福井県池田中学事件 担任は刑事責任を負うべきか

 この事件はかなり酷いものだ。教師は、ともするといじめに加担するだけではなく、自らが生徒に対していじめ、というよりは、パワハラというのが適切な行為をしてしまうことがある。この事件は、その教師によるパワハラによって自殺したと見られる事例である。しかし、検察審査会などの審議を経たあと、結局検察による起訴はなされなかった。
 教師は、国家賠償法によって、教育活動によって生じた不法行為に対して、個人としての賠償責任を負わないことになっている。しかし、刑事責任はもちろん個人として負うしかない。この事件は、非常に稀な刑事責任を告発された事件である。実際に刑事事件として扱われたものもあることはある。有名な水戸五中事件などがある。水戸五中事件は、証拠などの不備によって、加害責任を問われた教師は無罪となったが、直接暴力を振るったという目撃証言があったために、起訴された。また、岐陽高校事件のように、有罪になった事例もある。
 しかし、この池田中学の場合は、自殺であり、直接的な暴力によって亡くなったわけではない。したがって、法的問題として考えたときには、単純ではない。
 
 まず事件の概要とその後の経緯を整理しておこう。

 
 中学2年の男子生徒が、2017年3月14日、校舎から飛び下りて自殺。遺書があった。
 10月15日に調査委員会の報告書がだされ、男性担任教師と副担任女性臨時講師が、強く怒鳴りつけるなどの指導を行っており、強い叱責で追い詰められて自殺と結論づけた。
 同級生へのアンケートでは、死にたいといっていたという回答があった。
 担任は、生徒たちがいる前で、かなり強い叱責をしていた。みた生徒は、「目撃するだけでも怖かった」「言い方が酷いと感じた」と述べている。
 同僚教員も、効果とかやりかたについて意見をしていた。担任は、それを受けいれなかった。
 
 副担任は、宿題を忘れたことを執拗に叱責し、当人が忘れた理由を説明しても無視した。小学校時代にも習っていた家庭科の担当で、保護者は、副担任を代えてほしいと願い出ていたが、受けいれらなかった。別の生徒を不登校に追い込んでいるとも言われている。
 事件後を年表風にまとめる。
2017年12月 市民団体が、業務上過失致死容疑で告発
2019年2月27日、不起訴処分
2019年3月1日、市民団体が、不起訴を不服として、検察審査会に審査を申したて
2020年1月、審査会は、担任「不起訴不当」、副担任、校長を「不起訴相当」とした。
2021年3月29日、検察が、担任を不起訴処分。
 
2019年12月に、遺族が損害賠償と事実関係の詳細な壊滅と再発防止についての文書を、市と県に送付。これに対して、県市は、損害賠償額の減額を要求。
2020年6月15日、池田町と福井県に、5400万の損害賠償を求めて提訴
(以上の整理には、http://kyouiku.starfree.jp/d/post-8097/ を参考にさせてもらった。)
 
 おそらく、調査委員会の報告書によって、両教師の指導が自殺の原因であるとされているので、民事訴訟の損害賠償は、確実に認められると思われる。そこで、市民団体も矛を収めたようにみえる刑事責任について考えてみたい。
 この場合、自殺ではあるが、自殺幇助などを問えるものではないことは、おそらく疑いがないといえる。市民団体の告発や検察審議会への申したても「業務上過失致死罪」の容疑となっている。
 業務上過失致死罪が成立するためには、「業務として行われた」こと、「過失」があり、その「過失」によって死に至ったという因果関係が認められることが、要件である。「業務」とは、必ずしも職業的な仕事ではなく、より広い概念であるが、この場合には、教師による「指導」「叱責」であるから、「業務」であることは疑いない。
 ところが、叱責が過失であるかどうか。
 
叱責の形が過失といえるか
 たとえ生徒にミスや怠慢による忘れ物があるとしても、それを多くの生徒たちが見ている前で、他の生徒が恐ろしいと思うほどの叱責を行うことは、教育的配慮を書いた叱責といえないことはない。あるいは、それだけ叱責したとしても、なぜ、そういう場での叱責になるのか、今後どうすればいいのか、等のフォローがあるべきだろう。そうしたフォローをしなかったことは、過失といえる。したがって、少なくとも教育学的に考えれば、この二人の教師が行った叱責は、教育的配慮に欠けたものであり、過失といえる。そもそも、多くの生徒の前で、怖いほどに叱責したり、忘れ物を執拗に非難したりすることは、教育的な効果はほとんどないと考えるべきである。実際に、そのように忠告する同僚もいたというから、担任は、素直に、その忠告を聞くべきだった。そして、その後にフォローをすれば、悲劇は避けられたかも知れない。
 ただし、私自身は、このような叱責が法的に許されていること自体が、大きな問題であると考えている。つまり、教師に懲戒権が、学校教育法によって認められているわけだが、この規定は削除すべきである。なまじ懲戒権などがあるから、こうした激しい叱責が容認される雰囲気があるのだ。教師は、冷静な指導のみが許されるべきであって、それでは聞かないというときには、懲戒権を行使できる校長に委ねるべきなのだ。そうすれば、「指導死」などという事態のほとんどは避けられるはずである。もちろん、懲戒を教師が自粛すればの話だが。
 そのようにいうと、それでは指導できないという意見があるかも知れない。しかし、教育とは、基本的に説得で指導するものであって、権力行使で指導するものではない。その限界内で指導すればいいのであって、それでは態度を改めない、そして、その行為が他の子どもたちの教育権を妨害しているというのであれば、それは、教師以外の懲戒権をもつ存在、校長、教育委員会、警察などの任務である。そのように、教師はあくまでも非権力的な指導に徹するほうが、教師が行う指導は効果的になるはずなのだ。
 
この叱責が自殺の原因なのか
 調査委員会は、叱責と自殺の因果関係を認めているので、基本的には、因果関係があると認識するのが妥当なのだろう。ただし、業務上過失致死罪を適用するためには、予見可能性と回避可能性というふたつの壁がある。
 目の前に人があるいているのに、ブレーキを踏まないまま轢き殺してしまったとしたら、ブレーキを踏まないで、そのまま突っ込めば、轢いてしまい、その結果死んでしまうことは、当然予見可能であるし、ブレーキを踏むことで回避することも可能である。だから、自動車事故で轢いてしまった場合には、業務上過失致死罪が適用される。しかし、この場合は、自殺である。激しく叱責しても、自殺する人は稀にしかないだろうし、帰宅してからであれば、回避することはできない。だから、予見可能性と回避可能性を認定することは、かなり難しいともいえる。
 だが、この場合、自殺をした場所が、校内であり、朝自習などをして、生徒たちが多数いたこと、そして、おそらく、担任も通常はその場にいるべきものであること(実際にいたかどうかはわからない)、そして、遺書もあったことなどから考えると、完全にとはいえないが、予見可能性と回避可能性はあったともいえる。
 
 とすれば、結論としては、有罪であるかどうかは別として、起訴すべき事例だったのではないかと、私は考える。
 また、起訴されなかったとしても、これだけの事件を起こしているのだから、担任と副担任には、懲戒処分がなされてしかるべきだろう。しかし、担任は他校へ転勤になり、副担任は継続して教えているという。その点は大いに疑問である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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