鬼平犯科帳には、たくさんの密偵が登場する。いずれも以前は盗賊だったためか、非常にくせのある個性的な存在である。そして、長谷川平蔵直属の密偵として、常に中心的に使われている6名と、途中で登場したり、あるいは、登場する回に死んでしまったりする密偵もいる。そのなかで、死んでしまう密偵は、やはり印象に残るし、考えさせる。
たくさん活躍している密偵は、たいがい密偵になった事情が語られているが、なかには突然登場して、密偵になった経緯が、具体的にはわからない者もいる。仁三郎もその一人である。
仁三郎は、連作の「鬼火」事件に、突然いなくなった主人が居酒屋で、見張りをする密偵として登場するが、鬼火事件では、それほどめざましい活動はしない。むしろ、次の「蛇苺」で重要な役割を果たす。といっても、活躍するのではなく、むしろ失敗である。尾行を平蔵に命じられて、二度も見失ってしまい、しょんぼりしているところを、平蔵に「お前ほどの者なのだから」と、非常に困難であったのだから仕方ないと慰められ、次の仕事は必ずという決意を新たにするという役どころである。
そして、いよいよ、次の話である「一寸の虫」では、その篇の主人公となっている。しかし、ここで死んでしまうのである。
仁三郎は、かつて船影の忠兵衛配下の盗賊だったが、忠兵衛は、正統派の盗賊だったにもかかわらず、仁三郎は、女を犯してしまい、50叩きのあと追放されてしまう。しかし、そのことをまったく恨んでおらず、自分が悪かったと反省している。そして、不動の勘右衛門配下だったときに、長谷川平蔵に捕まり、見どころがあると見なされ、密偵になる。(説明として出てくるだけで、そういう場面があるわけではない。)そして、鬼火事件や蛇苺事件で、密偵として活動していたわけだ。
その事件が終わって、のんびりしているときに、鹿谷の伴助に偶然会い、盗みに誘われる。もちろん、鹿谷の伴助も、かつて船影の忠兵衛の手下だったのだが、こちらは、盗みのときに人を殺害してしまって、仲間に罰として処刑されるところを、忠兵衛の父親の代からの手下だったために助けられ、100回叩きの上追放された。そして、忠兵衛に恨みをもって生きてきたのである。そうして、同じ恨みをもっていると思い込んだために、仁三郎を誘い込む。そして、かつての復讐をするのだという。船影の忠兵衛の実の娘が、橘屋伊太郎という裕福な店に嫁いでおり、子どもがいることを伴助は確かめている。そこに盗みに入り、夫婦と娘を殺害して、忠兵衛を苦しめてやるというわけだ。仁三郎は、むしろそれをとめるために(といっても、最後までその意図はわからないのだが)、盗みの仲間になることを承知する。
さて、この話には、伏線が張られていて、ひとつは、仁三郎が伴助とあっていることを、同心の山崎庄五郎にかぎつけられてしまう。仁三郎は伴助を殺害してしまう決意をしていたの他が、山崎に監視されていると思い、殺害することもできないと、どうしていいかわからなくなる。しかし、最初はよく理解できない展開になっている。他の密偵に相談して、平蔵に伝えれば、万事うまくやってくれるのではないか、それなのに、なぜ一人で抱え込んでしまったのか、と。
もうひとつは、たまたま平蔵が橘屋に立ち寄って、よもやま話をして帰るところを、船影の忠兵衛が、娘を一目みたくて、近くまで来ていた。忠兵衛が平蔵に気づき、急ぎ立ち去るところを不審に思った平蔵があとをつけ、偶然あった松永同心に尾行を引き継ぐ。そして、やがて、忠兵衛の盗人宿を突き止める。忠兵衛はまた、別の盗みを計画していたのである。
ここらの絡みが、あとでつながっていくのだが、その展開が非常に見事にできている。
さて、伴助と仁三郎、その仲間による橘屋襲撃の当日、これから押し込もうという瞬間に、仁三郎は伴助を背中から刺し、首筋を切って殺害してしまう。そして、「火事だ」と大声で叫び、自分の心臓をついて、自害してしまうのである。
船影の忠兵衛を見張っていた関係で、橘屋が狙われていると思っていた平蔵は、橘屋を見張らせていたのだが、突然の押し込みで、わずかな見張りが駆けつけるだけになってしまう。しかし、にわか仕立ての盗人仲間で、突然大将が殺され、サブが自害してしまうので、直ぐにかけつけた同心たちに捕らえられる。そこに、仁三郎が自害していて、一同驚愕するのだ。
やがて忠兵衛一味も盗みに入るが、こちらは完全に監視されていたので、あっさりとお縄になってしまう。忠兵衛は本格派なので無駄な抵抗はしない。
忠兵衛への取り調べで、橘屋の嫁おみのが、忠兵衛の娘であることを平蔵は打ち明けられるが、逆に、平蔵の問いによって、仁三郎と伴助が、忠兵衛の手下だったこと、仁三郎を忠兵衛は高く評価していたことを知る。そこで、仁三郎が、なぜ仲間に加わって、自害したかを察するのである。
伴助に誘われたとき、仁三郎は、どうしていいか何日も大酒を飲みながら考え悩む。そして、「こうすりゃいい」という結論に達して、すっきりするのだが、それが、実行されたということだろう。本当は、伴助を人知れず殺害すればいいと思っていたが、山崎に見張られているのでそれはできず、盗みの本番で殺害し、自分は自害すると決めたわけだ。それは、船影の忠兵衛を守るためだった。
平蔵の密偵たちは、いざというときには、平蔵のために死んでもいい、命を投げ出しても、平蔵のために働きたいと、意気込んでいる。しかし、自害した密偵は仁三郎だけである。だが、平蔵のために死んだのではなかく、かつてのお頭忠兵衛のために死んだのである。
平蔵は、そう推理して、どうして、俺に相談してくれてかったのか、と悔やむのだが、もし、仁三郎がすべてを話していれば、当然橘屋への盗みは阻止して、忠兵衛の盗みも阻止して捕らえるだろう。仁三郎は、そのなかで、忠兵衛の助命を頼むに違いない。そのとき、平蔵は、忠兵衛を許したのだろうか。この話で、忠兵衛がどのような裁きを受けたのかは書いていない。そして、平蔵は、本格派(殺さず、冒さず、金持ちのみ押し入る)だった盗賊の首領を3人許して、密偵に使っている。大滝の五郎蔵、平野屋源助、夜兎の角右衛門らである。だから、忠兵衛もそうしたかも知れない。しかし、この三人は、押し込みの現場をおさえられたわけではない。五郎蔵は、むしろ殺されそうになったときに、平蔵が助け出している。平野屋源助は、お遊びの盗みを一人で準備しているところを、平蔵に阻止されただけだ。夜兎の角右衛門は自主したのである。
あるいは、仁三郎の願いにもかかわらず、忠兵衛を罰したら、仁三郎は伴をして、忠兵衛に殉じたろうか。
鬼平犯科帳は、こうした難しい平蔵に課せられた判断を、回避するような結末がけっこうある。余韻を残す手法ともいえるが、平蔵はどうした判断をしたろう、とどうしても考えこんでしまう。それを読者にさせようとしているのだろうか。