文部科学省の道徳教材のページを見ていたら、「二匹のカエル」という教材があったので読んで、授業研究などがあるか検索したら、まったく別の「二匹のカエル」という新美南吉という童話があり、更に別の様々な「二匹の蛙」があるようだ。不覚ながら今まで知らなかった。分析は次回にし、今回は教材の紹介だけにする。
どうやら、その元祖は、イソップ寓話らしい。非常に短い話だ。
題は、「水を探す蛙」というもので、極めて短いので全文引用する。
蛙が二匹、池の水が干上がったので、安住の地を求めてさまよい歩いた。とある井戸の辺りまで来た時、おっちょこちょいの一匹は、跳びこもう、と言ったが、相棒が言うには、
「もしここの水も干上がったなら、どうして上がるつもりかね」
後先の考えもなく事に対処してはならぬと、この話は我々に教えている。(『イソップ寓話集』中務哲郎訳岩波文庫)
イソップは寓話だから、いいたいことがはっきりとしており、あまり道徳の教材にはなりそうにない。ただ、イソップが念頭においていた井戸とはどんなものなのかという興味は起きる。「井戸」という訳語そのものが適切なのかは判断しようがないので、井戸と考えると、井戸は、通常水がつきないように、水のわき出る仕組みを、人間が作ったものだから、池の水が干上がっても、井戸が干上がることはないのではないか、とか、もし、深く掘り下げた縦井戸ならば、水があってもなくても、上がることは難しいし、浅い井戸であれば、どちらでも上がってこられるだろう。疑問はあるが、いずれにせよ、「ものごと実行する前には、結果もできるだけ慎重に考えてからにしよう」程度の「教訓」ととればよい話だろう。
イソップ物語には、他にも蛙が出てくる。
王様をほしがる蛙
44 王様がほしいとゼウスに蛙が頼むと、蛙が愚かなのを見透かして、池に木切れを放り込む。蛙たちは、動かない木切れを馬鹿にして乗ったりしていたが、支配者を取り替えてくれと、再びゼウスに頼むと、ゼウスは腹を立てて、水蛇に蛙たちを食べさせたという話で、「支配者にするには、事を好むならず者より、愚図でも悪事を働かぬ者がましだという教訓になっている。
隣同士の蛙
69 道から遠い沼にいる蛙が、道に近くにいる蛙に、こちらにきて安全に暮らそうと提案するが、住み慣れたところがいいといって断っていると、車に轢き殺されてしまったという話で、「下らぬ仕事に憂き身をやつしていると、立派な仕事に転じる前に身を滅ぼす」という教訓がついている。
驢馬と蛙
189 ロバが薪を背負って沼をわたろうとしたら、倒れて泣いていた。蛙たちは、あの程度で泣くなら、ずっとここにいる俺たちはどうしたろう、という。もっと多くの苦労を易々と服している人は、少しの苦労に腹を立てているものに聞かせてあげるとよい話だ、との教訓である。
あとの3つの話は、内容と教訓がしっくりこない気はする。
「アドラーが好んだカエルの寓話」という題のついたブログhttps://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/7bfd3aadd20a14c7e8c59d5780e6294e では、続きを創作した人がいるのか、次のような話になっている。
井戸を見つけた蛙たち、一匹は喜びその井戸に飛び込むことを決め、もう一匹は「ここで安易に水を求めて井戸に跳び込んだら二度と出られなくなる」という思慮深い判断をして、引き続き別の水がある場所を探し続け、結局水を見つけることができずに干からびて死んでしまうという結末で終わるもの。出典が書いてないので、作者などはわからないし、全文はどうなっているのかも知りたいところだが、道徳の教材としては、かなり難しい内容だろう。死んでしまう結末になる道徳教材はあるだろうか。
最初に述べた文部科学省の教材は、イソップの話とは異なるが、どこか発展させたような内容になっている。官庁のホームページに掲載されているので、全文引用してもかまわないだろう。
二ひきのカエル
「ううん、ここはどこ。」
井戸に落ちたピョン太は、小さな水たまりの中でようやく目をさましました。井戸の上まではかなりの高さがあります。まっすぐにのびたかべはつるつるしていて、とても登ることはできそうにありません。おぼろ月ががちょうど上にあり、井戸の底をわずかにてらしていました。
「おおい、だれか助けてえ。ぼくはここにいるよう、おおい、おおい。」
大きな声で何度もさけんでみましたが、声は外に届いていないようです。
「うるさいぞ、そんなにさけんでも、だれにも聞こえないぞ。」
井戸の横にある小さな穴から声がしました。よく見るとおじいさんガエルです。
「あなたはだれですか、ここから出られますか。」
ピョン太は一人でないことがわかり、ほっとしてたずねました。
「わしか、わしはこの井戸に落ちてもう何年になるかな、名前も忘れてしまったわい。それとな、ここから出ることはできないな。わしも始めのころに何度も試してみたがだめだった。」
「そんなあ、ここからもう出られないなんて……」。
おじいさんガエルにそう言われたピョン太は、一人で泣き続け、いつの間にかねむつてしまいました。
次の日になりました。お日さまの光が入り、井戸の底も少し明るくなりました。ピョン太は井戸のかべをじっと見つめていました。
「よおし、登ってみせるぞ。」
ピョン太は、わずかなかべのくぼみに手足をかけて登りはじめました。でもすぐにすべって落ちてしまいます。何回やってもだめでした。
「無理じゃ、無理じゃ、このかべはわしらには登ることはできないな。そんなむだな努力をするよりもじっとねているほうがましじゃよ。」
いたおじいさんガエルは言いました。ピョン太は体についたすりきずの痛みに、ためいきをつきながら聞きました。
「おじいさんはもう外に出るのをあきらめているのですか。」
「そうじゃなあ、長い間ここにいると、ここもそんなに悪い所じゃなくなるて。」
「こんなだれもいない井戸の底がですか。」
「そうじゃよ、えさもときどき落ちてくるし、何よりヘビや鳥におそわれることがないからなあ。さび
しいことをがまんするだけで、のんびりできる所じゃよ。」
「そんなあ、ここでずっと生きていくなんて……。」
おじいさんガエルはまたねてしまいました。
それから何日もすぎました。梅雨の季節になったようで、雨の日がつづきました。井戸の水も少しずふつ増えてきました。
「ああ、雨の日は、みんなは田んぼで音楽会をしているだろうな。」「今日は水泳大会をしているかな。それともピクニックかな。」
ピョン太は、井戸の外の友達のことや楽しい集まりのことを毎日毎日考えていました。おじいさんガエルはあまり話をすることもなくてい、いつもねているようでした。
セミの声が聞こえてくるころになりました。暑い夏になったようです。井戸の上をお日さまが何度もとおりすぎていきました。
このころになると、ピョン太もおじいさんガエルと一緒にじっとしていることが多くなりました。ある日のことです。遠くから何人かの人間の声が聞こえてきました。
「暑い、暑い、こう暑くてはたまらない。」
「おや、こんなところに井戸があるぞ。」
「冷たい水が飲めそうだ。よし、このおけを落として水をくもう。」
ガラガラ、バシャーン。
「よおし、たっぷり水が入ったみたいだぞ。」
ガラガラ、ガラガラ、おけが井戸のふちまで上がってきました。
「うわっ、カエルが入っているぞ。」
びっくりした人間は、おどろいておけを地面に落としました。
中から出てきたのは、二ひきのカエルでした。カエルたちは森の方にはねていきました。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/29/1303863_23.pdf
この話は、どうしても井伏鱒二の「山椒魚」を思い出させる。「山椒魚」については、以前いろいろと考えたこともあるので、それも含めて、次回詳しく考えてみたい。
「ミルクの壺の蛙」という話もあるという。先のアドラーのページに出てくる。
“ミルクがいっぱい入った壷の淵を、二匹のカエルが跳び回っていました。
突然、二匹とも壷のなかに落ちてしまいました。
一匹は「もうおしまいだ」と泣きました。
ゲロゲロと泣いて、溺れ死ぬ覚悟をしました。
もう一匹はあきらめませんでした。
何度も何度も足をばたつかせて、とうとう、
もう一度足が固い地面に着きました。
何が起きたと思いますか?
ミルクがバターに変わっていたのです。”
この話をアドラーから聞いたことのあるアルフレッド・ファラウ哲学博士が、強制収容所でこの話を大勢の収容者たちに聞かせて、希望をもったというのである。感動する人が多いようだ。
そして、いよいよ新美南吉である。(以下は青空文庫より転載)
新美南吉の「二匹の蛙」
緑の蛙と黄色の蛙が、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。
「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」
と緑の蛙がいいました。
「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」
と黄色の蛙がいいました。
こんなふうに話しあっていると、よいことは起こりません。二ひきの蛙はとうとうけんかをはじめました。
緑の蛙は黄色の蛙の上にとびかかっていきました。この蛙はとびかかるのが得意でありました。
黄色の蛙はあとあしで砂をけとばしましたので、あいてはたびたび目玉から砂をはらわねばなりませんでした。
するとそのとき、寒い風がふいてきました。
二ひきの蛙は、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。蛙たちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないのです。
「春になったら、このけんかの勝負をつける。」
といって、緑の蛙は土にもぐりました。
「いまいったことをわすれるな。」
といって、黄色の蛙ももぐりこみました。
寒い冬がやってきました。蛙たちのもぐっている土の上に、びゅうびゅうと北風がふいたり、霜柱が立ったりしました。
そしてそれから、春がめぐってきました。
土の中にねむっていた蛙たちは、せなかの上の土があたたかくなってきたのでわかりました。
さいしょに、緑の蛙が目をさましました。土の上に出てみました。まだほかの蛙は出ていません。
「おいおい、おきたまえ。もう春だぞ。」
と土の中にむかってよびました。
すると、黄色の蛙が、
「やれやれ、春になったか。」
といって、土から出てきました。
「去年きょねんのけんか、わすれたか。」
と緑の蛙がいいました。
「待て待て。からだの土をあらいおとしてからにしようぜ。」
と黄色の蛙がいいました。
二ひきの蛙は、からだから泥土をおとすために、池のほうにいきました。
池には新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへ蛙たちは、とぶんとぶんととびこみました。
からだをあらってから緑の蛙が目をぱちくりさせて、
「やあ、きみの黄色は美しい。」
といいました。
「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」
と黄色の蛙がいいました。
そこで二ひきの蛙は、
「もうけんかはよそう。」
といいあいました。
よくねむったあとでは、人間でも蛙でも、きげんがよくなるものであります。
考察は次回にするが、ここまで蛙の話を続けると、イソップのふたつを除いて、あとはすべて「二匹の蛙」になっている。有名なアーノルド・ローベルの『がまくんとかえるくん』も二匹の蛙である。蛙の話は、多くが、平凡な人間という感じの存在として描かれている。特別に賢くもないし、またすごく愚かというわけでもない。人間が蛙に化身するという伝承は、日本、オーストリア、ドイツなどにあるそうだ。グリム童話にも、王子が蛙になっている話がある。蛙は、薬として利用する地域もあったというし、また、蛙が害虫を食べてくれるので、稲作では重要な働きをするものと考えられていた。そして、気圧が下がると鳴く性質があるので、蛙が鳴くことで、雨がふることを予想することができたとも言われている。
つまり、狼は怖い存在として描かれ、狐はずるい存在であるのに対して、蛙は、「人間的」な存在として登場するといえる。だから、友達関係の寓意にぴったりくるのかも知れない。