今日は別の話題について書くつもりだったが、毎日新聞に、「小学5,6年の『教科担任制』検討 文科省、授業の質向上」という記事が出ていたので、急遽これについて書くことにした。
英語が正式教科となり、プログラミングが必修化されるなど、専門性の高い教員が必要となるなかで、教員の負担軽減も考慮して、5、6年に「学級担任」ではなく、「教科担任」を導入するための検討にはいるというのである。これは、今まで何度も議論されてきたことだと思うが、いままでは実施されてこなかった。一部には、小中一貫校で、学年の区切りを、5年から中学校として扱うようにして、実質的に教科担任制を導入している学校も、ごくわずかだがあるはずである。
教師の負担を軽減することは、このブログの主要なテーマとなっているので、問題意識は共有するが、具体的なあり方は、私は原則反対である。
質の高い授業を行うためには、小学校教師が、全科目を教える体制そのものをやめるべきなのである。そもそも、主要教科を教えて、体育や音楽、美術、家庭、道徳、そして英語まで教えるなどということは、誰が考えても、超人でなければできないことである。日本の小学校教師は、本当に信じられないような負担を強いられている。
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カテゴリー: 教育
学校教育から何を削るか2 始業式と運動会をやめよう
これから具体的に、何が削れるかを考えていこう。もちろん、削るのは、残すものをより充実させるためにやるのであって、単に、楽にするためではない。では充実させるべきものは何か、当たり前のことだが、基本教科の授業である。日本の学校は、学力重視といいながら、実に授業を軽視していると言わざるをえない。
ここでは、かなり大胆に提起していくことにする。
始業式
日本の学校の新学期は、始業式から始まる。そして、始業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式はない。おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。始業式や朝礼などで、少しではあっても、確実に授業が削られる。
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『教育』を読む 2019.4号 「わからない」の克服
私は、大学勤務時代(今でも勤務であるが、特別の定年延長で特任なので、半分は勤務状況から脱出している)は、外部の研究活動をせず、大学の教育活動に専念していたが、昨年初めて「教育科学研究会(以後「教科研」)に加入した。しかし、まだほとんど活動をしておらず、どういう活動が可能なのか、これから考えていこうという段階だ。教科研には、『教育』(教科研の機関誌)を読む会があるのだが、私の居住している千葉県にはない。将来的には、「千葉県『教育』を読む会」をつくっていきたいと考えているが、その前に、このブログで、自分で『教育』を読むシリーズを書いていこうと思う。
教科研を紹介する立場にはないので、興味のある人は、ぜひホームページをみてほしい。『教育』は、以前は国土社からでていたが、今はかもがわ出版から出ている。なかなか入手しにくい雑誌だが、興味のある人は、ぜひ注文して読んでほしい。アマゾンでも購入できる。
今回は、「わからない」を克服するための工夫をしている実践をふたつ紹介する。
まず、川淵和美さんの「『わからない』から始まるぼうけん」。
川淵さんの「『わからない』と言うことは、子どもたちにとって、ハードルが高い。バカにされたらどうしよう、恥ずかしい・・・」という言葉は、教師をしている人にとっては、誰でも、常に感じていることだろう。大学などは、これは小学校以上で、よほどの工夫をしないと、授業中に何を聞いても発言などなく、反応もないような授業が多い。幸い、私の授業では、特に教育学関連では、内容の親しみやすさもあるが、それなりに発言はあるし、また、討論になったりもする。しかし、それもこちらから発言を求めた場合にほぼ限定され、自分から挙手して意見を述べたり、特に、「質問」は出ない。まだまだ工夫が足りないということだろう。
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教師の過剰労働をなくすために1 削減できるものは何か
働き方改革なるものが進んでいるようで、そのなかの重要なひとつが、「超過勤務」の削減である。しかし、学校教育の中では、そうしたことは、掛け声はともかく、実質的には進みようがない。現在の公立小中学校は、ほんとうに危機的状況にあると思う。
今日、「餃子の王将」に関する記事で、次のような社長の言葉が引用されていた。
「『企業は人なり』って簡単に言うけど、そんな生やさしいもんじゃないですよ。社員は企業の命ですよ。社員が疲弊したら、いつか会社は悪くなってしまう。わたしは社長になって、もっとも大事なのは社員の皆さんだと思いました。それもあって、店で餃子を巻くのをやめたんです」1
道徳教育ノート 二匹の蛙3
新美南吉の「二匹の蛙」の実践記録は、当初思ったよりも少なかった。テキストは、「二匹の蛙1」を見ていただきたいが、(また青空文庫で読むことができる)国語教材として扱われ、道徳教材にはなっていないようだ。しかし、私は、話としては単純で、「ごんぎつね」ような複雑さはないために、むしろ、道徳教育の教材としては、かなり明確なポイントがあるために、やりがいがあるものだと考える。道徳の教科書に掲載されているかは、全部チェックするわけにはいかないが、採択してほしい作品だ。
当初、黄色と緑色の蛙が、それぞれ互いに相手を汚いやつだと罵り合って喧嘩になる。冬眠したあとでてきて、すぐに喧嘩がはじまりそうになるが、土の中から出てきたばかりなので、体を洗ってからにしようということになり、体が洗われると、きれいな色に見え、仲直りしたという、極めて単純な筋である。
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ALC貝塚学院閉鎖さわぎ 認可制度と自己責任
3月28日のニュースは、ALC貝塚学院の閉鎖問題を大きく取り上げていた。午前中は、「閉鎖」だったが、夕方になると、「閉鎖しなくてもすむ可能性」が出てきたようなこともいわれていた。今日もまた、このニュースでワイドショーは賑わうかも知れない。
無認可幼稚園という言い方をニュースではしていたが、ホームページを見てみると、ふたつの組織があって、それが融合して機能しているように思われる。ひとつが、ALC貝塚学院(以下「学院」)で、幼稚園のような組織になっているが、ホームページには、一般の幼稚園ではないことが断ってある。もうひとつが、ALCアルファウィング(以下「ウィング」)というもので、建物は別で、こちらは、英語、水泳、体操、バレエ、フィットネスに分かれており、更に学童の機能をもたせている。(フィットネスは、よく見るとチアダンスのようだ。)
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広島呉市のいじめ 形式主義の対策が解決を遅らせる
毎日新聞3.26に、いじめ放置という記事が出た。自殺などの最悪の事態になったということではなく、卒業して高校生活への期待をもっているということのようだ。しかし中学3年間、いじめ被害を訴えたにもかかわらず、適切な対応をされなかったという記事の内容である。いろいろ考えるさせられるところがあるので、それらを整理しておきたい。
記事のなかで、経緯が年表風に整理されている。
2016夏 同級生から服を破られるなどのいじめがはじまる
2017.11 3回教室で服と下着を脱がされる
保護者が学校と市教委に連絡。学校が加害生徒に聞き取り
2018.4 学校が保護者に「グループ内の罰ゲーム」と説明。一時不登校
6 不安障害と睡眠障害と診断。休みがち
11 市教委が保護者に「重大事態として再検討」と連絡
2019.2 市教委が保護者に「重大事態として第三者委員会を設置したい」と連絡
以上が、毎日新聞が整理した経緯である。
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道徳教育ノート 二匹の蛙2
文部科学省の「二ひきのカエル」を考えてみたい。
この文章が、文部科学省のホームページに掲載されている道徳教育の教材であることに、まず驚いた。これはいったい如何なる「徳目」なのか。どういう道徳的価値を教える教材なのか、いくら考えても、私にはピンと来ないのである。(テキストは二匹の蛙1にあります。)
若い蛙のピョン太が井戸に落ちて、なんとか這い上がろうとするができない、助けを求めても、誰も助けてくれない。おじいさん蛙がいて、諦めろ、ここもけっこう楽しいし、安全だなどといっている。そのうち、人間がやってきて、井戸水を汲むためにおけを落として、引き上げるとそこに蛙もいて、外に出られるという話である。
いくら道徳の教材でも、あまりにリアリティの欠如した話というのは、教材としてふさわしくないだろう。
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道徳教育ノート 二匹の蛙1
文部科学省の道徳教材のページを見ていたら、「二匹のカエル」という教材があったので読んで、授業研究などがあるか検索したら、まったく別の「二匹のカエル」という新美南吉という童話があり、更に別の様々な「二匹の蛙」があるようだ。不覚ながら今まで知らなかった。分析は次回にし、今回は教材の紹介だけにする。
どうやら、その元祖は、イソップ寓話らしい。非常に短い話だ。
題は、「水を探す蛙」というもので、極めて短いので全文引用する。
蛙が二匹、池の水が干上がったので、安住の地を求めてさまよい歩いた。とある井戸の辺りまで来た時、おっちょこちょいの一匹は、跳びこもう、と言ったが、相棒が言うには、
「もしここの水も干上がったなら、どうして上がるつもりかね」
後先の考えもなく事に対処してはならぬと、この話は我々に教えている。(『イソップ寓話集』中務哲郎訳岩波文庫)
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道徳教育ノート「泣いた赤鬼」2
ここでの道徳教育ノートは、授業案を考えることに目的があるのではなく、道徳教育を行う、あるいは、教育全体のなかで道徳教育を位置づけることを考えている教師に、まずは大人として、道徳教育の理解をぎりぎりまで、深く、かつ広く掘り下げてほしいという目的で書いている。私自身は、子ども相手に道徳教育をしたことはないので、正確には、わからないが、もちろん、起きることの予想はできる。そういう点も含めて今回は考えてみたい。
鬼って何?
子どもが、「鬼って何」「なんで、人間は鬼とつきないたくないと思っているの?」「赤鬼と青鬼は人間に対して、違うような態度をとっているけど、鬼にもいろいろあるの?」とか、そういう疑問を出すことはあるだろうか。
というより、そのような疑問が出てこないクラスがあったら、普段から興味や疑問をもって学習をしていないのではないかと、心配になってしまう。
もちろん、節分などで、鬼は怖い存在だとという意識をもっているとしたら、じゃ、なぜ赤鬼は、自分はやさしくて怖くないのだから、人間につきあいまょしうなどといっているのか、という疑問が出てくるはずである。
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