日本の司法制度は100年遅れているか Le Figaro の記事より

 3月11日のLe Figaroに、「自由の領域」CHAMPS LIBRES と題して、日本の司法批判の文章が掲載された。当然、カルロス・ゴーンの長期拘留とやっと保釈がきっかけになった掲載だろう。「カルロス・ゴーンの事件は、訴訟に直面した被疑者を、まったく無防備にしてしまう強力な検察によって支配されている」という認識を土台にして、日本人の法律家の話も交えながら、日本の司法を断罪する記事になっている。日本のテクノロジーは、10年進んでいるが、司法制度は100年遅れている、という言葉を2度書いている。
 最初に母親が家に放火して、娘を殺害し、生命保険を詐取した容疑での訴訟の模様を紹介し、傍聴席は満員で、まるでSMをみるような興味本位で見ており、手錠と腰縄をつけられた悲しそうな被疑者(無罪を主張している)の権利無視を指摘するところから始めている。平成4年に起きた事件で、有罪となったが、2015年に再審が決まった事件のことだろう。
有罪率の高さは、強権的な取り調べの成果?
 まず、日本の司法と特異性として指摘されているのが、日本では有罪率が極めて高く、2016年には、刑事裁判での無罪は0.03%に過ぎないと指摘されている。実際に、裁判所の記録から、有罪率を計算したサイトによると、裁判全体の無罪率は、0.204%で、否認事件に限定すると、2.34%となるという。http://keisaisaita.hatenablog.jp/entry/2016/04/20/191943 le Figaroの記事ほどではないにせよ、ただ、日本の有罪率が異様に高いことは否定できない。その理由については、いろいろな説があるが、ひとつには、かなりきちっと証拠を固めて、本当に有罪であると確信できるものに限り起訴しているからだ、という説がある。しかし、この記事では、そうした説は紹介されていない。この記事が提示している理由は、検察の取り調べのやり方が、強圧的であり、自白を強要するものになっているので、有罪率が高くなるという説だ。最大20日の拘留が認められているが、多くの場合、再拘留が認められ、特に、否認をしていると、だして貰えない、だから、罪を認めてしまうという、最も典型的な批判である。
 ある外国人が、おそらく痴漢の疑いで逮捕され、妻が妊娠していたので、どうしても早く出る必要があると感じ、罪を認めて罰金を払い、国外に退去したという話がでている。しかも、拘留されている時期に、わざわざ痴漢を疑われた駅にいき、どのようにやったかを演じさせられたという。
 罪を認めれば、検察としては有罪を事実上勝ち取ったようなものだから、保釈してもいいのだろうが、罪を認めないと、証拠隠滅の恐れがあるという検察の危惧は事実だろうが、しかし、それはあくまでも検察の論理であって、無罪かも知れない人間の権利を守る立場からではない。そこは、大いに問題だろう。外国人のように、本当はやっていないといっているのに、家族の事情で出たいために罪を認めてしまった人に対して、わざわざ衆人のいる場所での演技をさせるというのは、確かに「見せしめ」としか思えない。
 次に指摘するのは、拘留して取り調べをしている間、20日間は、弁護士の援助をうけられないこと、そして、弁護士ですら、検察の調べ上げた証拠関連にアクセスできないことあげている。これは、弁護の余地なく、改善しなければならない点だろう。

 では、どうしてこのような検察優位のシステムになっているのか。
 記事は、日本の裁判官の少なさを理由のひとつにあげている。人口10万人あたりの判事が、日本では2.9人で、フランスでは9人だという。そのために、訴訟を能率的にするために、つまり、判事の負担を減らすために、有罪にできる事例にしぼって起訴し、その代わり、起訴に持ち込む事件はなにがなんでも有罪にしなければならないという力が働くということだろう。
日本人は冤罪を軽視しているのか
 次は、日本人の価値観に関わっているという。日本社会の安全性は、いまでも比較的国際社会のなかで認められており、凶悪犯罪が多くないことは事実だろう。それは、警察の働きだけではなく、それを支える日本人の考えがあるというのである。それは、「日本人は、有罪の人が無罪になってしまう間違いより、無罪の人が有罪になってしまう間違いのほうが悪いと考えている」というのである。本当だろうか。記事に書いてあるわけではないが、要するに、何も犯罪をしていない人が、裁判の間違いで有罪になったとしても、それはその人の運の悪さで諦めてもらうしかないが、実際に犯罪をした人が、無罪になって社会に出てきたら、社会全体が困るから、それは、避けてほしいと、多くの日本人は思っているということなのだろう。
 私は、日本人であるが、そういう考えをまったくもっていなかったので、このフランス人の指摘には驚いてしまった。前大坂地裁判事の言葉として紹介されているので、裁判官としての印象なのかも知れないが、このような調査が行われること自体、かなりおかしなことなので、そうした統計はないと思われる。検索してみたが、ヒットしなかった。だから、前判事の主観だろう。
 社会の安全という観点に絞れば、冤罪はあっても、犯人を無罪にすることは避けなければならないという考えも成立する。しかし、すべての人が、その社会の構成員であり、自分が冤罪の対象となる可能性は皆無ではないのである。だからこそ、有罪の者を無罪にする間違いは犯しても、無罪の者を有罪にしてしまう冤罪は、最大限避けなければならないという、近代的な刑事司法システムの原則ができたわけである。日本人のなかに、悪いことをする奴は、悪いんだから、罰せられて当然だし、悪いことを一切しなければ、捕まることもないのだから、冤罪などの危険性はないのだ、という感覚があるのは、否定できない気もする。日本人だけの性質とも思えないが。しかし、実際に冤罪事件はかなり起きているし、死刑判決を受けた人でも、冤罪だったことが証明された事例がいくつかある。そもそも死刑は執行されてしまえば、それが冤罪だったとしても、再調査は不可能に近いのだから、冤罪はまだまだあるかも知れない。痴漢と間違われて、冤罪を主張するのに苦労した映画がヒットして、冤罪が身近に起きる可能性を自覚した人も多かったし、冤罪を避けることが重要であると、日本人も考えるようになったのだ、私は考えていたのだが、どうなのだろう。

 さて、カルロス・ゴーンの起訴が間違いであるか、拘留が長すぎるか、という点はさておき、日本の裁判制度に問題がないかといえば、もちろん、大ありだと私は思う。これまで、別のブログで何度か書いてきたが、私が考える問題点を整理しておきたい。
弁護士付き添いの必要性
 ゴーン事件で盛んに議論されているが、以前から問題となっている、弁護士同伴での取り調べが保障されていないことが、まずは問題だろう。アメリカの制度の詳細を知っているわけではないが、裁判システムはかなり違うし、また、アメリカがすべてにおいて優れているわけではないが、骨格として、アメリカのシステムのほうが、犯罪が多いだけ合理的であるように思われる。
 アメリカには、訴訟に予審ともいうべき段階があり、裁判をするかどうかを審議する。日本では、検察が起訴したり、あるいは誰かが民事で訴えれば、よほどのことがない限り、裁判が行われる。やはり、アメリカのようにすべきである。裁判として成立するかどうかの審議がないと、嫌がらせの提訴がなされる可能性がある。日本のように訴訟が少ない国でも、実は嫌がらせの提訴はある。嫌がらせの提訴でも、長い裁判にずっと対応しなければならないのは、まっとうに生きている個人にとっては、大きな負担になる。そのことだけで、いやがらせ効果になってしまう。
 そして、アメリカでは、刑事訴訟では、被疑者が犯行を認め、有罪であることを承認したら、その段階で通常の裁判は終了し、あとは、刑罰の程度を決める手続きにはいる。陪審員裁判は、有罪か無罪かだけを決めるだけだから、被告人が有罪を認めたら、その裁判は不要になるわけである。つまり、アメリカにおける「自白」は、その段階で裁判終了を意味するのであり、その後撤回ができないことになる。日本では、厳しい取り調べを逃れるために、罪を認める自白を行うが、実際の公判になって撤回するということがよくあるが、それが認められないだけ、アメリカでは「自白」は重みをもったことなのである。その代わり、取り調べにおいては常に弁護士が立ち会う権利があり、自白も、弁護士立ち会いの下で行われ、自白が自動的に有罪に結びつくことを認識して行われる。しかし、日本では、自白する被疑者も、公判で覆せばいいやと思っている場合が少なくないという。
 私は、ここでもアメリカのほうが合理的であるように思う。そもそも、被疑者が検察の示す犯行を認めたならば、わざわざ事実審理を詳細に行う必要があるように思えない。日本人的几帳面さの現れかも知れないが、他方では、取り調べが恣意的であるという疑念を、検察や警察も内心では思っているからではないのだろうか。
 ただし、一切の強圧的な取り調べが払拭され、証拠を提示しての取り調べ、弁護士が自由に批判、反論できるなかでの自白でなければならない。だから、録音や録画では、無意味なのである。
 長すぎる保釈についての、多くの批判については、私もだいたい同感である。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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