統一教会問題の解決は、単なる被害者救済ではない

 今朝羽鳥モーニングショーをみた。最近統一教会問題を再び扱うようになったが、羽鳥に限らず、テレビの扱い方は、統一教会にとってはあまり痛手にならないようなものだし、国会での野党の追求も同様だ。
 国会では、野党が自民党議員の何人かを追求しているが、ずれているとしか思えない。
 両者に共通しているのは、あくまでも個人的関係を問題にしていることだ。私からみれば、過去の関係を問題にしても仕方ないではないかと思うし、それが、将来的に関係を絶て、というのも、善処すると言われればお終いではないか。極端にいえば、国会議員にも信教の自由はあるのだから、そこを制限するようなことを求めると、それ以上の突っ込みができなくなってしまう。

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女子中学生の無差別殺人未遂

 私の記憶する限り、これまでまったくなかった事件だ。15歳(自称)の少女が、まったく見ず知らずの人を、渋谷という人々が多数いる場所で刺した。刺されたのは母と子ども(女子)で、今のところ生命に別状はないようだが、昨日のニュースでは、意識はあるという、かなり危険な状態であることを思われる表現をしていた。(最低3カ月の重傷ということだったが、娘のほうは腎臓にまで傷が達していたという。)
 前代未聞だと思っていたら、ヤフコメに、自分の近所で女性が刺した事件が、昨年だけで3件もあったという文章があった。報道されないだけで、実はたくさんあるのかも知れない。しかし、それにしても、未成年がこうした特に無差別の殺人未遂、殺人のような凶悪犯罪を起こすのは、ほとんどが男だったが、今では、女性でも起こす時代になったのか。

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自民党は売国的政党から脱却できるのか

 安倍元首相銃撃事件以来、統一教会への追求が復活し、内閣改造がなされたあとも継続している。しかし、本当に追求されなければならないことは、私から見ると等閑視され、問題が違う方向に向けられているように感じる。そういう指摘もいくつあるが、その指摘のなかでも、実は、「違う方向」「真の問題」についての見解も、ぶつかり合っているともいえる。だから、問題を整理していく必要がある。
 論点は以下の点である。
1 安倍元首相を銃撃したのは誰なのか。山上か、彼は目くらまし役なのか。
2 統一教会と自民党との関係、何が問題なのか。
3 宗教と政治の関係は、どうあるべきなのか。
 私の考えでは以上である。もちろん、統一教会の霊感商法や献金による被害者を救済することは、重要な課題だが、「これは不要だ」と、表立って主張している人は、私は見ていないので、「論点」からは外しておきたい。しかし、実は、ここに収斂させる雰囲気もあることは注意する必要がある。

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大学における実務家教員の増加

 最近、大学の教師として、アカデミックな道を通らずに、実務をしてきた人が教授などになることが多くなってきた。文科省も推奨しているようだ。8月17日マネーポストWEBに「査読論文なしで教授職に… 大学教員たちから噴出する「実務家教員」への懸念」という記事が掲載された。
 実務家教員の負の側面を中心にまとめた記事である。私の在職したいた学部にも、実務家教員は少なくなかった。しかし、その実態は様々であり、前歴は実務でも、研究能力に優れた人もいたし、やはり、研究面は弱いと感じる人もいた。
 この記事で、実務家教員へのネガティブな評価は、
・個人的な人間関係で採用される場合が多い

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マニュアルは誰がつくるのか クレーム処理の現場

 プレジデントオンラインに「「間違えたんだから、責任を取れ」オペレーターに詰め寄るモンスター客に上司が放った”爽快なひと言”」という吉川徹氏の文章が掲載されている。
 携帯電話会社のコールセンターのやりとりのレポートである。筆者の吉川氏自身、オペレーターの経験があるそうだ。系統的な文章というより、いくつかの具体的挿話を集めたものなので、気になった部分の紹介と考察をしてみたい。
 
 まず、「マニュアルは役にたたないものばかり」と書かれている。「相手の話を真摯に聞く」「カッとなったら6秒数える」「数分我慢すれば、ほぼ解決」などという、意味のないことが書いてある。
 逆に頷けるのは、「クレーマーを宇宙人と思え」とか「もっとも手ごわいクレーマーは常識を持ち合わせていない人」という内容だったというが、これが具体的に役立つとは思えない。

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日本の評論家に不当に軽視された歌手 ジョーン・サザーランド

 日本でオペラがかなり普及するようになったのは、いつごろからだろうか。戦前は、ほとんど本格的な上演はなかったろう。そして、戦後NHKがイタリアからソロ歌手と指揮者を招いて、NHK交響楽団や日本の合唱団が加わっての「イタリアオペラ」が、オペラの魅力を伝え、1960年代にベルリン・ドイツオペラが来て、ベーム指揮の、いまでも話題になる上演をして、オペラへの注目が次第に出てきたように思う。そして、日本でも二期会が結成されて、日本人による上演を続け、やがて、80年代になるとミラノやウィーン、バイエルンなど、世界の主な歌劇場の引っ越し公演が行われるようになる。そして、クラシック音楽ファンに、普通にオペラが聴かれるようになったのは、世紀の変わり目くらいからなのだろうか。
 私は、イタリアオペラをテレビでみて、マリオ・デル・モナコやテバルディに感心して聞き惚れたのがきっかけだったが、オペラ好きな中学生などは、まったく変わり者だった。学生、院生時代には、二期会の比較的安いチケットがあったので、けっこう聴きにいったものだ。

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読書ノート「元首相暗殺の黒幕」ベリー西村

  ベストセラーだという評判だったし、題名から考えても、読まざるをえまいと思って読んでみた。ベリー西村という人は、まったく知らなかった。元パイロットだったというが、現在はスピリチュアル系の人のようで、内容もそんな感じである。端的にいって、トンデモ本の一種に思われた。最初に、安倍元首相暗殺に関する疑問がだされていて、それはそれで筋の通ったものだった。疑問は10あげられている。
・SPが何故安倍氏から3メートルも離れていたところにいたのか。あまりに杜撰な警備。
・事件のニュースが2日前に作成されていた。
・山上が誰かの指示を確認している様子が頻繁に見られた。指示者がいることを示している。
・統一教会の分派のサンクチュアリ教会の教祖が6月から来日している。

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安倍元首相狙撃考察10 山上が犯人でないとすると?

 大手メディアはまったく無視しているが、ネット上には、山上は犯人ではなく、黒幕がいるという見解は、けっこうたくさん見られる。銃弾の向き、安倍氏の体内の損傷の状況等を詳しく分析して、山上の銃弾ではないと論証する医師のyoutubeも、けっこう話題になっている。大手メディアの報道や警察発表は、疑問だらけであることは確かだが、しかし、その先の、では誰がということについては、メディアや警察が一切無視しているので、想像するしかないのが現状だ。だから、いくつかの説がある。それを少し考えてみよう。
 山上の銃で安倍元首相が撃たれたのではないと仮定すると、当然別に撃った人がいることになる。その点では、ふたつの見解がある。ひとつは、壇から降りた安倍氏に防御のために覆い被さった人が、密かに小さな銃(消音付き)で首から下に向けて撃ったという説。もうひとつは、近くのビルの屋上、ないし空き部屋からスナイパーが撃ったとするもの。いずれも、治療にあたった医師が、死亡を知らせる記者会見で述べた内容と、銃弾の軌跡が一致するように考えたものである。だから、弾道と安倍氏の遺体の状況との矛盾はない。しかし、いずれも、大きな難点がある。

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鬼平犯科帳 どうでもいいが、気になること

 今日は気軽な話題で、鬼平犯科帳について、普段感じているが、どうでもいい点について書いてみる。
 鬼平犯科帳に出てくる盗賊は、二種類に分類されている。もちろんそれは作者の創作であろう。第一は、本格の盗賊といわれるもので、3つの掟を厳格に守っている。「殺さない」「盗ったらこまるところからは盗らない」「女を犯さない」の3つである。これを犯すと、首が飛ぶとも書かれているが、実際に鬼平犯科帳には、そうした場面はなく、逆に、仁三郎のように、温情で助けられた話は、いくつか出てくる。
 それに対して、盗みに入った先のひとたちを皆殺しにしてしまう「畜生働き」という盗賊たちがいる。彼らは、ことごとく長谷川平蔵に敵愾心をもち、ある盗賊たちは、平蔵を殺害しようとしたり、家族に危害を加えようとする。歴史書などを見ると、天明の大飢饉などのあとになると、凶悪な盗賊たちが多くなったと書かれているので、確かに、長谷川平蔵が活躍していたときには、畜生働きの盗賊たちが多数いたのかも知れない。

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偏差値教育は間違いというが2 具体的構想

 入試を廃止するということは、どういうことだろうか。それは、高校での成績を規準に考えるということであり、また、資格試験を設定しても可能だろう。理想的には、大学に定員を設けず、規準を満たしている者はすべて入学できるようにすることである。アメリカの州立大学は、基本的にそうしたシステムになっている。州立大学は敷地が広く、キャパシティが大きいこと、そして、学部は理学部と文学部のふたつしかなく、教養大学であることが、そうしたシステムを容易にしている。アメリカでも私立大学は、独自の選抜システムを設定しているが、日本のように、一定期日に一定の場所に集めて、学力試験をすることはない。高校の成績、資格試験の成績、そして種々の提出書類によって選抜が行われる。大学入学の時点では、日本人のほうが、少なくとも以前は、学力水準が高かったが、卒業時には逆転すると言われていたのは、こうしたシステムによるところが大きい。
 ヨーロッパでは、高校の成績と全国的な資格試験を突破すれば、大学への進学が認められる国がほとんどである。ただし、大学のキャパシティによって、第二、第三志望に廻されることがあるが、大学間の格差はあまたないので、学生にとっては拘りは少ないようだ。

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