. 日大アメフト部廃部問題について
日大のアメフト部が再び大きな問題を起こしたのは、二度目だから、さすがに世間の見方は厳しい。廃部が競技スポーツ運営委員会で決定したとき、ヤフコメでは当然だろうという意見が多数だったという印象だった。日大アメフト部は、日大のなかでも、また全国のアメフト部のなかでも、際立って強い部だったそうだから、おそらく大学内での扱いもかなり特別なものがあったのだろう。 “日大アメフト部廃部について” の続きを読む
カテゴリー: 教育
文科省が大学再編・統合の方針?
文科省が少子化に伴う大学入学者の減少という事態にたいして、再編・統合をうながす議論を進めるように、中教審に諮問したと報道されている。「文科相、大学の再編・統合を中教審に諮問 入学者数の減少見据え」(毎日新聞)
18歳人口は22年で112万、それが40年には82万になるのだそうだ。進学率の上昇や留学生の受け入れが進んだとしても、その間12万5000人減って51万人になるという予想だ。
五十嵐顕考察32 藤野先生(魯迅)
五十嵐は、教育学の中核に「教育実践」という概念を常においていた。最初の論文集『民主教育論』でも、教育実践が、教育研究に先行し、また中核を占めることを強調している。しかし、他の概念もそうだが、五十嵐の教育学概念のなかで、「教育実践」がいかなる内実をもっているのかは、明確でない。少なくとも、常識的に考えられる教育実践よりは、広い概念であると考えられる。常識的に考えられる教育実践は、(私の考えに過ぎないが)教師が教室で行う授業実践が中核となるといえる。しかし、五十嵐は、そうした教師の具体的な教室における実践を、ほとんど対象としていない。教育財政学が専門だから、当たり前ともいえるが、具体的に教室で授業を見ることは、何度もあったはずであるし、また、自身が教授として、大学で授業をしていたのだから、そういうなかで、実践分析をすることがあってもよかったのではないかと思うのだが、私が見る限り、そういう教育実践分析の文章は、ほとんどみられない。
港区の中学修学旅行 海外へ
来年度から、東京港区の公立中学では修学旅行に海外にいくのだそうだ。私立高校などでは、海外の修学旅行はめずらしくもないが、公立の中学となると、これまで聞いたことがない。9月19日の毎日新聞の報道によると、都内では初、全国的にも珍しいという。しかし、このニュースには、いくつか驚くことがある。
1 24年度の港区の公立中学の3年生は760人しかいないそうだ。私の近所の市立の大規模中学では、一校一学年で、そのくらいの人数がいそうだ。いくら少子化といっても、ひとつの区の中学生の一学年の人数としては少なすぎないか。
2 生徒の自己負担は、おそらくこれまで積み立てているだろうが、それは通常の京都・奈良想定だろう。7万くらいなのだそうだが、当然、海外であれば、それではとうてい済まない。不足分は区が補填するという。
3 港区では小学校一年から「国際化」という授業があり、英語教育に力をいれているという。
五十嵐顕考察31 民族の独立という問題
五十嵐は、教育行政のいわゆる反動化、逆コースといわれる時期をすぎると、民族の独立問題を重視するようになる。それは、日本がアメリカの統治から独立したにもかかわらず、平等とはいいがたい安全保障条約を結び、日本各地に米軍の基地が残り、真の独立が達成されていないという認識から、対米従属からの独立という政治課題を重視したからであろう。そして、それに留まらず、戦後、植民地状況から独立を果したアジア・アフリカの独立、そして、民族自立を議論の柱のひとつとするようになる。そして、その中心が、中国と北朝鮮であった。五十嵐を含む教育関係者が、中国を訪れ、各地の教育関係者や子どもたちを交流をかさねたのは、1961年である。そして、五十嵐は、教育財政の専門家という立場から、社会主義国家における教育の機会均等や教育費の問題を論じている。
五十嵐顕考察30 「教育財政学」はなぜ書かれなかったのか2
五十嵐が、なぜ、教科書無償制度について、なんらふれることがなかったのかについて、前回簡単な想像を書いたが、実際のところは、よくわからない。当時の『教育』や『教育評論』などを読み返す必要があるが、今はそれが難しいので、「理由」は、おそらく、日教組に遠慮したということにしておこう。
今回考えてみたいのは、教科書無償制度について議論の対象としなかったことが、教育財政論や行政論、そして、国民の教育権論として、どのような結果をもたらしたか、ということである。結論は、かなりはっきりしている。それは、当時の戦後改革を継承しようとしていた人が、共有していた「教育の自由」を、非常にぎりぎりのところで考えるきっかけを放棄してしまい、その後の「教育の自由論」が脆弱なままに推移したということである。
五十嵐顕考察28 木村久夫をめぐって3
晩年なぜ、あれほど木村に拘ったのか、について考えてみたいと思う。
最初に断っておきたいのだが、五十嵐著作集の編集メンバーに参加しているが、私は五十嵐教授のゼミ生ではなく、指導教官は持田栄一教授だった。当時、ふたつのゼミは対立的であるとみられていたが、内部進学生にとっては、両方の教授に教わることは、ごく当然のことであって、対立的だったのは、大学院から入学してきたひとたちだった。だから、私が持田教授を指導教官に選んだのは、大学院ではドイツの教育制度を中心に研究しようと思っており、持田教授はドイツ留学からかえって間もない時期であり、さかんにドイツ留学の成果を著作にまとめていた時期だったからである。したがって、五十嵐教授の授業にもでていた。
五十嵐顕考察27 木村久夫をめぐって2
昨日注文していた本『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』加古陽治(東京新聞)が届いたので、加古氏の解説的文章を読んだ。解説的といっても、本書の半分をしめるかなり詳しいもので、木村の生涯と遺書をめぐる事実を解説したものだ。遺書については、従来、遺書は田辺元の著作の余白に書き込まれたものだということだったが、実は、それ以外に父親宛の手紙としての遺書があり、これまで公表されていた遺書は、そのふたつを部分的につなぎ合わせ、順序を入れ換えたものであるという事実を示し、本来の形に戻してふたつの遺書として示したのが、この本書の主旨である。遺書そのものの従来版の加古氏のいう真正版との違いは、今後精査するとして、とりあえず関心をもったのは、木村の生涯と裁判をめぐる動向、そして、その後の木村の対応についてだった。そういう点で、加古氏の解説文は非常に興味深く、五十嵐の文章を読んでいるだけではわからなかったことが、大分でていたと思う。ただ、この本は五十嵐の死後大分経ってからの出版であり、加古氏の独自取材も反映されているので、五十嵐が知らない部分があったことは、仕方ない。
五十嵐顕考察26 木村久夫をめぐって
保阪氏の著書『きけわだつみのこえの戦後史』を読んで、再度、五十嵐の木村久夫認識を整理しておく必要を感じた。(前に書いたことと重なる部分がある)保阪氏は、当然、最晩年の五十嵐の文章だけを読んで判断しているわけだが、(別にそのことを批判するつもりはない。彼は五十嵐研究をしているわけではなく、あくまでも、わだつみ会の歴史を研究しているなかで、五十嵐について触れているだけだからだ。)五十嵐は、若いころから木村に、強い関心を寄せていた。『きけわだつみのこえ』は、初版ではないようだが、かなり早い時期に読んでいる。そして、最初から木村の文章に強く注目した。他の手記は、戦死ないし戦病死したものであるが、木村だけが、BC級戦犯として刑死させられた人物だったからである。そして、五十嵐がいいつづけたことに「自分も木村の運命をたどったかも知れない」ということがあった。しかし、基本的な木村への感情は、私は「コンプレックス」だったと思う。その意識は、ずっとかわらず生涯もち続けたと考えられる。それはどういうことだったのか。
五十嵐は、平和を語るとき、つねに、自分は、あの戦争の問題を認識することができなかった、当時最高の教育を受けていたにもかかわらず。そして、その反省から、戦前の教養のあり方を問い、政治のありかたを批判し、戦後になって、再び戦前のような政治、教育にならないように、運動を続けた。そして、この流れで木村を語ることはなかったが、木村への拘りは、この戦争反省と結びついていたと、私は考えている。「私も木村のようになる可能性があった」ということは、どういう意味だったのか。
読書ノート『きけわだつみのこえの戦後史』保阪正康
五十嵐顕著作集のなかで、戦争責任に関する視点は、重要な部分をしめており、しかも、五十嵐のこの点での見解は、時期によって、かなりの変動があるように思われる。そして、晩年は、もっぱら『きけわだつみのこえ』のなかにある木村久夫に、かなり異様なほどのこだわりをみせていた。これをどう読むか、なぜ、あれほどのこだわりをみせたのかは、今後検討しなければならないが、一緒に著作集編集の仕事をしている同僚から、上記の本を紹介されたので、早速読んでみた。最初『文芸春秋』で発表し、何度か書き継がれ、出版後、大きな話題を呼んだという。そして、現在は文庫になっているが、私が読んだのはキンドル版である。