶ」「テレビの時間にあわせて」などと勝手なことをいう人がでてきた。そして、とうとう、上級生のけったサッカーボールに一年生があたってしまうという事故がおき、校庭を使えなくなってしまう。
 そして、国会議事堂の見学になるわけだ。そこで、国の大事な規則を作っているという話を聞いて、学校で起きたことを反省し、もう一度考えなおそうと決意したところで終わっている。

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国会審議の形骸化

 私の記憶では、田中角栄首相が、国会を年中開会するようにして、一年間を通して審議をしようと提案したことがあったと思う。それに対して、野党がとんでもないことだ、国会の議論を充実させるためには、休会の期間に国民の実態を調査したり、いろいろと勉強したりする必要がある。また、国民の反対が多い法案は会期という期限があるから、そこで廃案になる。つまり、国民の支持がある法案なら、会期中に処理できる、というような反対意見を述べていた。
 しかし、近年安倍内閣あたりから、この関係が完全に逆転した。特に今年は、野党が国会を開くこと、会期を延長させることを主張しているのに、自民党がさっさと国会を閉会させてしまうことが、続いた。通常国会も、また、菅内閣に変わっての臨時国会も、野党は審議を主張しているのに、自民党がそれに応じていない。そのためにコロナ対策が完全におざなりになっている。
 こうした逆転現象は、何故起きたのだろうか。また、それはいいことなのか、あるいは国会の劣化なのか。

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リニア新幹線は、まだ続けるのか

 毎日新聞(2020.12.7)によると、川勝静岡県知事が、環境問題の解決抜きには、リニア整備認めないと明言したとされる。本会議で「リニアに長く関わり、賛成してきた。現在も推進すべきだとの考えに変わりない」とする一方「大井川の水や南アルプスの自然環境に悪影響を及ぼすなら、認めることはできない」と述べた。水資源の問題だけではなく、有害物質を含む掘削土が発生する可能説、大井川上流で取水して山梨県側の富士川水系に放流する田代ダムに対する点では、田代ダムの取水口付近の河川流量は確実に減って、水利権者に影響が及ぶ可能性があるとしている。
 こうした環境悪化の問題だけではなく、工事が行われている地域では、さまざまな使用制限がかけられ、自然を活用した教育を行っている学校や幼稚園などの活動が阻害されているという話を聞いたことがある。様々な悪影響が指摘されている。もし、そうした悪影響を帳消しにするほどの、社会的なプラスの側面があるならば、作るのもよいのだろう。

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