広島呉市のいじめ 形式主義の対策が解決を遅らせる

 毎日新聞3.26に、いじめ放置という記事が出た。自殺などの最悪の事態になったということではなく、卒業して高校生活への期待をもっているということのようだ。しかし中学3年間、いじめ被害を訴えたにもかかわらず、適切な対応をされなかったという記事の内容である。いろいろ考えるさせられるところがあるので、それらを整理しておきたい。

 記事のなかで、経緯が年表風に整理されている。
2016夏 同級生から服を破られるなどのいじめがはじまる
2017.11 3回教室で服と下着を脱がされる
     保護者が学校と市教委に連絡。学校が加害生徒に聞き取り
2018.4 学校が保護者に「グループ内の罰ゲーム」と説明。一時不登校
   6 不安障害と睡眠障害と診断。休みがち
   11 市教委が保護者に「重大事態として再検討」と連絡
2019.2 市教委が保護者に「重大事態として第三者委員会を設置したい」と連絡

 以上が、毎日新聞が整理した経緯である。

 記事は、不登校となり、精神疾患と訴えたのに、半年以上「重大事態」として扱わず、対応しなかった、これは国の指針に反すると書いている。上記保護者となっているのは、「祖父ら」と記事では書かれており、「聞き取り」の結果を男子生徒側に報告せず、「グループ内の罰ゲーム」との説明を続けたとする。国の指針では、服を脱がせるのも「重大事態」となっているのに怠ったと記事は批判する。
 記事の最後に、尾木直樹氏のコメントが書かれている。
 「不登校と精神疾患が出た時点で重大事態と認定し、早急に対応すべき事案だ。自殺など命に関わるいじめだけが「重い」のではない。服を脱がせるなど性的な嫌がらせは本人の尊厳を深く傷つける。学校や教育委員会はいじめに軽重はないという認識をもち、被害者のために動くべきだ。」

 通常の「ニュース」的事件ではないので、まだ、毎日のスクープのようだが、まず、尾木直樹氏のコメントが、言った通りに正確に書かれているかということは留保すべきだが、かなりおかしい。「不登校と精神疾患が出た時点で重大事態と認定し」というが、不登校になったのは、最初のいじめから1年後、精神疾患が出たのは2年後である。そもそも「重大事態」などという概念で対応を始めるという発想そのものがおかしい。
 2016年の夏に、「服を破られる」という事態が起きているわけだから、この時点で、教師は気付くはずだから、対応はこの時点からとれらなければならないはずである。服が破れていれば、よほどのことがあったはずであり、生徒を呼んで事情を聞くのが当然だろう。あとでいじめを訴えている生徒だから、教師に質問されれば、ちゃんと答えた可能性が高い。そして、11月には、教室で3回も服と下着を脱がされている。教室でこのようなことが起きたにもかかわらず、教師たちにこのことが伝わっていなかったとしたら、生徒たちの学校への不信が相当強かったと考えざるをえないのである。かなり多数の生徒がその事態を知っていたはずであり、しかも3度もあれば、教師に誰も通報しなかったのだろうか。あるいは、同級生全体が、いじめに加担しているか、容認していたのだろうか。
 生徒からの情報提供がなかったにせよ、保護者が学校と教育委員会に連絡した。事態を知ったために、聞き取り調査をしたようだが、毎日新聞の記事では、加害生徒しか書かれていない。加害生徒が、こういう場合「遊び」の一種と答えるのは、ほぼ常識である。加害者の感覚では、確かに「遊び」なのかも知れない。加害生徒に聞き取りをして、おしまいにしたとは思いたくないが、被害生徒、まわりの生徒たちへの聞き取りをしなかったのだとしたら、学校が教育機能を喪失しているといわざるをえないだろう。もしかしたら、まわりの生徒たちも、彼らはグループだし、罰ゲームだったんじゃないの、などといったのだとしたら、普段の教育の質が問われるところだろう。
 「聞き取りの結果を男子生徒に報告せず、罰ゲームと説明」というのは、聞き取りは、罰ゲームという「いいわけ」以外の内容があったのだろうか。

形式主義の弊害
 さて、この事例をどのように考えたらいいのだろうか。
 まず感じるのは、学校側のこの被害生徒に対する異様なまでの「冷たさ」である。この記事だけで即断するべきではないかも知れないが、何か社会的背景でもあるのだろうか。この被害生徒が、何か社会的弱者とされる属性をもっていて、当初から、教師たちが、忌避的態度をもっていたのではないかと感じるのである。生徒たちもおそらく、かなり意図的に見て見ぬふりしていたではないか。もしそうであるとしたら、だからこそ、社会的弱者を援助することが必要だった。(ただし、ここはあくまで推測なので、今後の情報によって、間違いであれば、訂正したい。)
 この記事自体がそうなのだが、発想が「形式的」なのである。形式的対応は、いじめをなくす上で、非常にマイナスでしかない。まるで、
 「服を脱がされた」→(まだ重大事態ではない)→「下着を脱がされた」→(重大事態だから、第三者委員会の設置が必要だ)
にもかかわらず、設置しなかったのが間違いであるという「発想」がある。そして、そのために、「重大事態」の事例集があり、それで対応を決めていく。こういう対処法が、次第に浸透しているのではないかと思うのだが、これこそが、いじめ解決の最も邪道であり、解決を困難にするものなのだ。しかも、このマニュアルだと、重大事態に前には対応しなくてもいいかのようだ。いじめも犯罪も、最初は小さな芽から始まることが多い。そして、小さな芽の段階でしっかりと対応することが、最も大事なのだ。そのためには、こうした「形式主義」的マニュアルを強制するのではなく、教師に、ゆとりを保障することが不可欠なのである。小さな、いじめの芽の段階でもかならず、被害者や加害者に変化が現れるはずであるが、それを見逃さないためには、日常的に子どもたちと接して、コミュニケーションをとっておかなければ難しい。普段の元気な姿をしっかりと把握しているからこそ、変化に気付くわけである。

不登校・転校という防衛策
 他方、子どもがこうしたいじめにあい、学校や教育委員会に対応を求めても、まともに動いてくれなかったら、家族としてはどうしたらいいのだろうか。
 まずは、積極的な不登校になることである。家族として、学校や教育委員会にもっと働きかけるから、ちゃんと対応してくれるまで、学校にいかずに、家で勉強しようということなら、子どもも納得するだろう。
 それでも対応しなければ、転校すべきだろう。多くの学校では、いじめに対する真摯な取り組みがなされているのである。事件が起きるのは例外中の例外なので、転校すれば、多くは改善される。いじめは、転校の理由として、文部科学省が正規に認めている事由である。

 まだ、毎日新聞の第一報の段階なので、この程度だが、また新しい事実がわかったら、続きを書きたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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