今日は気軽な話題で、鬼平犯科帳について、普段感じているが、どうでもいい点について書いてみる。
鬼平犯科帳に出てくる盗賊は、二種類に分類されている。もちろんそれは作者の創作であろう。第一は、本格の盗賊といわれるもので、3つの掟を厳格に守っている。「殺さない」「盗ったらこまるところからは盗らない」「女を犯さない」の3つである。これを犯すと、首が飛ぶとも書かれているが、実際に鬼平犯科帳には、そうした場面はなく、逆に、仁三郎のように、温情で助けられた話は、いくつか出てくる。
それに対して、盗みに入った先のひとたちを皆殺しにしてしまう「畜生働き」という盗賊たちがいる。彼らは、ことごとく長谷川平蔵に敵愾心をもち、ある盗賊たちは、平蔵を殺害しようとしたり、家族に危害を加えようとする。歴史書などを見ると、天明の大飢饉などのあとになると、凶悪な盗賊たちが多くなったと書かれているので、確かに、長谷川平蔵が活躍していたときには、畜生働きの盗賊たちが多数いたのかも知れない。
それはさておき、長谷川平蔵の密偵たちは、いずれも元盗賊だったが、全員本格盗賊の手下であったり、頭だったりしたことになっている。「密偵たちの宴」で、密偵のなかでも中心的な存在の6人が集まった場面だが、「六人は、いずれも本格の盗賊であった。・・・たまさかに仲間や頭が、このモラルを破ったことがあっても、ここへあつまった六人だけは、みずからの手で掟を汚したことが一度もない」と書かれている。しかし、鬼平犯科帳の第一話である「唖の十蔵」で捕まった小房の粂八に、長谷川平蔵が拷問を加える場面がある。
そこで、粂八にこう語っている。
「お前、だいぶんに人を殺したな、そうだろう、そういう面をしているものな」そうして、同心たちがびっくりするような拷問をみずから加えて、とうとう白状させてしまう。物語の最初のほうで、粂八の頭である「野槌の弥平」を「凶悪無ざんの怪盗」としているから、粂八も凶悪なことを大分やってきたはずである。
また、「五年目の客」で、かつてつかえていた羽佐間の文蔵について、粂八は「生まれつきの悪党なのでございますね。血を見ることをなんともおもわねえので・・・ちからずくで押し入り、人を殺しておいてから金をうばうという・・・」と評している。そして、愛想をつかしてしまい、三年ほどで一味から身をひいたとしているが、三年も一緒に活動したことになるから、けっこう粂八も、文蔵配下として凶悪なことをやっていたに違いない。
池波正太郎は、第一話で書いたことを、あとになって忘れてしまったのだろうか。
似たような混乱は、おまさが属していた乙畑の源八についてもいえる。
おまさが平蔵の密偵になると申し出て、そのとき、頭の乙畑の情報を教え、捕縛させている。(「血闘」)つまり、明確に、頭を裏切ったわけである。鬼平犯科帳としては、めずらしいことに、おまさの裏切りによって捕縛された源八について、そのことが盗賊仲間にあまり知られることなく、おまさと遭遇した昔の盗賊が、源八お頭は元気かい、などと尋ねたりしているのだが、おまさは「はい」と答えている。他の盗賊は、捕まるとすぐにそれが盗賊たちには知れ渡っているのだが、乙畑の源八は、一切知られていないようなのだ。
さて、「ひきこみ女」で、おまさは、一緒に乙畑のひきこみをしていたお元にであう。が、池波は、乙畑の元八は、ずっと以前に病死してしまい、以後、一味の盗賊たちは四散してしまった、とさりげなく書いている。最初の設定では、おまさの裏切りによって、捕縛され、処罰されたのである。
これらは単純な池波の勘違いといえるが、本格盗賊についての設定には、多少無理があるようにも感じるのである。
時代の流れとして、本格盗賊は次第に少なくなり、殺人を厭わない畜生働きの盗賊が増えているとする。そして、その理由は、本格盗賊が、数年かけて準備して、盗みをするので、当然平均的な年の収益は少なくなる。盗みの回数も少なくなるし、準備に多額の費用がかかるいうわけだ。そこで、どうせ悪いことをしていて、捕まれば死罪なのだから、たくさん稼いだほうがいいと割り切る盗賊がふえたというわけだ。吉宗の決めたルールでは、10両盗んだら死刑というのだから、捕まったら、殺人をやっていないということで、刑が軽くなるわけでもない。したがって、畜生働きの盗賊の言い分も、ある程度根拠があるのだ。
では、本格盗賊は何故、そんなに準備が必要なのか。それは、家の絵図面、居住するひとたちの寝室、金庫の所在を正確に探ること、「引き込み」という、当日なかから鍵をあける担当を住み込ませること、そして、金庫の鍵の複製をつくることである。これだけの準備をして、決行に及ぶわけだ。決行のときには、店の者全員が眠り込んでいる間に、まったく気付かれることなく、用意した鍵で金庫を開け、金を盗み出してしまうというわけだ。この程度に3年もかかるとも思えないのだが、そうだとしても、本格盗賊は数十名の仲間がいるのだから、同時に5、6カ所の対象に準備を進めれば、1年に2カ所以上の盗みは可能だ。ひとつの盗みに3年も4年もかかるとしても、ひとつの対象に縛られることはないはずだ。私が盗賊の頭だったら、当然複数のターゲットを同時進行させるだろう。
本格ではないと、準備もせずに、いきなり押し込んで、皆殺しにしてしまうから、連続的な盗みも可能になるという、対比を強調したかったのだろうとは思うのだが。
本格盗賊は、人はいいが、あまり仕事の能率を追求することはできないのか、といいたいところだが、いい人であれば、盗みなどはしないだろう。実際、3年に一度の盗みで、準備金がかなりかかるというのだから、あまり収益があがらない。だから、普段は、ちゃんと仕事をもって、市井の人として生活している。盗みをしなくても、ちゃんと生活は成り立っている。
では何故、それでも盗みなどをするのか。
極端にいえば、それは「芸の探求」と、池波はいいたいのではないか。あるいは芸による自己実現と欲求といえようか。「穴」という話では、既に引退して何年にもなる盗賊平野屋源助が、盗みの欲求に我慢できず、ついに隣の家まで穴を掘って、忍び込み、300両を盗むが、しばらくしてそれをかえすという「芸」を追求する。これは平蔵に暴かれるのだが、許され密偵になり、その後「殺しの波紋」事件で活躍することになる。「密偵たちの宴」に集まった盗賊たちも、やはり芸の欲求から、盗みを実行する。
つまり、盗みといっても、かなりの技術や知識、そして集団としての行動力・団結力が必要だから、非常に資質の高い人間であり、心を改めて、長谷川平蔵に協力して、悪事を抑制するために努力するようになった密偵たちは、充実した人生を送っているということなのか。
鬼平犯科帳は、悪人たちの変転と成長の物語でもある。