五十嵐顕考察31 民族の独立という問題

 五十嵐は、教育行政のいわゆる反動化、逆コースといわれる時期をすぎると、民族の独立問題を重視するようになる。それは、日本がアメリカの統治から独立したにもかかわらず、平等とはいいがたい安全保障条約を結び、日本各地に米軍の基地が残り、真の独立が達成されていないという認識から、対米従属からの独立という政治課題を重視したからであろう。そして、それに留まらず、戦後、植民地状況から独立を果したアジア・アフリカの独立、そして、民族自立を議論の柱のひとつとするようになる。そして、その中心が、中国と北朝鮮であった。五十嵐を含む教育関係者が、中国を訪れ、各地の教育関係者や子どもたちを交流をかさねたのは、1961年である。そして、五十嵐は、教育財政の専門家という立場から、社会主義国家における教育の機会均等や教育費の問題を論じている。

 しかし、時代の制約とはいいきれない、大きな認識上の問題が、あったように思われるのである。
 確かに、中国では、国民党と共産党の内戦から、共産党が勝利して、中華人民共和国を建国し、資本主義とは異なる経済・政治体制をつくっていく。一般的にそれは社会主義体制と考えられていたが、中華人民共和国は、帝国主義の植民地体制から独立したということではなかった。確かに、当初は日本軍と闘っていたが、日本は中国を植民地化することはできず、敗北したし、その後国民党との内戦に勝ったのだから、ある意味、何度か中国の歴史でくり返されてきた、かなり長期の混乱時期を闘い抜いた新しい政権が樹立されたものという側面が強かったといえる。
 あたらしい中国が、民族独立の原則を承認していたかどうかは、かなり疑問の余地がある。たしかに、内戦を闘っているときには、民族の独立を認め、自治共和国としての承認だけではなく、中華人民共和国から離脱して、完全に独立する権利も認めていたのであるが、実際に建国すると、独立の権利は否定し、自治共和国としての自治にも、大きな制限が加わるようになった。それが早い時期に現われたのが、チベット問題である。すでにダライ・ラマは1950年代に亡命し、中国政府のチベットへの干渉が大きな国際問題になっていた。
 
 私は、2003年にデンマークのフォルケ・ホイ・スコレのひとつであるIPCという学校に2カ月ほど学んだことがあるのだが、そこは世界中から学びにくるところだった。私が滞在していたときには、26カ国のひとがいたと思うが、そのなかに、チベットからの亡命者(印度やネパールに滞在していた)が数名と、中国人が数名いた。中国人はふたつのグループに分かれ、政府を支持するひとたちと、朝鮮族と呼ばれる、政府に疑問を懐いているひとたちがいた。そして、このグループは、あきらかに対立しており、とくに、中国政府支持の中国人は、チベットのひとたちを、あからさまに非難していた。中国政府は、ものすごい物的な援助をしているのに、何が不満なのか、というわけだ。たしかに、北京政府はチベットに多額の資金を注いで、懐柔をはかっている。現在は表面的に激しい対立が表面化しているようではないが、しかし、国際的なレベルでは、対立は解消していない。
 
 さて、五十嵐は、戦前日本で、とくに朝鮮問題で、日本の植民地政策を批判していたひとたちを高く評価し、さまざまな論文でその言説を紹介している。柳宋悦、矢内原忠雄、石橋湛山などである。そして、彼等3人の共通点は、どんなに植民地本国が、植民地にたいして、援助なるものをして、教育や産業をさかんにしても、自由を奪われている状態では、そうした援助を感謝することなどありえないのだ、という主張だった。これをチベット問題にあてはめれば、北京政府が、いくらチベットにたいして援助をあたえ、経済的に活性化させても、自由を制限し、とくに宗教を弾圧している限り、服従はしても、その状態に満足はしないと考えるべきだろう。デンマークの学校で接している限り、かの中国人は非常に高圧的にチベット人に振る舞っていて、とても共感できる感じではなかったが、亡命チベット人たちは、みな非常に温和で協調的であり、共感できた。
 問題は、五十嵐が中国を訪れたとき、すべにチベット人たちへの抑圧は知られていたはずである。訪問時期の報告では、そうしたことに現地でふれることはできなかったとしても、中国を民族独立の盟主のような位置付けをすることは、当時でも疑問を呈する必要があったように思われるのである。
 
 民族独立を原則的な主張とするからには、多民族国家において、少数民族の独立を認めるかどうか、あるいは独立に近い自治権をあたえるかは、大きな論争課題となるはずである。1961年の中国訪問の記録のなかで、五十嵐は、北京にある、少数民族から選抜された学生たちを教える学校を少しだけ紹介しているが、その学校が、民族独立・自立を教える学校であったか、あるいは民族懐柔のための人材養成機関であったかは、検討の余地があったはずである。植民地帝国は、どの国家も、植民地から地域エリートの子弟を集めて、本国のために働く地元エリートを養成する教育をしていたものである。それは日本も例外ではなかった。アメリカのフルブライト留学は、そうした性格をもった制度である。
 もちろん、中国のその学校について、私は詳しく知っているわけではないので、断定はできないが、少数民族の利益になっているのかどうかは、検討の余地があったはずであるということは、確実にいえる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です