対面授業がないと、学生が大学を提訴

 本日(6月9日)の朝日新聞が、明星大学の学生が、対面授業が一切ないことは、大学が義務を果たしていないということで、学費の半額返還を含め、140万円の損害賠償を求めて、大学を提訴した。まず、感じたのが、日本もずいぶん社会感覚が変わってきたのだということだった。以前ならば、こうした訴訟が起こされるというのは、考えもしなかったろう。訴訟を起こすことは、本人にとってもかなりの負担になるから、相当の覚悟だったのだろう。これは、単に法律的な問題ではなく、やはり、教育学的な問題を提起しているとみるべきだ。私自身は、原告の訴えが認められる余地は、正直あまりないとみているが、しかし、提訴の意味は十分にあると考える。 “対面授業がないと、学生が大学を提訴” の続きを読む

フォン・オッターのカルメン

 ずいぶん前に購入したが、視聴していなかったフォン・オッターの「カルメン」を全曲視聴した。きっかけは、オッターのカルメンではなく、指揮のフィリップ・ジョルダンが指揮をしていることに気づいたからだ。ジョルダンは、ウェルザー・メストが退任して以降、しばらく空席だったウィーン国立歌劇場の音楽監督に昨年からなった人である。例にもれず、コロナ禍に見舞われて、まだ十分に活動しきれていないと思われるが、今後活躍してほしい人だ。youtubeで、マーラーの1番の日本公演の映像をみて、ずいぶん細かな表情付けをする人だと思ったが、なかなかよかったので、このカルメンを見る気になったわけだ。

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スポーツ根性論ではなく、専門的指導を

 毎日新聞6月6日付けで「近づく五輪、仏記者が見た日本のスポーツ指導者の問題点」という記事がでている。要するに、日本では、まだまだ根性論、精神論が根をはっており、スポーツの指導を歪めているという趣旨だ。特に印象に残るのは、フランスのルモンド記者の話として、1983年から2010年までに、柔道の事故で110人以上の子どもが死亡しているが、フランスでは子どもの死亡事故は一件もないという。日本における柔道の部活における死傷事故は多数でているが、スポーツに伴う危険から生じたというよりは、間違った指導から生まれたものである。中学の柔道部での事故として有名な、福島県須賀川一中での、重大事故をみれば明らかだ。

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子どもによる運転事故を考える

 盛岡市の国道4号で、9歳の子どもが車を運転して、赤信号で止まっていた軽乗用車に衝突して、相手に怪我をさせる事故が起きた。同様の事故は、けっこう起きているらしい。ヤフコメには、こんな場合でも被害者の責任が1割認定されるのかというのがあったが、さすがにそれはないだろう。車と車の衝突事故では、どんなに一方が悪くても、悪くない方の責任も、保険上は1割認定されるようだが、それは走行している車同士の事故で、一方が完全に止まっている場合には、ぶつかったほうの責任が10割である。赤信号で止まっていたのだから、被害側の責任が認定されることはないと思われる。
 それは抹消的なことで、重要な点は、9歳の子どもか運転するということだろう。ヤフコメのもっと重要な情報としては、会社の駐車場で、おじいさんが孫(10歳未満)に運転指導していたという目撃段だろう。大人がそういうことをしているとしたら、事故を起こさなくても、かなり犯罪行為に等しいといわざるをえない。
 私自身は、子どものころ車が家庭にはなかったし、東京に住んでいたので、車の運転にはまったく興味がなかった。しかし、車社会の現在、車がないと生活できない地域も多いから、子どもでも運転に関心をもつ者は少なくないだろう。助手席に乗っていれば、だいたい運転のこつはわかる。オートマであれば、難しい機械の操作などはなく、要するに、アクセル、ブレーキ、ハンドルの操作だけだ。ゴーカートに乗ったことがあれば、さして違いない。

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ネット依存症・ゲーム脳・対応1

 度々『教育』の文章の論評を書いているが、別途、『教育』の書かれたすべての論文を批評するlineをやっている。その参加者から、『子ども白書2020』に書かれた文章の問題性を指摘された。それは、教科研に参加している人が多いのに、この『子ども白書』はインターネットに極めて後ろ向きな文章が多いということ、そして、その典型がゲーム依存症に関するものだという。それで早速市立図書館にいって、関連文章を読んでみたが、既に、『教育』の個別論文批評で扱っているひとたちの同種の論文があったが、それとは別に、成田弘子「休校をきっかけにメディア機器とのつきあいを考える」という文章があった。そこに「スマホの時間 わたしは何を失うか」という図が掲載されている。日本医師会と日本小児科医師会のホームページからとっているということだが、スマホをやっていると「睡眠時間、学力、脳機能、体力、視力、コミュニケーション能力」が失われるのだそうだ。文字通りにとれば、間違いではない。しかし、何をやったって、同じではないだろうか。読書もほとんど同じように、失われるはずだ。子どもは読書にふけるなんてことはない、という前提で考えているのか。昔は、農民や労働者の家庭では、子どもが本を読みふけっていたりしたら、かなり怒られたらしいから、同じようなことを大人は考えるのかも知れない。しかし、今読書をすると、何が失われるか、などという「問い」そのものを考えないだろうし、懸命に読書依存症としてやめさせようとはしないだろう。なぜ、読書はよくて、ゲーム、スマホはいけないのか。

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オリンピックの学校観戦と尾身氏の反乱

 オリンピックでの観戦の規模について、ますます大きな困難が露になってきた。特に、学校単位での観戦の予定が次第に明確になってくるにしたがって、現場への負担が大きくなっていくことが予想されている。
 もちろん、通常の開催が可能であれば、子どもたちの観戦は大いに意味があるかも知れない。それでも、時期的な問題は重くのしかかるのだが。何度か書いているように、前回の東京オリンピックのとき、私は高校生で、学校全体でサッカー観戦にいくことができた。しかし、それは10月のことで、気候も非常によかった。しかし、今回は7月、8月という酷暑が予想される時期だ。コロナがなくても、熱中症の危険がある。事実、数年前、千葉の小学生が、校外学習の際に熱中症で死亡している。そうしたことが、起きない保障は何もないのである。更に今回は、コロナの不安がある。

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オランダ留学記6 オランダ人の生活

 オランダは、非常にユニークな国だ。オランダが発祥となった社会システムもたくさんある。新しいところでは、安楽死やソフトドラッグ、同性婚の合法化など、そして、古くは、株式会社、自由刑、先物取引など、その後世界で普通のことになっている制度がいくつもある。そして、ユニークさは、こうした点だけではなく、オランダで生活してみると、いろいろとあることに気づいた。今回は、そうしたユニークと感じた生活の姿を紹介する。
 オランダにきて、なんとなく気づいたことは、オランダ人の生活はゆったりしているということだ。私が住んだ地域が、特にそうだったのかも知れない。移民が多く住んでいるような地域は、様相が異なっていただろうが、それは10年後に再度オランダに留学したときに感じたことだった。

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鬼平犯科帳 密偵の自害

 鬼平犯科帳には、たくさんの密偵が登場する。いずれも以前は盗賊だったためか、非常にくせのある個性的な存在である。そして、長谷川平蔵直属の密偵として、常に中心的に使われている6名と、途中で登場したり、あるいは、登場する回に死んでしまったりする密偵もいる。そのなかで、死んでしまう密偵は、やはり印象に残るし、考えさせる。
 たくさん活躍している密偵は、たいがい密偵になった事情が語られているが、なかには突然登場して、密偵になった経緯が、具体的にはわからない者もいる。仁三郎もその一人である。
 仁三郎は、連作の「鬼火」事件に、突然いなくなった主人が居酒屋で、見張りをする密偵として登場するが、鬼火事件では、それほどめざましい活動はしない。むしろ、次の「蛇苺」で重要な役割を果たす。といっても、活躍するのではなく、むしろ失敗である。尾行を平蔵に命じられて、二度も見失ってしまい、しょんぼりしているところを、平蔵に「お前ほどの者なのだから」と、非常に困難であったのだから仕方ないと慰められ、次の仕事は必ずという決意を新たにするという役どころである。
 そして、いよいよ、次の話である「一寸の虫」では、その篇の主人公となっている。しかし、ここで死んでしまうのである。

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オリンピック開催による矛盾

 どんな社会状況であろうと、どんなに反対が強かろうと、そして、どんなに海外からの疑問が提起されようと、オリンピックは開催するという強行路線を貫徹しようという政府の姿勢が、明らかになってきた。聖火リレー開始前までは、多少とも状況による冷静な判断ということもありうるかと考えていたが、今は、まったく開催以外のことには、目を向けないようになっている。開催しない、あるいは無観客となると、入るべき収入がなくなる、あるいは、スポンサーの圧力に抗し得ないなどの事情があるのだろうか。しかし、このコロナ禍における開催ともなれば、いくらなんでも、国民の猛反対に応える措置も必要となると判断せざるをえない。いろいろな施策が打ち出されている。しかし、それらは、ことごとく、欺瞞的なものになっている。
 安全・安心のために、選手たちは、陰性の証明が必要であり、また、バブル方式という、完全に管理された範囲でのみ行動を認めるという。しかし、これは二重三重の欺瞞がある。 “オリンピック開催による矛盾” の続きを読む