オーソドックスな舞台のフィガロ

 久しぶりにオペラの全曲を聴いた。といっても、3日がかりだったが。「フィガロの結婚」だが、映像としては非常に古く1973年のグラインドボーンのライブである。特に女性の主な役が、豪華で、この当時はまだ新人の域を少し出た程度だったが、のちには、同じ役で大指揮者と何度も共演しているメンバーである。スザンナのイレアナ・コトルバス、ロジーナのキリテ・カナワ、ケルビーノのフレデリカ・フォン・シュターデというキャストだ。他の女性役マルチェリーナやバルバリーナもすばらしい。男性陣は、少なくとも私は知らないのだが、女性陣たちに負けているわけではなく、いずれもすばらしいできだ。舞台が小さいので、余裕をもって歌えることもいい影響となっていたかも知れない。HMVでは残念ながら、購入不可になっているが、希望者はかなり登録されていた。フィガロ演奏のひとつの模範ではないかと思う。プリッチャードの指揮も、特別個性的なわけではないが、非常に自然なテンポで気持ちがよい。

 
 私にとって、フィガロの映像のベストは、アバド指揮のウィーン・フィル盤だが、LDで発売されたきり、DVD、BDとしては発売されていない。アバドは死後もあれだけ大量のボックスが発売されているのに、なぜモーツァルトのオペラの映像はでないのだろうか。4大オペラすべてが映像で収録されているのだから、ぜひボックスで発売してほしいものだ。なかでもフィガロは決定的な名盤ともいえる。音楽のすばらしさはもちろん、前から知っていたが、舞台で演じられる歌劇としては、アバド盤で始めて、フィガロという演劇の意味がわかった。それほどすばらしい演出だった。ミラー演出で、日本公演でも行われ、私も実際に視聴することができた。ミラー演出はメータ指揮でもでているのだが、演奏がアバドほどすばらしいとは思えないので、購入していない。
 モーツァルトのオペラも、いわゆる現代風の演出が多くなっていて、私ははっきり嫌いなので、繰り返し視聴する気がおきないのだが(たとえば、アーノンクール指揮、ネトレプコ出演のザルツブルグ音楽祭の公演)、アバドの演奏は何度も聴いた。LDの機械が壊れてしまったので最近は聴けないのが残念だ。
 フィガロの結婚は、4幕構成だが、ミラーは2幕ものとして処理している。当時のオペラは、1日の間のできごととしてまとめられ、原則2幕なので、これは、当時の慣習を考えれば、充分に納得がいく。しかも、効果的なのだ。回転舞台を活用して、通常の1幕が終わると、舞台が回転しながら、フィガロの新婚用の部屋から、フィガロとスザンナがあるいて、伯爵夫人の部屋に移動して、そのまま2幕に移る形になっている。そして、3幕と4幕も同様なやり方で、伯爵邸から回転後屋敷の庭園に移る仕掛けである。いままで、どうにもおかしいと思っていたバルバリーナのピン探しの場面が、はじめてミラー演出で合理的に解決されて、自然に思われたものだ。つまり、3幕でスザンナが伯爵にわたした手紙についたピンを、伯爵が落としてしまい、それをバルバリーナが探しているのが4幕の冒頭になる。しかし、通常は4幕はまっくらな庭園なので、ピンなどさがせるはずがないわけだ。それがミラー演出だと、屋敷の玄関にあたるところで、バルバリーナが探していて、そこには当然屋敷の明かりがもれているので、探して見つけるのも不自然ではない。そのあとで、バルバリーナが庭園のほうに歩いていくのだが、そのとき舞台が回転して庭園となる。ここは、何度もないような場面なのだが、ずっと不自然だと思っていたのが、始めて納得いく処理だったので、ミラーに感心したわけだ。尚演奏もすばらしく、CDよりはずっとよい。やはりライブのいきいきした感じがよくでている。劇場も国立歌劇場ではなく、アン・デア・ウィーン劇場で、すこし小さいのも幸いしているように思う。
 
 さて、グラインドボーン盤だ。
 まず演出は、おそらく、台本に書かれていることに、忠実に従った演出ではないかと思わせる。そして、舞台も、当時の王侯貴族の部屋の感じがよくでている。何度かヨーロッパの宮殿を見学して、居室などをみたが、たしかにここで設定されているような部屋なのだ。たとえばばらの騎士などで設定されている豪華な元帥夫人の部屋は、少々現実ばなれしており、実際には、もっと小ぶりだった。シェーンブルン宮殿やベルサイユ宮殿でも、あまり変らなかったように思う。まず舞台にリアリティがあり、演技も音楽にそっている。アーノンクール盤では、伯爵が入ってきたときに、ケルビーノが隠れる場面があるが、原作では椅子に隠れるのに、窓のカーテンに隠れるのである。しかし、あとで見つかって、どこに隠れていたのだ、と伯爵に聞かれて、椅子に隠れていたと答える。舞台ではカーテンに隠れていたのに。そういうのを見せられると、モーツァルトへの冒瀆だと思わざるをえない。しかし、このグラインドボーン盤には、そうした奇妙変更はまずみられない。もっと、小さな変更はある。
 ケルビーノとスザンナが隠れているのを交代したあと、伯爵と夫人が部屋にもどってきて、あいかわらず言い争いをしたあと、結局伯爵がごういんにクローゼットの扉をあけると、スザンナがいたという、もっとも笑わせる場面だが、ここでは、スザンナが自分で出てくることになっている。こうした変更は、別に原作の趣旨を変えてしまったようなものではなく、より劇的効果を高める面もあり、台詞上の不自然さを生むことはないから、納得のいく変更だ。アバド盤でもスザンナが自分ででてきたと思うが、モーツァルトの音楽は、あきらかに伯爵が扉をあけると、そこにスザンナが立っていた、という想定で作られているから、私はやはり、音楽に忠実であってほしいとは思うのだが。
 
 3幕までは、音楽で充分に場面の想像がつくが、4幕は、暗いなかで、お互いにだましあったり、誤解する場面なので、やはり、実際の人物の動きをみながら音楽をきかないと、面白さが半減する。ただ、この場面は、スザンナと伯爵夫人がいれかわって、伯爵をだますわけだが、コトルバスは非常に小柄で、カナワは大柄だから、この二人だと、伯爵をだますのはまず無理だろう。理想的には、同じような体型であることが望ましいが、そこはオペラ歌手は多数いるわけではないので、仕方ないところか。
 フィガロの音楽的白眉は、やはり、最後に伯爵が許しを請い,夫人が許す場面だろうが、ここではとくにキリテ・カナワの許しの歌が、本当に感動的だった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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