前回ブログを書いてから、ずいぶんと日時が経ってしまった。実はふたつほど途中まで書いたのだが、内容が古くなってしまったそのままにしている。そのひとつが、斉藤知事問題である。とにかく、事態が目まぐるしく動いた。選挙前のパワハラ非難の大合唱から、議会の全員一致による不信任決議、そして、再選挙、立花氏の登場による選挙戦の転換、斉藤氏の再選、そして、その後の展開も、PR会社による暴露と公選法違犯論議というように展開して、いまだに議論はおさまらない。
途中まで書いて中断した文章は、この一連の流れを、単にパワハラ問題や公益通報問題などの個別的なことよりも、一連の動向が、最初から仕組まれた政治的な斉藤廃除勢力による、計画的な動きであって、兵庫県の政策をめぐる旧体制と新体制の相剋であるという中に、位置づけようと考えたわけである。廃除の活動は、斉藤知事側の反撃もあり、事態はすこしずつ、斉藤追い落とし派の計画とは違った方向に動き出して、「事実は小説より奇なり」という様相を呈したことを整理して、議論すべき点を自分なりに論じようと思ったわけである。
最初の 「公益通報」なるものが、そういえるものであったのか、公益通報であったのか、あるいはたんなる怪文書的なものであったのか、通報したとされる人物の自殺の原因は何だったのか、というような論点は、ずいぶん議論されたが、あたらしく出た公選法違犯問題については、違犯かどうかという点に議論が集中しているように思われる。
しかし、私の基本的な立場として、斉藤知事を支持しているわけではなく、私が兵庫県民だったとしても、斉藤氏に投票したわけではないという立場で考えてみても、一連のメディアによる現在も続いている斉藤批判には、疑問を感じるのである。とくにメディアのダブルスタンダードについては、大きな問題であるといわざるをえない。
現在の最大の論点である公選法違犯についても同様である。特定の企業に頼んで選挙戦略をたて、それにしたがって選挙運動をしたことが、公選法違犯になるかどうかについては、法律論的には、違犯の可能性が高いのであろう。もっとも、だからといって起訴されるかどうかはまた別問題であるが。私がメディアの報道に疑問をもつのは、近年において、PR会社などに依頼して、選挙活動を行うことは、いくらでも行われているのではないかということだ。都知事選の「石丸現象」が相当話題になったが、石丸氏の選挙活動は、そうした選挙運動のプロとして有名な人に依頼して、全面的なバックアップをうけて、当選はしなかったけれども、予想もつかなかったような得票をえたわけである。そして、バックアップした人物も名前もさんざん報道されていた。しかし、そのことに関して、公選法違犯だなどと、メディアは問題にしただろうか。石丸氏は当選しなかったから、違犯は問題にならないということでもないはずである。実際に石丸氏の応援をした当人が、斉藤知事の選挙活動が問題視されたことで、今後かなり制約されるような談話を発表した。
それから、そのことが法律上の違犯にならないとしても、知事選挙であれば、その政党の県議や市長が実質的な選挙活動を担っていることも、常識である。当然、表面的には選挙応援をしないとしても、実質的に支持拡大のために動いていることは誰も否定しないだろう。もちろん、そのために彼らが、その活動に関わる支払をうけているわけではないから、公選法の違犯にはならないかもしれないが、しかし、やっていることは、PR会社でやっていることと似たようなものであり、むしろ、彼らが税金で生計のみならず、政治活動、つまり選挙期間中は実質的な選挙運動をしていることになるのだから、PR会社に依頼することよりも、選挙戦としての公正さをそこなうものではなかろうか。
このように考えていけば、今回の選挙が公選法違犯であるかどうかという問題とは別に、現在の社会状況のなかでの選挙活動のありかたは、検討しなければならない、活動の自由の範囲を拡げる形での検討が必要であると思うのである。これまでの選挙のやり方に関する原則は、ネット社会以前のあり方である。しかし、社会システムは、ネットの普及によって根本的に変化しているのであるから、選挙のあり方についても、ネット社会に適した方法を許容していく必要がある。
逆に考えてみればすぐにわかることだが、既に政権をとっている、あるいは知事選等での現職の陣営は、旧来の方式が好ましいわけである。現職を何期かつとめている知事にとってみれば、当然自分の選挙のために動いてくれる議員等が多数いるだろう。彼らがお金を配れば当然買収だから違犯だが、電話をかけたり、政治活動の一環で支持を訴えるようなことは自由にできる。しかし、新人は、そうして動いてくれる人はほとんどいないわけであり、新しい方式を使わざるをえない。今回の兵庫知事選で、斉藤氏が新しい方式をとり、稲村氏が比較的組織に頼った方式をとっていたのは、当然のことであるといえるだろう。しかし、PR会社に依頼して、有償で動いてもらうことは、公選法で禁止されているから違犯だとしても、民主主義にとって悪いことなのだろうか。「有償」部分が買収的な要素をもったら問題だろうが、それは、完全に収支の全面的な開示を義務つけることによって、問題性を防ぐことはできるだろう。むしろ、お金はないが、支持を拡げられるような政策をもった候補者が、クラウドファンディング等で資金を集め、その資金で宣伝活動を充実させたり、あるいは、適切なPR会社を使って政策を広めることができれば、それは民主主義にとって、非常に好ましいことなのではないかと思うのである。要は、お金を使うことではなく、裏金であったり、闇の使用であることが問題であって、透明性を確保すれば、お金を選挙で使うことの不正は抑止できるはずである。