偏差値教育は間違いというが1

 ダイヤモンド・オンライン(8月11日)に、「日本電産・永守会長による「日本の偏差値教育は根本的に間違い」と断言する理由」という記事がでている。要するに、日本の生徒たちは、自分のやりたいことではなく、偏差値によって入れるところを選択する進学指導を受けて、実際に自分でもそうしている。それは根本的に間違いだ。だから、本当に自分がやりたいことは何なのか、それをしっかり見つけて、進路を選択せよ、という趣旨のようだ。
 確かに、全く正しい。そして、そんなことは、ほとんどすべての日本の生徒・学生たちが、一度は思ったに違いない。偏差値が足りなくて、志望を変更せざるをえなかった生徒たちだけではなく、お前は偏差値が高いから医学部に行け、と指導されて、無理に医学部に進学した生徒などもいる。

 私は偏差値第一世代で、中学の時、模擬試験に初めて偏差値が導入された。これなんだ、という意識はあったが、当時東京都の公立の入試は、合同選抜だったので、あまり偏差値を気にすることなく志望校を決めていた。また、大学入試のときには、共通一次前だったので、偏差値はあまり意識されなかった。むしろ、模擬試験などは、大学のレベルごとに別々に行われていたものだ。つまり、当時(1960年代)は、偏差値は登場したが、まだ受験界への支配力はなかったのである。
 しかし、共通一次試験が実施されていくにしたがって、大学も偏差値評価を受けるようになり、高校入試、大学入試は、偏差値によって支配されていくようになる。そして、永守氏のいうように、自分のやりたいことではなく、偏差値で進学先を決めるようになっていった。現在、大学全入時代になっているので、多少変わっているが、それでも、自分の将来像よりは、入れる大学選びが主流であることは間違いない。
 
 では、どうしたらいいのか。現在の入試制度がある以上、入れるところを受験するというのは、仕方ないではないか、と言われそうだ。やはり、制度を変更しなければならないということだ。永守氏は、実業家なので、教育制度の具体案をもっていないとしても、それは仕方ない。したがって、私がそれを引き取ることにする。といっても、骨格はこれまで何度か書いてきたことの繰り返しになるが、少し、加えることもある。
 
 まず偏差値に支配された教育は、何が問題なのか。特に入試中心に考えてみよう。
 
 何よりも、勉強を競争のため、勝ち負けのためにするということで、実際には勉強嫌いを大量に製造していることだろう。その端的に現れが、大学に入学したあとの「学力の剥落」と言われてきた現象である。自分がやりたい勉強ではなく、強制されたものだから、目的を達成したあと、すっかり忘れてしまうわけだ。もし、自分の興味で勉強したのならは、目的を達成したからといって、忘れるものではない。
 アリストテレスをもちだすまでもなく、人間は知的好奇心をもっているのだから、元来勉強が好きなのだし、また、必要を感じれば、喜んで勉強するものなのだ。しかし、それは、自分の生活に関係があり、また、自分が興味をもっている対象についていえることだ。だから、そうしたそれぞれの興味関心や好きなこと、当人が必要だと思うことを、本人が勉強したいようにさせれば、積極的に勉強するようになるものなのである。
 しかし、現在の受験中心の勉強は、それを許さない。社会が必要であると認定した科目を勉強し、いい点数をとらねばならないと駆り立てる。当然、自分の興味がその科目と一致しない者は、勉強そのものが嫌いになっていく。
 それでも、受験地獄なる状況だった時期には、いやいやでも勉強をせざるをえなかった。しなければ、進学先がなくなるのだから。いやいやでしないよりは、したほうがよい。しかし、大学全入となり、それほど勉強しなくても、また、勉強以外のことで成果を示せば、大学に入学しやすくなった。
 
 偏差値中心の入試が、大学教育に及ぼす負の問題は、希望ではなく、偏差値によって振り分けられることのモティベーションだけではない。経営上の競争によって、実は偏差値などと無関係な、きちんとした学力検査のない形で入学してくる学生が大量に存在することである。分野にもよるが、やはり、高校で学ぶべきことをきちんと習得していないと、大学での勉学に支障がある場合は少なくない。推薦入試やAO入試は、やはり、現行の状況は、長い目でみれば、日本人の知的領域に、マイナスの影響をもたらすと考えられるのである。更に、学力試験を受けている場合でも、教師教育のところで書いたように、本当に必要な科目を選択しない場合もある。
 広くみられるのは、現在の経済学には数学が必須であるが、私立の経済学部で数学を入試科目の必修にしているところは、早稲田くらいではないだろうか。
 実は、私の大学でも、情報学部が、数学を必修にしたことがあるが、応募が激減し、経営上まずいということで、翌年から数学の必修を外したということがあった。現在の入試制度では、必要な学習すら高校生に要求できないという意味で、大学の側にもマイナスが大きいのである。
 
 このような弊害を克服し、子どもたちが、やりたい勉強を精一杯するようになるためには、どう制度を変えていけばいいのだろうか。
 さて、まず最も効果的な改革は、入学試験そのものを廃止することである。永守氏のいうとおり、成績で振り分けられるのではなく、自分のやりたいことを勉強できることが、最も効果的な学習効果が得られることは、当たり前のことである。だから、入試による「選抜」ではなく、個々人の志望による「選択」が基本となることが、そうした効果的な学習を実現する最良の道である。そんなことは、非現実的だというかも知れないが、そもそも先進国で、日本のように、進学先が入試によって、希望者を選抜するシステムをとっているのは、日本くらいなのである。ほとんどの国は、もちろん、要求水準はあるが、そうした規準を満たせば、原則希望のところに入れるような制度をとっている。
 それでは、一部の大学に学生が偏ってしまう、という弊害を指摘する人が多いだろう。たしかに、フランスのように、一部の大学に多数が押し寄せることもありうる。しかし、フランスの大学制度が、それで崩壊しているわけでもない。
 ただ、さすがに、日本で同じようなことが起きたらこまるのも確かだ。日本の大学は、キャパシティに限りがある。だから、過渡的な制度を考案することも必要だろう。(具体的には、続きで)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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