偏差値教育は間違いというが2 具体的構想

 入試を廃止するということは、どういうことだろうか。それは、高校での成績を規準に考えるということであり、また、資格試験を設定しても可能だろう。理想的には、大学に定員を設けず、規準を満たしている者はすべて入学できるようにすることである。アメリカの州立大学は、基本的にそうしたシステムになっている。州立大学は敷地が広く、キャパシティが大きいこと、そして、学部は理学部と文学部のふたつしかなく、教養大学であることが、そうしたシステムを容易にしている。アメリカでも私立大学は、独自の選抜システムを設定しているが、日本のように、一定期日に一定の場所に集めて、学力試験をすることはない。高校の成績、資格試験の成績、そして種々の提出書類によって選抜が行われる。大学入学の時点では、日本人のほうが、少なくとも以前は、学力水準が高かったが、卒業時には逆転すると言われていたのは、こうしたシステムによるところが大きい。
 ヨーロッパでは、高校の成績と全国的な資格試験を突破すれば、大学への進学が認められる国がほとんどである。ただし、大学のキャパシティによって、第二、第三志望に廻されることがあるが、大学間の格差はあまたないので、学生にとっては拘りは少ないようだ。

 
 日本も入学試験での選抜をなくすことが、理想的ではあるが、それが直ちには難しいとして、過渡的な措置を考えてみたい。
 単に入試を廃止するのではなく、ふたつの目的を満たす必要がある。ひとつは、高校までに学ぶ必要がある内容を、しっかりと学んできたことを条件とすること、そして、本人のやりたい勉強ができることのふたつである。
 最初の目的のためには、いかなる入試形態であるにせよ、学力の条件をきちんとつけることが必要である。現在の高校のように、大きな格差がある場合には、やはり、全国的な試験が有効かも知れない。センター試験を廃止して、共通テストにする際、資格試験とする案があったようだが、流れてしまった。それを復活させて、共通テストを基本的に資格試験として、大学進学のために絶対条件としての規準(これをクリアしないと、大学進学できない)と、各大学、学部等が求める条件の二重構造で設定すればよい。この規準をクリアしていれば、人数に関係なく、受け入れることを基本とする。この大学・学部の求める規準については、その理由もオープンにすることが必要だろう。高い学力を求め、講義のレベルも高いものを実施する大学は、規準を高くすることによって、教育目的を達成することが容易になる。
 あるいは、別の方法も考えられる。大学側に受け入れ定員を認めるが、定員を二種類に分け、正規の学生と、準学生で、後者は無制限とする。もちろん、それぞれに学力の規準を設定できる。現在でも、単位互換制度があるが、これを全国展開して、もっと自由にとれるようにするという発想である。準学生の登録は、複数でもよいことにすれば、ある大学に所属しながら、自分のとりたい授業を、全国から選択できるということだ。こうした上で、大学卒の資格を、どの大学であるかではなく、どのような単位を取得したかで判断するようになれば、入学のための勉強と、入学後の勉強が劇的に変わりうる。入学後も、学生にはしっかりと勉強してもらわねばならないことは自明だ。
 このことを実現するためには、学生の授業料の方式を変更する必要がある。前にも書いたが、日本は年間の授業料を設定しているが、北米のように、申請単位数によって授業料を計算するように変更すべきである。この方が、いろいろな面で合理的であるが、他大学の授業を受講しやすくするためには、必須である。
 
 更に敷衍して考えていこう。
 専門教育のあり方の問題であるが、専門教育については、主に3つの主体が存在している。
・学ぶ学生
・教える教師
・育った人を受け入れる職場
 これまで、大学の制度を作ってきたのは、立案も含めて、広く「教える教師」の側だったように思われる。文科省などの行政も含めてそういえる。実際に教える側は、その分野の専門家なのだから、中心的に制度を構想することは理に適っている。だが、学ぶ学生や受け入れる側の考えも、より直接的に反映できる仕組みが必要であろう。
 
 まず学生の立場だ。
 学生は、現在はほぼ完全にサービスの受け取り手と考えられ、サービスに積極的に関わる存在とは見なされず、その権利も認められていない。しかし、私が学生のときには、かの大学紛争のあとの改革として、学生が授業の創設や非常勤講師の招請などを提案することが認められるようになった。その権利を行使して、2種類の演習を設定してもらった経験がある。現在でもその制度があるかどうかはわからないが、当然あってしかるべきだ。
 ただ、全国どこの大学でも、どの教授でも、制度的には授業を履修できることにすれば、そうした学生の権利は、かなりの部分満たされることになる。わざわざ自分たちの大学に呼ばなくても、その教授のいるところに履修を申請すればいいわけだから。もちろん、こうしたことか可能になるのは、大学の講義を原則ハイブリッド(対面とオンラインを同時に実施)にすることが必要である。しかし、そのハイブリッド授業の利点とテクニックは、コロナのおかげで、十分に大学には浸透した。
 
 教える教師
 こうした制度になったときに、教師にとって大きな負担は試験とその採点だろう。リアルタイムの試験については、対面はよいとして、オンラインの場合に、オンライン・リアルタイム試験のアプリ等が開発されて、実施が可能になると思われるが、採点は人がしなければならない。単位申請の費用のなかに、試験・採点の費用を適切に織り込むことによって、教師本人が採点した場合には本人が、院生等に任せた場合には、アルバイト費用としてつかえるようにすれば、解決はつく。もちろん、最終的な責任は教師が負う必要があるが。
 学生に要求権があるように、教師には、自分のやりたい授業を設定する権利を認めるべきであるし、それは十分に可能になるだろう。理系は少ないかも知れないが、文系の大学教師の場合、本当に狭い意味での自分の専門領域と、大学に就職して担当している領域が一致しない場合は少なくない。私自身、教育行政学・制度が専門だったが、就職したのは「国際教育論」の担当者としてだった。教育行政学という授業をもつようになったのは、赴任してから30年近く経過してからである。このような不一致は、教師自身にとっても好ましいものではない。たまたま大学の必要に応じて募集した領域に、多少異なっても、就職難は恒常的だから、応募することになる。しかし、大学の求めた領域を授業で担当しつつ、自分の専門による授業を自由に設定できれば、研究者としてのモティベーションを高めるのに有効だろう。受講する学生がいれば、その人数に応じて、手当てを受け取るようにすればよいのである。こうした教師の権利を認める場合、受講生による授業評価をより、意味のある形で実施し、受講を望む学生がその情報にアクセスできることが必要である。
 
 企業の側を考えてみよう。
 これまで、企業は人を採用するときに、その人が大学までで何を学んだのかは、ほとんど問題にしないまま採用を決めていたと思われる。潜在的能力なるものを、大学の偏差値で判断し、具体的に必要な能力は、企業で教育するという姿勢だった。しかし、それはいかにも効率が悪いし、また、就職する側にとっても、どんな仕事をまかされるのかわからず、ミスマッチも起こりやすい。やはり、雇用する側が、どんな人材を求めているのかを明示して、それにマッチする人を採用するほうが、ずっと双方にとってよいはずである。そして、内部で仕事を変えるときには、それも社内応募のような形をとればいいのだ。
 日本企業も、おおざっぱに新採用**人などというのではなく、具体的な職種、職務で募集し、そこに必要な能力や教育機関で学んでおくべき内容を明示して募集するようになれば、企業にとっても、応募する側にとっても、合理的な採用になるはずである。
 これまで日本では、企業内教育で、ローテーションを実施してきたが、今後は欧米のように、社外での教育に依存するようになっていくだろう。そうすると、社会人が大学の授業を履修しやすい形になっていくことが必要となる。上記のような学生所属形態になれば、社会人が特定の授業群を履修することは、不都合がなくなる。地理的な問題も解決できていることになる。
 
 かなり、自由で勝手に想像を巡らせてきたが、自分なりには真剣に考えている。今後より緻密に細かいところを考えていきたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です