ヴェルディ「トロバトーレ」への思い

 ヴェルディ中期の3大傑作といわれる「リゴレット」「トロバドーレ」「椿姫」は、すべて本当に全編素晴らしい音楽で満ちあふれている。そして、それぞれ特徴的な性質があるが、トロバドーレは、なかでも際立った特色がある。音楽は、美しいメロディーがずっと続くが、エネルギーに満ちている。内に向かうのではなく、あくまでも外に放射するような熱がある。これがトロバトーレの最大の魅力といえる。そして、もうひとつ、オペラはあくまでも筋をもったドラマであるから、劇としての魅力も大切であり、優れたオペラは、劇としても優れているのが普通だ。あまり台本の質を考慮せず、依頼の仕事を引き受けたために、オペラとして成功しなかった作曲家として、シューベルトとヨハン・シュトラウスがいる。(後者は「こうもり」のみ成功)では、トロバトーレはどうかというと、誰もが感じるように、あまりに奇怪で、奇妙奇天烈な筋なのだ。
 まず、最初に、その奇妙な筋を確認しておこう。
 最初ルーナ伯爵の家臣フェランドが兵隊たちに、過去の話をするところから始まる。
 先代ルーナ伯爵の次男をジプシーの老婆が占うと、次男が病気になったので、老婆は火刑に処せられた。しかし、焼け跡から子どもの骨が出てきた。それが次男だと思われたが、今のルーナ伯爵は、弟が生きていると思って探しているという話である。

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読書ノート『政治家の覚悟』菅義偉

 政治家の本は、これまでほとんど読んだことがないが、やはり、総理大臣になったひとが、何をどのように考えているのか、知る必要があると思い、Kindleで購入できるので、読んでみた。おそらく、ゴーストライターが書いた文章だろうが、非常に読みやすく、菅首相の考えや発想法がよくわかる。そして、わかると同時に、このひとは、やはり権力主義者なのだということと、彼の政策は、個別領域のなかでの発想に留まっており、体系性とか、論理一貫性はないのだということが、よくわかる。もちろん、個別政策の中では、なるほどと納得できるものもあるが、いろいろと疑問がおきるものが多い。

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『検証全国学力調査』(教科研)出版記念研究会に出席して

 この本の読書ノートを書いたので、こうした研究会には出席しなければいけないと思い、参加した。Zoomを使ったオンライン研究会で、30名程度が参加していたようだ。基本的には、教科研のひとたちなので、この著書に異論を唱える議論はもちろんないのだが、ひとつ非常に重要な指摘があって、私も教えられるところが大きかった。
 それは、全国学力調査は、学力調査と同時に、学習状況調査を行っており、学校でどのような指導をしているか、あるいは、家庭でどのような学習をしているか、また、さまざまな家庭内の条件などが調査されていて、これは不可分の関係になっており、どのような指導や家庭学習をしていると、どういう問題への正答率が高いか、などという統計もだされる。これは、学校での指導や家庭での親に対するコントロールであって、その点での検討が必要であるのになされていないという、この本に対する批判的なコメントだった。確かに、そういう側面があるだろう。もっとも、点数や順位ほどに、現場の教師に、そうした指導方法、学習方法の指摘が浸透しているかどうかは、かなりあやしいとは思うが、教育委員会や校長の指導によって、少しずつ浸透することは間違いない。

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欠席者に合格通知?

 読売新聞(2021.3.12)によると、試験に欠席した受験生に合格通知が届き、出席して合格点をとっていた受験生は不合格になっていたという。そうしたミスが生じたのは、合格点をとっていた受験生が、間違った席に座ったために、その席の受験生が合格になり、合格の受験生は、自分の席に座らなかったから、欠席扱いになって不合格になったのだろう。大学としては、合否をただし、それぞれの受験生に謝罪したという。北九州市立大学文学部比較文学科でのできごとということで、大学は、「大学全体の信頼を損ねるもので、深く反省している」とした。そして、試験監督の確認が不十分で、ミスに気づかなかったということが、原因とされている。
 しかし、昨年まで大学に勤め、何度も入試監督に付き合ってきた者としては、どうも大学の謝罪の内容は、腑に落ちないのである。これだと、その教室の監督をしていた教員が、ミスをしたことになるから、何らかの処分でもされるのだろうか。処分はさておき、私自身の経験から、違う席に座っていた受験生を、本人が正しいとしているのに、監督の教員が気づくのは、なかなか難しいのではないかと思うのだ。

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『教育』2021.4号を読む 教科外担任について

 『教育』2021年4月号に、鈴木大裕「学校における免許外担任の解消を求めます!」という文章がある。鈴木氏は、土佐町の議員をしており、町議会で、上記のような要求を町長に対してぶつけたということだ。土佐町では、長年、美術の専科教員が配置されていないことを踏まえてのものだ。
 鈴木氏は、専門の美術の免許をもった教員がいないことは、子どもの学習権を保障していないのではないか、と町長に迫った。町長は、複数校兼務の担当も含めて、配置してもらうように努力するという回答を引き出した。
 一条校では、正式な免許をもった教師だけが、授業をすることができる。しかし、どうしても、正規の教師を確保できない場合もある。日本のような豊かな国と思われ、かつ教育に熱心な国では、あまり意識されないが、実は、正規の免許をもった教師を配置することができなくて、免許をもっていない教師が教えていることがある。もちろん、まったく免許をもっていない教師が教えることはできないが、異なる教科の免許をもっている場合には、特例として、一年を限度として、多少の講習を受けた上で、自分の免許とは異なる教科を教える事ができることになっている。文科省は、原則として好ましくないとして、削減に努力しているというが、文科省のホームページによれは、平成30年に、約1万人の免許外教師が存在している。少ないとは言えない。

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「日本型学校教育」中教審答申の検討2

 今回は、9章の前半を検討する。
 Society5.0時代で、教師はどうなるのか、どうあるべきなのかという内容である。巷では、シンギュラリティ時代が到来すると、教師はいらなくなるのか、というような話題が深刻に議論されている部分があるが、ここには、そういう問題意識はないようだ。あくまでも、前向きに、新しい変化に対応していくべきものとして描かれている。その前向き姿勢は、私も賛成であるが、書かれていることは、あまり現実的とはいえない。何しろ、教師になにもかも押しつけている現状こそが、学校のブラック化を招いているのに、まだまだ教師に、Society5.0時代に相応しい資質を、付加的に求めているのだ。

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親指シフトを富士通が終了させてしまった

 40年ほど続いた親指シフトキーボードの販売が、開発元の富士通が終了させた。私は、最初は、富士通のワープロ機械のオアシスを使っていたので、そこから親指シフトを使い始めた。だから、親指シフトが開発されたあと、かなり早い時期からのユーザーだ。もちろん、それまではローマ字入力だったので、かなり長い間両方使っていたものだ。若いころは、適応能力が高いのか、親指シフトからローマ字に切り換えても、それほど困らなかった。つまり、併用できた。しかし、年をとるに従って、その切り替えが遅くなり、やはりひとつに絞ろうと考えたときには、迷わず親指シフトをとった。いまでは、よほどのことがない限り、ローマ字入力は使わない。ノートパソコンも、富士通の親指シフトになっているものを購入した。それまでは、私のノートパソコンでは親指シフトが使えなかったので、仕方なく、ノートの場合には、ローマ字入力していたのだが、今はその必要もなくなった。もちろん、ローマ字入力は、アルファベットを使うのだから、使うことはできるが、やはり、非常に能率が落ちる。

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読書ノート『検証全国学力調査』(教科研編)2

 ネガティブなことばかり書いても前に進まないので、積極的なことを書いてみよう。
 似て非なる試験として、オランダのCITOテストをみよう。
 オランダは、世界でもっとも自由な教育制度をもつ国として有名である。教育の自由が、憲法で規定されている、おそらく世界で唯一の国でもある。そうした自由のひとつとして、どの学校にいくかは、完全に選択することができる仕組みになっている。基礎学校(幼稚園と小学校が合体した学校)は、完全に自由な選択の対象であり、公立学校も私立学校もまったく同じように選べる。(財政基盤も同じなので、基本無料である)すべて公費で運営されている。違うのは、公立学校は特定の宗教教育を行わないが、私立学校は行うことができる点だけである。基礎学校が修了すると、3つの異なる水準の学校に分かれて進学することになる。大学に接続する学校(6年制)、高等専門学校に接続する学校(5年制)、専門学校に接続する学校(4年制)へと分かれるわけだ。(編入、移行はありうる)最終的には、親や本人の希望によるが、だいたいは、成績で選択する。もっとも、6年制の学校は、極めて厳しい学習が求められるので、勉強が好きではない子どもは、あえて希望しないのが普通だ。

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読書ノート『検証全国学力調査』(教科研)

 2020年は、コロナによる全国的な休校措置のために、全国学力調査も実施されなかった。そのことが、学校教育にとっては、思わぬ(というか、当たり前にそうなった)解放感を生んだ。教科研は、改めて全国学力調査の意味を問い直しを始めた。そして、全国学力調査を悉皆調査として行うことを批判し、3年ごとの抽出調査を提言しているのが、本書である。
 学力調査は、単に文科省の実施する全国版だけではなく、県や市が行う学力調査があわせて実施されている自治体も多い。しかも、これらのテストは、日常の学習とも、また受験とも関係なく、単に、「調査」という名目で実施されているが、逆に、日々の学習活動を大きく歪めている。過去問で事前に練習したり、あるいは、学力テストのための学習を組んだり、そして、それぞれの調査で順位などがだされるので、教師への管理の手段としても活用されている。子どもたちも、テスト漬けで、おそらくストレスの要因にもなっているだろうし、競争による荒廃が進み、学力の向上に役立っていないのである。そうしたことを、実際の現場の状況を踏まえて、豊富な実例をあげて、説得的に主張していると思う。

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「日本型学校教育」中教審答申の検討1

 前に多少検討したが、その後放置していたので、再開する。ただ、前からやっていると、なかなか進まないので、できるだけ後ろにある内容の検討からやっていきたい。
 まずは、教師に関する部分だ。9章に「Society5.0時代における教師及び教職員組織の在り方について」という部分がある。
(1)基本的考え方
(2)教師のICT活用指導力の向上方策
(3)多様な知識・経験を有する外部人材による教職員組織の構成等
(4)教員免許更新制度の実質化について
(5)教師の人材確保
という内容になっている。 
 書かれていることを、表面的に受け取れば、ごもっともという内容であり、それはそうだろうと言わざるをえない。しかし、問題は、書かれていないことにある。
 まず(5)の教師の人材確保について考えてみよう。 

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