道徳教育ノート 二匹の蛙2

 文部科学省の「二ひきのカエル」を考えてみたい。
 この文章が、文部科学省のホームページに掲載されている道徳教育の教材であることに、まず驚いた。これはいったい如何なる「徳目」なのか。どういう道徳的価値を教える教材なのか、いくら考えても、私にはピンと来ないのである。(テキストは二匹の蛙1にあります。)
 若い蛙のピョン太が井戸に落ちて、なんとか這い上がろうとするができない、助けを求めても、誰も助けてくれない。おじいさん蛙がいて、諦めろ、ここもけっこう楽しいし、安全だなどといっている。そのうち、人間がやってきて、井戸水を汲むためにおけを落として、引き上げるとそこに蛙もいて、外に出られるという話である。
 いくら道徳の教材でも、あまりにリアリティの欠如した話というのは、教材としてふさわしくないだろう。

 あまりにリアリティがないと思われるのは
・人間が登場する以上、蛙は蛙のはずだから、井戸に落ち込んだ蛙を、蛙が助けられるはずがない。人間が登場しない、擬人的な動物の世界ならよいが、そうではないのだから。
・人間がやってきて、おけで水を汲むことで助かるのだが、それならば、これまで何度もあったはずで、長い間おじいさん蛙がここに閉じ込められていて、助かる可能性がまったくないと思うのは変だ。
・おけが下におりてきたときに、蛙がどのような行動をとったのかわからない。このままだと、いつのまにか吸い込まれたと考えるのが自然だが、それでは、道徳で何を教えるのか。
 以上のことで、無理に道徳的価値をひねり出してみる。
・希望がわずかでも努力してみる。
 ヒョン太はなんとか登ろうとするし、また助けを求める。
・住めば都
 おじいさん蛙は、こんなところでも安心できるし、食べ物もあるし、いいところだよ、といって自分を慰める。「石の上にも三年」というような「忍耐と努力」をおじいさん蛙は示しているわけでもない。
・果報は寝て待て
 突然人間のおけに入って外に出られた。カエルたちは、森の方にはねていったのだから、おじいさん蛙も含めて、出て喜んだのだろう。最初の努力は、報われないのだから、この話で実現しているのは、後二者だ。
 私が教師だとしたら、この話は、手上げだが、やらざるをえないとしたら、おけがおりてきたときのことが書かれていないので、そこでどのようなやり取りが、ピョン太とおじいさん蛙の間でなされたのか、想像させるというようなやり方になるだろうか。
 ピョン太は、当然すぐに乗り込んで外に出ようとするだろうが、おじいさんの対応はいろいろと考えられる。
・もうここで一生を終えても、安全だし、それなりに快適に感じるようになったから、外にでなくてもいいよ、という。
・前におけがおりてきたことがあって、外に出られると思い、乗り込んだが、人間につかまれそうになってもがいているうちに、また井戸に落ちてしまったという経験があるから、あんなの二度といやだと嫌がる。
・そういう経験はないが、警戒心が強いので、下手に乗り込まないほうがいいと躊躇する。
・やはり外に出たいという小さな気持ちがでてきて、ピョン太のいうことを聞く。
 それぞれの可能性を議論するのもよいが、やはり、セリフを考えさせてみるといいのではないだろうか。
 少なくとも、「住めば都」とか「果報は寝て待て」という価値を教える題材に留まらせたくはない。 
山椒魚
 少し回り道をして考えてみよう。
 この話は、井伏鱒二の「山椒魚」を思い出させると(1)に書いた。
 2年間岩屋にのんびりしていた山椒魚が、体が大きくなりすぎて出られなくなり、何度も出ようとして入り口に突進するが、どうしても出ることができない。山椒魚を岩と間違えて産卵しようとした海老を馬鹿にするが、突進して出られないのを、海老に笑われてしまう。その後たまたま入り込んだ蛙を道ずれにしようと、出られないようにする。当初は互いに罵り合うが、次第にお互いに静かになり、最後には、諦めか、許しかの境地になる。
 高校の国語の教科書による掲載されるので、多くの人は知っているだろう。ただ、作者の井伏鱒二は、この作品を出版のたびに改訂していたそうで、最後の著作集では、許し合う場面がなく、山椒魚と蛙は死んでしまうようになっているという。私が入手した文庫は、戦後直後(新潮文庫)と2000年代の小学館の文庫だが、いずれも削除していない内容になっている。 
 「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」で終わる形だ。
 何度も改訂したのは、いろいろなことに迷ったからだろう。この「許し」のような発言がなく、双方が死んだ終わりになるのでは、かなり印象が異なる。(因みに、削除バージョンは出ているのだろうか。)

 井伏鱒二は、この作品をチェーホフの「かけ」という作品にヒントを得て書いたと述べているのだそうだが、元東京都知事だった猪瀬直樹氏が、「山椒魚」は、ロシアの作家シチェドリンの「賢明なスナメグリ」の剽窃であると批判したことがあり、これは、ネット上でもいろいろな人が論じている。私も、別のブログで論じた。https://wakei.at.webry.info/201107/article_1.html
 そこで書いたことをかい摘んで紹介する。
 この三作品の共通点は、主人公が、ある狭い空間に長く「閉じ込められる」という点である。
 井伏鱒二の「山椒魚」は、はじめは一種の遊び場であったはずの岩屋から、二年間の間に体が大きくなったために、出られなくなってしまい、当初は出るべく様々な試みをするのだが、結局出られない。
 チェーホフの「かけ」では、死刑制度と無期懲役に関する議論をしている内に、若い法律学者が、15年間自分はひとつのところに閉じ込められても平気だと言い出し、ある実業家と200万ルーブルの賭をすることで、自ら小さな部屋に籠もるものである。
 それに対して、シチェドリンの「賢明なスナムグリ」は、危険を避けることが大切であると常々親にも教えられ、自分もそう思っているスナムグリが、穴を掘って、ずっとそこに100年間死ぬまで籠もっているという話である。
 閉じ込められるきっかけが、それぞれ全く違っている。したがって、閉じ込められている途中に起きることも、全く違っている。
 「山椒魚」は、何とか出ようと試みるが、結局出られない。しかし、当初は、心に余裕があり、まわりを観察している。ステレオタイプ的な隊列を作って泳いでいる小さな魚を、自由のない連中だと見下す場面もある。しかし、やがて、出ることのできない、自分の不運を嘆き、神を呪うような台詞をはくようになる。そして、迷い込んできた蛙を、自分の体で出口を塞ぐことで、蛙も出られなくしてしまう。つまり、次第に自分の不幸を他にも及ぼすことで、心のバランスをとろうとするかのような、いじわるな心情が出てくる。そうした抑圧下における人間性の喪失が、大きなテーマとして出されているといえる。
 「かけ」では、単に閉じこもった法学者だけではなく、負けたら200万ルーブル払うことになる実業家の変遷も描かれる。法学者は、実際の人間との直接的関係はもつことができないが、必要なものはすべて手に入り、また手紙や新聞を受け取ることはできないが、手紙を出すことはできる。孤独に苦しんだ1年目は、ピアノを弾きまくる。古典の本を読みまくる時期から、歴史や哲学、言語の勉強をしたあと、福音書を読みふける時期、乱読の時期へ。一方の実業家は、羽振りがよかったために、200万ルーブルを出すことなど、まったく惜しくなかったが、その後事業に失敗して、その支払いは経済的破綻をもたらすことになり、はらはらしながら、待つことになり、かけを後悔しているのである。かけの主人公は、他人との関わりをもたない抽象的な生活を続けるという点で、山椒魚とは全く異なるが、月日が経つにつれて、人格的な変化が生じる点で共通性がある。この「かけ」もチェーホフは、大きな訂正をしており、当初は、出たあとに、法学者が実業家に復讐する部分があったが、それをチェーホフは、削除している。
不登校・引き籠もりを考える 
 もし、文部科学省の「二ひきのカエル」を取り上げる機会があったら、別に授業で扱う必要がないが、これらの作品を読んでおいてほしいと思う。
 これらの作品は、小学生や中学生に全く無関係な世界を描いているかというと、もちろん、作者はみな昔の人であり、二人は外国人だから、現在の日本の子どもとの接点はないが、しかし、描かれている世界と、不登校で家に引きこもっている子どもの状況は、これらの作品で描いている世界と、多くの共通性があり、しかも、どの作品に似ているというのではなく、様々な状況や心理状態があるわけだから、これらの作品を深く読むことで、引き籠もりの心情に共感的な理解ができるようになるのではないかと思うのである。
 引き籠もりといっても、そのきっかけは多様だろう。まわりとのトラブルで、接触するのがいやだと忌避している内に、そのまま引きこもってしまうというのと、そもそも人と交わるのが嫌で、ひとりでいる状態を意図的に選択している場合では、精神的な変遷も異なるだろう。「山椒魚」は前者であり、「かけ」は後者だ。それでも、気持ちがどんどん変わっていく。
 おじいさん蛙は、どんな心の移り変わりがあったのだろうか。それを考えることは、不登校や引き籠もりの人の気持ちを、子どもたちに考えさせることになるのではないか。

 教育出版の中学道徳教科書2年生に、松谷みよ子の「わたしのいもうと」という作品がある。原作の詩では、いじめで引きこもってしまったいもうとが、7年後、ひきこもったまま死んでしまう。そしてその前に、「私をいじめた人は、わすれているでしょうね、勉強したかったのに、あそびたかったのに」という言葉を残して、死んでしまうという詩で、ネット上にいくつかの実践記録がある。いずれも、いじめの問題として扱っている。もちろん、道徳の教科書としては、「いじめをなくす」ことを目標とした教材として載っているのだろうけれども、詩の半分以上は、引きこもった生活と家族を描いている。だから、私は「わたしのいもうと」は、不登校や引き籠もりを考えることも重要なのではないかと思うのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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