「日本型学校教育」中教審答申の検討 義務教育1

 いよいよ中核的な義務教育に関する部分の検討になる。
 まず最初に、9年間を通した教育課程、指導体制、教師養成について一体的な検討が必要であるとする一方で、多様化した子どもの状況に対応するとともに、誰一人取り残さないという基本原則が確認されている。ただ、なんとなく空虚な響きがある。教育課程や指導体制といっても、9年間の割り振りとして、既に、6-3-3、6-6、9-3という三つの学校形態か一条校として認定されており、しかも、通常の小中学校についても、小中連携校などがあり、連携校の場合、きり方が6-3ではなく、5-4や4-5の型もある。つまり、義務教育学校としての統一的な学校体系は、崩れているのである。「通した」という意味は、どの程度重みをもっているのだろうか。
 そして、多様な資質に応じることと、誰一人取り残さないということが、どのように関係しているのかも定かではない。

“「日本型学校教育」中教審答申の検討 義務教育1” の続きを読む

「日本的学校教育」中教審答申の検討7 高校教育3

 多様性の実施は、進学制度にかかっているとすれば、ではどんな進学制度が望ましいのか。とりあえず、アメリカの総合制高校も含めて、後期中等教育まで、前期中等教育のように「共通課程」で一貫させるという考えは、私の知る限りほとんどないので、後期中等教育では多様なカリキュラムやコースが提供されるという前提で考える必要がある。
 まず最初に考えねばならないことは、義務教育年齢である。答申では、高校も事実上義務教育に近い進学率であることを指摘しているが、だからといって、義務教育にすべきであるとはまったく書いていない。あくまでも、中学までを義務教育とする立場である。では、義務教育にすると何が変わるのか。大きくふたつある。
 第一に、高校を義務教育にすると、入試がなくなる点である。現行制度では、中高一貫校では、中学で、それ以外は高校で入試がある。ところが、義務教育ではかならず行かなければならないのだから、少なくとも競争的で振り落とされる入学試験はできない。日本の公立中学には入試がないことでわかる。アメリカは高校の途中まで義務教育になっているので、高校の入試はない。そのために、アメリカの典型的な高校は地域総合制高校となっていて、地域の高校生は同じ高校に通い、そこには実にたくさんの、多様な授業が用意されている。そこで選択して履修するわけだ。もちろん市街地の高校はより小規模なものもあるが、郊外では地域総合制が標準的である。

“「日本的学校教育」中教審答申の検討7 高校教育3” の続きを読む

「日本的学校教育」中教審答申の検討6 高校教育2

 今回は、前回の紹介と簡単なコメントを踏まえて、中等教育制度の何をどう考える必要があるのかを試みたい。
 私は修士論文で、「学校生徒の多様化と統一化の問題」というテーマで、統一学校運動の研究を行い、それで博士論文も書いたが、現在でも「多様化と統一化」を研究の中心テーマにしている。時代や対象を広げた形なのだが。そして、そのテーマの中心対象が中等教育であることは、ずっと同じである。中等教育の性質上、これが制度論としては中心的課題になるわけだ。
 多様化は、社会が分業化していることから、労働者を適切に分業体制に選別していくという側面と、個々人にとってみれば、能力や資質、好みが多様であるので、社会のなかに適切な場所を選択していくという側面がある。「統一化」は、国家や社会は、秩序を保持していくためには、共通の規範や規則が必要であり、それを国民(市民)が、受容して守っていく必要があり、そういう姿勢と意識を形成することが目的である。統一の方法についても、いくつかの型があるが、ここでは、多様化の問題を主に考えることにする。

“「日本的学校教育」中教審答申の検討6 高校教育2” の続きを読む

岡崎城西高校チアリーディング部の事故と訴訟 部活の形態に無理がある 社会体育への移行を考えよう

 2021年4月19日、愛知県岡崎城西高校チアリーディング部の活動中に、不適切な指導で、下半身付随になったと、高校に損害賠償訴訟が起こされたという記事が多数でている。毎日新聞の記事によると、以下のようなことのようだ。
 
 「提訴は2月15日付。訴状によると、元女子部員は1年生だった2018年7月、低い場所での宙返りも完全に習得できていないにもかかわらず、より高度な技術が必要な、2人の先輩に両足を握られて肩の高さまで持ち上げられた状態から前方宙返りをして飛び降りる練習を体育館でした際、前方のマットに首から落ちた。その結果、脊髄(せきずい)損傷などで下半身が動かなくなり、排せつも自力でできなくなるなど後遺症が残ったとしている。
 部の男性顧問は部活に姿を見せることは少なく、外部の女性コーチが技術指導をしていたが、事故時は2人とも不在だった。けがを避けるために技の練習で必要な補助者もなく、マットを敷くだけだったという。元女子部員側は「顧問とコーチは、練習による危険から生徒を保護すべき注意義務をおこたり、習熟度に見合わない練習をさせ、事故に至った」などと主張している。」https://mainichi.jp/articles/20210418/k00/00m/040/183000c

“岡崎城西高校チアリーディング部の事故と訴訟 部活の形態に無理がある 社会体育への移行を考えよう” の続きを読む

大学の男女別定員枠はまちがいだ

   森元東京オリンピック組織委員会会長の女性差別発言以来、日本の女性差別が酷いことが度々問題にされるようになってきた。そして、大学入試が終わり、進学年度が開始されたからだろうか、大学という世界における女性の比率が低いことが話題になっている。そしてその極端な例として、東大では、教員の9割、学生の8割が男性であることが議論となっている。東大としても、とくに管理職などで女性を積極的に登用する動きが顕著になっているようで、それはそれでいいことだろう。
 ただし、教師や学生を、意図的に増やすということにまで進むと、むしろ逆の問題を生じさせる可能性がある。現在でも、助教を女性に限って募集されるようなことがけっこうある。研究職だから、当然実力がある人を雇うべきであり、募集そのものを女性に限るというのは、あまり賛成できない。しかし、広範囲に行われているわけではなく、限られたポストでのことだから、女性研究者にインセンティブを与えるという意味では、効果があるかも知れない。

“大学の男女別定員枠はまちがいだ” の続きを読む

福井県池田中学事件 担任は刑事責任を負うべきか

 この事件はかなり酷いものだ。教師は、ともするといじめに加担するだけではなく、自らが生徒に対していじめ、というよりは、パワハラというのが適切な行為をしてしまうことがある。この事件は、その教師によるパワハラによって自殺したと見られる事例である。しかし、検察審査会などの審議を経たあと、結局検察による起訴はなされなかった。
 教師は、国家賠償法によって、教育活動によって生じた不法行為に対して、個人としての賠償責任を負わないことになっている。しかし、刑事責任はもちろん個人として負うしかない。この事件は、非常に稀な刑事責任を告発された事件である。実際に刑事事件として扱われたものもあることはある。有名な水戸五中事件などがある。水戸五中事件は、証拠などの不備によって、加害責任を問われた教師は無罪となったが、直接暴力を振るったという目撃証言があったために、起訴された。また、岐陽高校事件のように、有罪になった事例もある。
 しかし、この池田中学の場合は、自殺であり、直接的な暴力によって亡くなったわけではない。したがって、法的問題として考えたときには、単純ではない。
 
 まず事件の概要とその後の経緯を整理しておこう。

“福井県池田中学事件 担任は刑事責任を負うべきか” の続きを読む

学校におけるプログラミング教育 バッキンガム氏の批判

 『メディア情報リテラシー研究』という法政大学の坂本旬氏が中心になっている研究誌に掲載された、ダヴィッド・バッキンガム「なぜ子どもはプログラミングを教わるべきではないのか?」という短い文章を読んだが、プログラミング教育が必修になった日本の情報を考える上でも、興味深い論文であった。日本で、2020年から、小学校から高等学校まで、プログラミングが必修になったわけだが、少なくとも、当分の間大きな成果があるとは思えないし、次の学習指導要領で方向転換がなされたり、あるいは修正がなされる可能性は高い。日本のICT活用を進めるために、学校でのプログラミング教育を必修にすることが、本当に適切なのかは、大いに議論する余地があると思うが、特段大きな反対もなく決まってしまったような印象だ。

“学校におけるプログラミング教育 バッキンガム氏の批判” の続きを読む

「日本型学校教育」中教審答申の批判4 外国人の教育

 今回は、第5章の「増加する外国人児童生徒等への教育の在り方について」を扱う。このようなテーマをひとつの章として扱ったことについては、これまでにない積極的な姿勢を感じる。しかし、残念ながら、この問題を扱うには、日本政府の姿勢になじまない部分があり、委員たちは苦労したに違いない。早々に矛盾した記述に出会う。
 
 「また,日本語指導が必要な外国人児童生徒等が将来への現実的な展望が持てるよう,キャリア教育や相談支援などを包括的に提供することや,子供たちのアイデンティティの確立を支え,自己肯定感を育むとともに,家族関係の形成に資するよう,これまで以上に母語,母文化の学びに対する支援に取り組むことも必要である。
 加えて,日本人の子供を含め,多様な価値観や文化的背景に触れる機会を生かし,多様性は社会を豊かにするという価値観の醸成やグローバル人材の育成など,異文化理解・多文化共生の考え方に基づく教育に更に取り組むべきである。」
 
 後段では、多文化主義を掲げ、多様性を社会のなかにとりいれることで、社会を豊かにするという発想が語られている。しかし、この答申全体の趣旨が、この表題にもかかげているように、「日本型学校教育」である。全体の制度理念を「日本型」ということを強調しつつ、多文化主義を実現することなど、どう考えても矛盾しているのではないか。中教審委員にも、多様な立場のひとがいるだろうから、ここで、多文化主義に共感するひとたちが、頑張ったのかも知れない。

“「日本型学校教育」中教審答申の批判4 外国人の教育” の続きを読む

「日本型学校教育」中教審答申批判4

 社会は急速にICT化に進んでおり、コロナ禍はそれを圧倒的に促進した。少なくとも、そのように思われる。GIGAスクール構想による一人一台の情報端末の配布ということも、今年度中に実現するという計画になっている。本当に実現しているかは、現時点ではわからないが、そこにもいろいろと、疑問の余地はある。もちろん、ICT化は押しとどめることはできないし、また、押しとどめるべきでもない。大いに進展させる必要がある。しかし、そこに重要ないくつかの観点が、実は、この中教審答申には抜け落ちている。今回は、それを中心に書きたい。
 6章と7章は、基本的に同じことを扱っており、教育のICT化の実現形態を提案している。簡単に内容を整理しておこう。提起されていることを、箇条書き的に整理しておいた。
 
ア ICTを基盤的なツールとして活用
イ 新学習指導要領の趣旨を踏まえる
ウ 従来伸ばせなかった資質・能力の育成に効果
エ 休校にともなう遠隔・オンライン授業への活用

“「日本型学校教育」中教審答申批判4” の続きを読む

「日本型学校教育」中教審答申批判 3

 今回は、「8人口動態を踏まえた学校運営や学校施設の在り方について」を検討する。ここでいう人口動態は、
・少子化
・高齢者人口の増大
・労働人口の減少
・人口増減の偏り
等である。
 高齢者人口の増大や労働人口の減少は、大きな社会的、政治的な課題であるが、教育的課題とは言い難い。生涯学習や、リカレント教育の課題としては、当然改善していく必要があるが、ここでの課題としては、学校教育であり、主には義務教育段階なので、考慮されてもいない。
 主に課題となっているのは、子どもの人口が少なくなっている地域での問題である。確かに深刻だと思うのは、1市町村1小学校1中学校という市町村が233団体(13.3%)あるのだそうだ。これまでの文科省のこうした状況認識から出てくるのは、ごく当たり前のように、学校の統合だったが、この答申では、他のいくつかの提言をしている。

“「日本型学校教育」中教審答申批判 3” の続きを読む