「敵」は、主要な密偵の大滝の五郎蔵のお目見え話である。がっかりする話として紹介しているが、ミステリー的な話としてはよく出来ていて、とても面白い。あくまでも、長い「鬼平犯科帳」シリーズのなかに置かれたものとして、疑問点が多いという意味である。
話は、岸井左馬之助が、友人の招待でいった越後・塩沢からの帰りの山道で、二人が激しく争っている場面に出くわす。大男の大滝の五郎蔵に若者が挑んでいる。若者(与吉)は、五郎蔵が父の敵だと信じ込まされて、敵討ちにやってきたのである。しかも、ふたりはどうやら盗賊だと左馬之助は察するのだが、若者が、「自分は盗賊改めの狗だ」と名乗る(これははったりで事実ではない)ので、見捨てることができず、若者が殺害され、五郎蔵が急いで江戸に出発する前の盗人宿にもどっていくのをつけ、番人と話し込む内容まで盗み聞きしてしまう。そして、翌日は、五郎蔵を見張り、江戸までもどって、逗留先をつきとめて、すぐに平蔵に報告する。
他方五郎蔵は、新たな押し込みのために江戸にやってきたのだが、その仕事をそっちのけに、若者に嘘を吹き込んだと思われる人物小妻の伝八を懸命にさがすために、あちこちでかけていく。つてを頼って情報を集めるのだが、うまくいかず、逆に、江戸の盗人宿をまもっている手下が殺害されていたりする。そして、ついに、小妻の伝八を見つけたときには、手下のはずのものがすべて裏切っていて、伝八についており、危うく彼等に殺されそうになってしまう。しかし、実は、そうした動きをすべて追っていた長谷川平蔵たちによって、救われ、伝八を倒すことができる。そして、逮捕されたあと、役宅に連れて行かれるが、そこには、探索中にも世話になり、古くからの友人である舟形の宗平が既に捕まっている。宗平も伝八一味に襲われ、平蔵に救助されていたのである。そして、すぐに密偵になることを、平蔵から勧められ、既に宗平は承知しており、一緒に長谷川さまに尽くそうということになる。
こういう話である。だれが、与吉に嘘を吹き込んだのか、さまざまなつてに頼りながら、伝八をさがす五郎蔵、宗平との対話など、推理小説的な要素が折り込まれて読ませる。では何ががっかりすることなのか。
大滝の五郎蔵は、この後、常に、非常にりっぱな大盗賊であったとされ、あんなりっぱなお頭はいない、と現役の盗賊たちにも、尊敬されていることがわかる。ここの話でも、実直な人柄はよく出ている。しかし、なんといっても、盗賊として評価されているわりには、江戸に入ってからの行動が、いかにも大物らしくないのである。本当に信頼できる手下に、いきさつを話し、伝八をさがすのを手伝わせるはずである。しかし、もっとも信頼しているはずの盗人宿の老人にも、まったく話をすることなく、一人で探しあるいている。情報をいろいろ聞くために、人にあっているが、すべて一味の者ではなく、他の盗賊団に属しているものである。つまり、信頼あつい、尊敬される盗賊の親分という雰囲気ではないのだ。そして、結局、ほぼ確実に返り討ちにあって、殺されかける。しかも、そのとき、手下だった者の多くが、伝八の手下になっていたことに愕然としてしまうのである。そして、江戸に入る前から、左馬之助につけられていることに、まったく気づかず、伝八を探している間中、盗賊改めに見張られていることも、まったく気がつかない。これで大盗賊なのか?という疑義がおきてしまう。
第二に、平蔵が盗賊だった者を密偵にするのは、半年くらい牢にいれておき、あるいは石川島に無宿者として送り、じっくり人物を観察してから、説得をすることになっている。そして、そうして説得されても、すぐに承知するような者はあまりいない。彼等にとって狗になることは、もっとも軽蔑することとして、ずっと意識してきたからである。しかし、ここでは、捕らえたその日に、五郎蔵を平蔵は密偵になるように説得し、それに宗平が加勢する。宗平も、捕まって2日間しか経っていないのである。いくら、密偵デビューのための章だとしても、これではあまりに端折りすぎであろう。
第三に、ここの章のなかのことではないが、伝八に寝返ったり、もともとの伝八の手下たちは、4人がその場で切られたが、他に多数の者が残っているはずであり、また、宗平の仲間たちも、突然宗平が消えてしまったことに当惑したとしても、一味が捕まったわけではない。にもかかわらず、五郎蔵は、すぐに、密偵としての仕事をするために、牢破りをするという形で外での活動に入るのである。とすれば、かつての仲間たちはたくさんいるはずであって、しかも、五郎蔵を裏切った元手下にあえば、密偵になったことを知られていなくても、極めて危険なことになる。しかし、ずっと、五郎蔵は、密偵になったことは、盗賊たちには知られていないはずである、などと思って、平気で活動しているし、その点での配慮を平蔵はしていない。
やはり、こうした点は、どうしても不満に思ってしまうのである。