道徳教育ノート「泣いた赤鬼」2

 ここでの道徳教育ノートは、授業案を考えることに目的があるのではなく、道徳教育を行う、あるいは、教育全体のなかで道徳教育を位置づけることを考えている教師に、まずは大人として、道徳教育の理解をぎりぎりまで、深く、かつ広く掘り下げてほしいという目的で書いている。私自身は、子ども相手に道徳教育をしたことはないので、正確には、わからないが、もちろん、起きることの予想はできる。そういう点も含めて今回は考えてみたい。
鬼って何?
 子どもが、「鬼って何」「なんで、人間は鬼とつきないたくないと思っているの?」「赤鬼と青鬼は人間に対して、違うような態度をとっているけど、鬼にもいろいろあるの?」とか、そういう疑問を出すことはあるだろうか。
 というより、そのような疑問が出てこないクラスがあったら、普段から興味や疑問をもって学習をしていないのではないかと、心配になってしまう。
 もちろん、節分などで、鬼は怖い存在だとという意識をもっているとしたら、じゃ、なぜ赤鬼は、自分はやさしくて怖くないのだから、人間につきあいまょしうなどといっているのか、という疑問が出てくるはずである。

 日本文化の歴史のなかで、鬼は非常に多様な現れ方をするし、いまでも、例えば「鬼太の帽子」のような、怖い存在ではまったくない鬼の物語が作られていたりする。『日本大百科全書』によれば、「恐るべき他界者の意義を中心に、
1異形醜悪
2超人超能力者
3邪神
4亡者
5異族
というような性質をもっているという。そして、鬼は悪い存在だけではなく、よい鬼も今昔物語には、多数登場しているそうだ。言葉として、「鬼才」という言葉などは、人間とも思えないほど優れた才能という意味だから、非常にいい意味で使われている。
 学年が下であれば、鬼と人間の違いなどにはとらわれず、それぞれの行為だけをとりあげて考えることは、充分に意味があることだし、無理にそこから、鬼と人間などという問題に踏み込む必要もないだろう。しかし、学年があがれば、必ずそうした問題意識が芽生えてくる。しかも、その問題意識は、学校生活、あるいは学級内の人間関係を考える上で、大事なことなのである。
 邪悪であろうと、善意であろうと、鬼は、人間とは「異なった存在」であることに、共通点がある。上の分類でいえば、「異族」あるいは、「異形」であり、異形はしばしば「醜悪」に感じるものだろう。
 いまの学校で、「いじめ」は最大の問題のひとつであるが、いじめは、「みんなと違う」ことが理由となって引き起こされる場合が少なくない。また、いじめとまではいえなくても、交流しない姿勢を貫いている集団がいるとしたら、それは、「異形」を感じているに違いない。近年、比較的話題になるのは、児童養護施設がある学区だと、養護施設から通学する子どもたちが、多数いて、学級運営が大変になる場合である。実際にそうした学校で働いている人たちから、苦労話を聞かされることもある。 もしこのような状況での問題があるクラスであれば、「泣いた赤鬼」はどのような教材としての可能性があるのだろうか。それを考える前に、純粋に大人が読んで考えることをすこし書いておこう。
差別の構図を表現する「泣いた赤鬼」
 大人が読むと、この「泣いた赤鬼」は、もっともっと広い社会的テーマがにじみ出て来る。作者が意図したかどうかは、私はわからないが、赤鬼、青鬼、人間の構図は、一般的な差別で起きる構図そのものである。
 社会的差別は、個別に現れ方が異なるが、差別される集団のなかも、差別する集団も、一様なわけではない。別の連載で扱っている「鬼平犯科帳」では、売春婦の殺害事件が連続しておきているにもかかわらず、禁止された売春だから、捜査する必要もないとする奉行所のやりかたに、長谷川平蔵が、「夜鷹(通りに立つ売春婦)だって人間ではないか」と憤る場面がある。そして、自ら犯人捜索に乗り出すのだが、平蔵は、社会から下の人間として差別されていた人たちも、「同じ人間」と考えて、そのように扱っていたことがわかる。おそらく、それは平蔵の来歴からみて、事実だったろう。身分社会のなかでは、上位身分の者は、下位身分の者を同等とはみない。
 差別される側は、もっと複雑な有り様になるのではないか。差別は不当だと思って反抗する人たち、なんとか、上位集団と交流したいと考える人たち、違う人間なのだから、できるだけ接しないほうがいいと考えて行動する人たち。
 差別の解消は、まず差別する側の平蔵のような人が、同じ人間だという人間宣言をして、それに共鳴する人たちがでてきて、その勢力が力をもてば、差別解消が社会的、あるいは政治的に宣言される。(フランスの人権宣言、明治の市民解放令)もちろん、その前から、差別される側の人々のなかから、優れた才能を発揮したり、それを認められて、上位層と交流して認められる人たちが出てくる。しかし、法的に平等になっても、社会のなかで本当に平等に扱われるかは、また別の問題で、かえって、上位層の反発が強まって、社会的差別が激しくなることもある。
 ユダヤ人差別で考えてみよう。
 ユダヤ人は、ゲットーに閉じ込められ、一般キリスト教徒とは、普通の交流はできない。そこで、なんとかキリスト教社会のなかにはいっていきたいと考えるユダヤ人と、ユダヤ人文化を保持していこうというユダヤ人に分かれてくる。もちろん、なかなか受け入れられることはないが、ヨーゼフ・メンデルスゾーン(有名な作曲家メンデルスゾーンの祖父)が、優秀な哲学者として、受け入れられる。しかし、だからといって、ユダヤ人差別がなくなるわけでもない。
 ユダヤ人差別は、宗教とそれに基づく慣習が、差異を意識させる要素だったが、「泣いた赤鬼」の世界は、むしろアメリカの黒人差別により近い。赤鬼や青鬼は、外見がはっきりと人間と違う。黒人も肌の色によって、誰にも白人か黒人かはわかってしまう。したがって、鬼への差別は、黒人差別と似ている。
 「招かれざる客」という古いアメリカ映画がある。
 ハワイ旅行にいった白人娘のジョアンナは、結婚したいという黒人男性ジョンと一緒に帰宅する。新聞社の社長で普段から黒人差別の解消を主張する父親は、当惑し、結婚を認めることができない。また、ジョンの父親も、黒人が白人と結婚したら苦労すると反対する。母親たちは、苦しみながらも賛成する。やがて、ジョンの社会的な高い評価(医学の世界で優れた業績をあげている)や高潔な人格が、反対の感情を和らげ、めでたしとなる話だが、登場人物の全員が善意の人たちであっても、やはり、多様な感覚に支配され、葛藤が生まれている。そして、それぞれの人物の位置は、上に書いたことにあてはまる。実際の社会では、もっと強烈に妨害する人たちが、双方に出てくるだろうが、この映画は、「泣いた赤鬼」のように、登場人物は、ほぼ全員「善意」の人なので、そこまでの葛藤は起きない。

人間と鬼のコミュニケーション
 さて、こうしたことを念頭においた上で、「泣いた赤鬼」をもう一度読んでみよう。
 道徳教育の実践記録をネット上で読むと、多くが、後半を中心に扱っている。特に、青鬼の書いた手紙を素材として、書いた青鬼と読む赤鬼の気持ちをみんなで討論する形のものが多い。
 しかし、差別構造的な観点では、やはり、前半のほうが考えるべき要素がたくさんある。

・恐る恐る赤鬼の家に入ってみたきこりに、赤鬼が話しかけると、声に驚いて、木こりたちは逃げてしまう。
 きこりは人間だが、鬼を理解しようという気持ちがある。しかし、おそらくまだ実際に接したことはないのだろう。だから、鬼のことは、もちろん知らない。しかし、「だまして、とって食うつもりじゃないかな」といっているから、鬼が恐ろしい存在であるという感覚をもっている。しかし、だからといって、すぐに逃げ出したのではなく、「おい、きこりさん」と赤鬼が呼びかけたのに反応して、「でた、でた、おにが。」「にげろ、にげろ。」と逃げてしまう。声の大きさに驚いたのだ。
 きこりの気持ちを想像するのは、大人にこそ難しいかもしれない。
 赤鬼のほうは、人間とのコミュニケーションで、何がマイナスになるのか、この段階では理解していない。きこりたちが、食ってしまうのではないか、と疑った時点で、それを打ち消すために、「おい、きこりさん」と呼びかけているのだが、人間からすると、すごく大きな声だった。いきなり、大きな声で、呼びかけられれば、当然相手には恐ろしく感じる。赤鬼は、意図的にやったわけではないから、そうした声の異質さを認識していなかったわけである。
 コミュニケーションが成立するうえて、「勘違い」「思い込み」「気付かない違い」などいろいろな壁があるが、「異形」の集団間でのコミュニケーションは、それが拡大した形でつきまとうだろう。この二者のやり取りで、話していて、うまく相手に通じない経験などを出し合うのも、コミュニケーション技術を向上させる上で、有効かもしれない。

青鬼は何を求めていたのか
・青鬼と赤鬼の対話。青鬼の提案をどう考えるか。
 これこそ、「泣いた赤鬼」を友情や善意の大切さを理解させるための教材とするなら、最も重要な場面だといえる。私がみた実習生の研究授業でも、そのように扱っていた。
 正直、私は自分を殴って、人間と仲良くしろという青鬼の提案の意図は、よくわからない。議論をすれば、いろいろと想像するとしても、自分があばれて、それを押さえつける赤鬼を、人間のほうでやさしい存在として受け入れられる保障はない。確かに、ものを壊している青鬼をとめるのだから、好感はもったとしても、やはり、赤鬼も恐ろしい存在と人間が感じる可能性は低いとはいえない。
 確実に、赤鬼は人間の側にいってしまうのであり、人間に対して徹底的に乱暴を働いた自分が、人間と仲直りする赤鬼と、以前のようになれる保障もない。人間が赤鬼に、「あんな青鬼とはつきあうのはやめなさい、私たちと一緒にやっていけばいいじゃないですか。」といわれる可能性もあるだろう。 
 またその提案を受け入れた赤鬼は、何を考えていたのだろうか。
 「やっぱりそこまでして、人間と仲良くなりたいとは思わないよ。」と、青鬼の提案を受け入れないとする子どもたちと、「青鬼は親切でいってくれるのだから、その親切を受け入れても、友情を裏切ることにはならない」という子どもたちとで、「道徳教育」として、現場はどのような指導をしているのだろうか。

 私は、道徳教育は、ジレンマ教材を中心にすべきであると考えるので、考えさせて終わりでいいと思っているのだが。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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