悠仁親王の大学受験をめぐり、さまざまな議論があり、また、それが皇室のありかたにまで発展している現状であるが、皇室に詳しいとされる八幡和朗氏の文章が、president online(ヤフー・ニュース掲載)が公表されている。悠仁さまに東大以外の「有力な選択肢」が浮上…秋篠宮さまご夫妻が頑なに「学習院」を避ける裏事情(プレジデントオンライン) – Yahoo!ニュース
経歴から見る限り、八幡氏は、きわめて知的レベルの高い優秀な人であるにもかかわらず、いかにも、事実誤認といわざるをえない表現が散見される。皇室問題は、日本社会のありかたをめぐる重要な柱であり、八幡氏の論のおかしな点を批判しておきたい。
1ページから4ページまであるが、1ページ目は、これまでの進学に関する整理で、とくに異論はない。「秋篠宮さまご夫妻がよりリベラルで知的な校風のお茶の水や筑波大学附属を好まれたのは理に適っていた。」と書かれている点については、そのはいり方が問題なのだという批判をもたれているが、八幡氏は、皇室は特権だらけだといっていることでわかるように、特権を使うことについては、ほとんど疑問を懐いていないようだ。
「この反発は、悠仁さまが東京大学志望だという憶測によって頂点に達した。「皇族特権」といわれたが、皇族の生活や人生は特権だらけだ。スポーツ観戦やテーマパークでの遊びでも、庶民と同じように列に並んだり、抽選に参加されるわけでない。お召し列車に乗ったり、パトカー先導で車で移動したりもする。」という文章によくあらわれている。しかし、こうしたことがらに国民の批判が向けられることは、私はまだみたことがない。スポーツ観戦や音楽鑑賞、お召し列車などは、最初からそのように設定されていることであり、スポーツ観戦で特別席でみる人は、別に皇室だけではない。しかし、こういうとくに国民が異論をもっていない面をもって、受験の特権を肯定するのは、ほんとうの問題からそれているのである。
「もし東京大学に悠仁さまが入られたら、受験生1人が落とされるといわれたが、3人の五輪出場枠ならともかく、東大には何千人も定員がある。」という文章に、八幡氏の勘違いが典型的に表れている。東大の定員は何千人だから、悠仁親王一人くらい特別に入っても問題ないだろうということのようだが、その前段階では、東大の推薦は各高校に推薦枠があり、筑付は4人なのである。さまざまな条件がある中で、通常の学業成績でもきわめて優秀であることが、4人枠に入るために必要とされている。しかし、「事実に反する」と八幡氏はいうかもしれないが、悠仁親王の筑付での成績は惨憺たるものであることが、露顕している。私は事実そうだろうと思う。お茶の水女子大附属中学は、男子の偏差値は低いが、そのなかでもとくに優秀ではなかったといわれており、筑付も特別枠の事実上無試験入学だったから、そもそも筑付の授業についていけると考えるほうが不自然なのである。そうした予想とおりになったわけであり、そういう中で、筑付の東大推薦枠を悠仁親王がとるということは、八幡氏がいう「オリンピック3人枠」を特権である人物がとってしまうことと、ほとんど同質の問題なのである。
悠仁親王の現在進行しているらしいやり方での東大進学に反対している人も、まったく通常の定員を奪うことなく、まったくの別枠としての皇室特権を制度化して入ることは、反対していない人が多いのである。
東大何千人と書いたあとで、留学生枠、沖縄枠、女性枠などが議論されているというが、これは、そもそもいくら優秀であっても、条件等で不利になっているひとたちに機会を与えるという趣旨で論議されていることであって、そもそも最大特権人である皇室に、更なる枠、しかも、通常の受験生の枠を特権的に奪うこととは、まったく違う次元の問題であろう。
そして、なぜ八幡氏が次のような見解を書けるのか、いささか不思議にすら思う。
「私は、学業に無理なくついて行けるのであれば東大進学は別に構わないと思ったし、悠仁さまは、推薦入試の基準にだいたい合致していたのである。」
学業に無理なくついていける、推薦入試の規準にあっているというが、どちらも適切な判断とはいえない。
筑付の授業にとてもついていけない状況であることは、さまざまにいわれており、私自身、それは充分ありうる事態であると思うし、また、入学前からそうなると思っていた。だから、生物以外の科目は、きわめて不充分な成績であるというのは、まったく驚くことではない。筑付という高校の授業についていけないのに、東大の理系の授業についていけるはずがない。
推薦入試の規準にあっているというのも、まったく説得力のない言い方である。トンボに関する学術論文といっても、データをいくらかだしたかもしれないが、専門の研究者が書いたものであると思わざるをえないし、学会発表といっても、全体の式典に出席しただけで、みずからのワークショップでの説明はせずに帰宅してしまったと報道されているのである。それで学会発表したことにならないことは、誰の目からみてもそうだろう。筑付進学のためと思われた九州の作文コンクールでは、剽窃が指摘されていることも記憶に新しい。剽窃は禁止というルールの下に行われたコンクールであるにもかかわらず、当選が無効にならなかったのは、いかにも歪んだ皇室特権であったろう。今回の学術論文でも、実は、東大入学反対署名をした会のホームページに、詳細にそのおかしな点が指摘されているのである。
八幡氏のようなエリートコースを歩んだ人間であれば、悠仁親王の学力については、よくわかっていると私は思う。
次に皇位継承問題にうつっている。(3ページ目)ここでは、悠仁親王は帝王教育を受けていない、人物的にも愛子内親王のほうが人格、成績等天皇にふさわしいという神道研究家の隆盛明勅氏の論を批判する形で、悠仁親王を擁護している。ただ、絶対的に悠仁親王が天皇になるべきで愛子天皇はふさわしくないとまでは書かれていない。たしかに、愛子内親王は、八幡氏のいうように、帝王教育を受けているわけではないと、私も思う。なぜなら現在のシステムでは天皇になることはないからである。ただ、国民の少なからぬひとたちが愛子天皇期待論を、人柄や能力などを根拠に懐いていることはある。しかし、私は、そういう理由ではなく、きわめて単純に、男女平等のこの社会で、男系男子のみが皇位継承するなどという時代錯誤的なことをしてはならないということだ。私自身は、天皇システムの支持者ではないので、皇位継承者がいなくなることについて、別に危機感を懐かないが、国民が分裂しそうになるかもしれないような大問題をあえて議論して、天皇制廃止をする必要は感じていない。ただ、維持されるならば、憲法の大原則である男女平等の原則にたつべきであり、皇室典範は憲法違犯であると思っている。能力や人格においても、愛子内親王のほうが、悠仁親王よりも天皇にふさわしいと思うが、その理由で、特別に愛子内親王の即位を主張するものではない。
皇室継承の危機が、男系男子にかぎる点にあることは、明々白々なのに、Y染色体などというカルト的な主張による時代錯誤の主張を、八幡氏はなぜ、こういう文章で問題にしないのだろうか。