人工透析問題3

 福生病院の透析中止問題は、報道から個人的情報発信へと展開している。私もこのブログで2度書いたが、その後印象的なブログ記事が現れたので、改めて、これまで触れられなかった点も含めて考えてみたい。
 医療関係者からのブログは、福生病院支持もけっこうある。また、透析を実施している当人からの投稿もある。「透析患者の僕だから言える「透析中止事件」の罪」https://diamond.jp/articles/-/196794?page=3 実際に患者や医療関係者でないとわからない具体的な治療を受けながらの生活について理解できる。ここで、3つの病院擁護論のブログが紹介されているが、残念ながら、ふたつは有料で、会員でないと読めないので、残りのひとつである長尾和宏医師の「和の町医者日記」に掲載された「透析中止報道 福生病院は悪くない」http://blog.drnagao.com/2019/03/post-6688.htmlの主張を検討したい。ただし、そこに書かれていることは、完全な福生病院擁護論ではないが、私としては賛成できない部分が少なくない。

1 ACP
 長尾氏は、最も重要な論点として次のように書いている。

5 問題は医師のコミュニケーションが下手だったかもしれないこと。
  「人生会議」をどんな風にやったのかが、本来の論点では。
  メデイアはなぜここで人生会議という文字を書かないのか。
  これこそが国策である「人生会議」の限界を物語っている。
  ACPの有効性(このケースは失敗例)として論じるべきだ。
  人の気持ちは常に揺れ動く。
  本人・家族の意向に常に寄り添い、丁寧な話し合いを重ねるべき。
  家族が「後悔している」というならば、主治医のACPは失敗だ。
  また医療経済の問題を患者さんにつき付けるのもご法度である。
  人間の尊厳と経済は切り離して考えないといけない。

 氏は、文の最初に「コミュニケーションに問題はあったかも知れないが、大きくは逸脱していない」と書いているのだが、この文章は、福生病院の批判ではないのだろうか。長尾氏が、コピペとして紹介している他の医師の文章でも、この問題はACPの問題であるとされている。
 「人生会議」とか、ACPというのは、私も言葉としてなじみがなかったのであるが、厚生労働省が提起している言葉で次のような意味とされている。

自らが希望する医療・ケアを受けるために、大切にしていることや望んでいること、どこで、どのような医療・ケアを望むかを自分自身で前もって考え、周囲の信頼する人たちと話し合い、共有することが重要です。自らが望む人生の最終段階における医療・ケアについて、前もって考え、医療・ケアチーム等と繰り返し話し合い共有する取組を「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」と呼びます。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/saisyu_iryou/index.html
 そして、その愛称を募集して「人生会議」と決めたのだそうだ。https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02615.html

 日本の官庁がやるこうした馬鹿馬鹿しい「用語」提示には、うんざりする。文部科学省でも、学習指導要領が改定されるたびに、「新語」が提示される。「新しい学力」とか「生きる力」とか。すると、この「標語」が現場を振り回し、形式的思考が支配するようになる。
 厚生労働省が言っていることは、特に異論はないが、しかし、福生病院での事例は、ACPの問題だろうか。厚生労働省は、「人生の最終段階における医療・ケア」であると書いているし、終末期医療の問題としてACPが語られていることは間違いない。しかし、福生病院で亡くなった44歳の女性は、まったく終末期ではなかった。それを終末期の問題とするとは、すり替えでしかない。
 何人かの医療関係者の文章を読んだが、「透析の中止」を弁護するために、実際に行われていて、問題とならない「中止」例は、いずれも90歳代や80歳代で、他の病気も併発している、確かに「末期」の患者なのである。
 長尾氏は、さすがに44歳の女性への病院の対応が、「本人・家族の意向に常に寄り添い、丁寧な話し合いを重ねるべき」という原則に反していると解釈している。だからこそ、福生病院のしたことは、「重大な逸脱」だったのではないだろうか。

2 透析患者からの訴え
 透析を受け続けている立場からブログで発信したのは、竹井善昭氏である。透析が必要な患者に対して、通常の病院は、(竹井氏はそれが全てだと今まで思っていたようだ)透析を受けるのは、当たり前で、受けるためにごくごく厳しい管理をする、治療の遅刻や休みも許さず、仕事で別の地域にいく場合には、そこで透析を受けられるように病院を手配するなど、徹底した態勢をとるのが普通だと思っていたので、福生病院のやり方には、心底驚いたという。
 患者からみて、透析治療は、もちろん、苦しいが、生活にそれほど重大な支障が生じるわけではないと指摘している。もちろん、週3,4回拘束され、楽ではない治療だし、体がだるくなるとか、そういうことはあるが、工夫で改善の余地はあるし、私自身そうなのかと思ったのだが、治療中に、パソコンで仕事したり、読書などもできる。竹井氏は、タブレットを持ち込んで、Netflixをみて、海外ドラマ通になったのだそうである。
 竹井氏がいいたいことは、透析患者は、終末期患者でもないし、透析は延命治療でもないということである。透析をしなければ、極めて短期間に死んでしまうのだから、一種の延命治療であると、私は思うが、透析患者が終末期の患者でないことは間違いない。透析を受けいていれば、多くの患者は通常の生活ができる。
 そして、「まともな透析クリニックであれば、シャント管理をきちんとやる。」だから、シャントが潰れることは、あまりないし、そうなったとしても他の方法があり、透析そのものが不可能になることは、少ないという。
 随分前のことだが、病院にいって透析を数時間するのではなく、家庭で生活しながらできる方法ができたというニュースがあったように思う。
 竹井氏は、要するに、まだまだ治療が可能であった女性に、不適切な言い方で、中止に追い込んだのではないかと批判しているように思われる。

3 欧米と日本
 長尾氏は、欧米では高齢や認知症なら、QOLの観点から非開始や中止例は多いと書いているが、この事例は、高齢でもないし、認知症でもない。私の調べ方がまだまだだとは思うが、欧米で腎不全になっても、透析を開始しなかったり、中止したりするという事例・統計は、見つけることができなかった。
 多少古い研究であるが、金沢大学腎臓内科の石川勲氏の「最新の腎移植統計 欧米と日本の末期腎不全治療の対比」(2004年)という論文では、腎不全の治療法である血液透析、腹膜透析、腎移植の3つのうち、日本では圧倒的に血液透析が多い特色があるとされるが、それは、腎移植が極端に少ないからと、血液透析の技術が優れていることによるとしている。アメリカでは、移植が日本よりずっと多いので、その分透析が少ないわけである。腹膜透析や腎移植が少ないことは、病院の態勢や医療教育、そして、臓器提供の問題など、様々あるが、血液透析での延命結果がよいことで高く評価されているということであるとしている。長尾氏は「日本では、「本人の意思を無視して金儲けのために死ぬ日まで続けている」多くの現状こそが特異だ」としているが、日本の正しい現状認識とは到底思えない。腎不全になったら、透析は当然のごとく治療する、という感じは、患者である竹井氏の手記でも書かれているが、それが患者の意思の無視であると単純にいえるかは問題であるし、(常識的に、生きる手段があれば、それを望むのは患者の意思であると考えられるのだから)またそれが金儲けのためだ、と決めつけるのもいかがなものか。
 それよりも、問題なのは、日本で透析が広く実施されているのは、やはり、保険の対象で、患者にかかる経済的負担が極めて小さいから、治療費の心配がなく受けられるからであろう。アメリカなら、治療費のことを考えて非開始を選択する場合がありうると想像できる。途上国では、治療そのものに困難があることは、統計的にも示されている。治療費の心配をせずに治療を受けられることは、100%よいことなのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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