文科省が大学再編・統合の方針?

 文科省が少子化に伴う大学入学者の減少という事態にたいして、再編・統合をうながす議論を進めるように、中教審に諮問したと報道されている。「文科相、大学の再編・統合を中教審に諮問 入学者数の減少見据え」(毎日新聞)
 18歳人口は22年で112万、それが40年には82万になるのだそうだ。進学率の上昇や留学生の受け入れが進んだとしても、その間12万5000人減って51万人になるという予想だ。

 これまでも文科省は、進学者数の減少にたいしての方策が必要であることを公表してきたが、実際の具体的対応策を打ち出してはいなかったはずである。掛け声だけという感じだった。その証拠に、21世紀にはいってすぐに、大学全入時代(定員のほうが応募者より多い現象)に突入していたのに、新規大学の認可はけっこうあったわけである。加計問題であきらかになったことのひとつに、文科省は大学の新増設に関して、特別の分野以外は認めず、とくに、ある分野についてはかたくなに新学部や新大学を認めてこなかったことがわかる。つまり、多すぎることにたいして、非常に神経質な対応をしていたのにもかかわらず、大学そのものの増設は認めてきたということである。(大学の学科、学部、大学の新設・増設はすべて文科省の認可事項である)しかも、その認可規準を緩めてきたのである。その結果、私立大学の経営はますます苦しくなり、今や半数の私立大学が定員割れをおこしていると言われている。経営が苦しくなれば、不正なことも行われるようになりがちであり、実際に、大学における不祥事には事欠かないといえる。
 したがって、単に入学者が減少している大学をどうするのか、ということだけではなく、文科省の政策のきちんとした評価が必要なのである。
 
 まず、文科省がなぜ、大学の倒産をなんとしてもくい止めようとするのか。再編と統合に打開策を見出すのか。それは、もちろん文科省にきかないとわからないし、倒産することのマイナス面は明らかだから、倒産しないほうがいいに決まっている。しかし、弱小大学が倒産して、その大学の学生が、他の大学で引き受けられれば、少なくとも学生の不利益は最小限になる。だから、大学が倒産して困るのは教職員である。優秀な教員であれば、他大学に引き抜かれることもあるだろうが、昨今それもなかなか難しい。そして、全国の大学は、文科省だけではなく、官僚たちの天下り先として、もっとも大きなキャパシティをもっているひとつといえる。キャリア組の官僚であれば、官庁を問わずどのような分野でも、適合するするところに教授として転職することが可能だろうが、文科省の場合は、むしろ大学経営の理事や事務に天下る場合が多く、そういう意味で、大学が倒産してしまうと、天下り先が減少してしまうことになる。そして、実は、大学経営体として弱い大学ほど、文科省からの天下りを望む傾向があるといってもよいだろう。天下った大学が倒産しては、やはり文科省としてはこまるだろう。
 しかし、そのような理由で、大学の経営を助けることは、いいことなのか、大いに疑問である。
 一般的に官僚や役人の再就職は、当然必要だろうが、それは通常の転職とどうように、求職に対する応募で採用されるものにすべきで、天下りというシステムは、廃止すべきだろう。当然天下りのために設置している法人は、廃止すべきものである。
 
 さて、入学者の減少による大学の経営危機であるが、18歳人口にのみ目を向ければ、かなりの大学の倒産は避けられないが、なにも大学入学者を18歳に限定する必要はない。もちろん、ずっと前から大学は社会人入学という入り口を設けていたが、実際に日本社会では、働いている人が大学に在籍して学ぶことは難しかった。しかし、コロナによる大学のIT化の進展によって、かなり壁が取り払われたと考えることができる。実際にリアルタイムのオンライン授業だけではなく、録画をつかったオンデマンドでの聴講も含めれば、仕事をもった人でも、大学で学ぶことは可能になる。つまり、技術的には、社会人入学を可能にするシステムを構築可能になっているのである。
 しかし、やはり、いくつかの壁が考えられる。
 現在はかなり自由になっているかも知れないが、大学には必修科目があり、それが教室にいることが不可欠であるような授業の場合、社会人には履修が難しくなる。例えば、体育の授業などがそうだ。演習科目などは、オンデマンドであれば、週1の90分の演習参加については、法令で職場に許可することを義務づけるという形をとることで解決する。職場にいながら、演習に参加するわけだ。しかし、体育は、かなり難しいだろう。しかし、常々おもうのだが、なぜ大学の授業で体育が必要で、しかも、必修になっていることも少なくないのか。私の勤めていた大学では、体育が必修だった。そういう不合理はなくせばよい。もちろん、体育の授業はあっても、選択科目にすれば、とらなくても卒業資格をとれる。
 社会人にとっては、あるいは退職後の高齢者でも同じだが、通常の4年で卒業することは、なかなか難しい。始めから大卒の資格をとるために、必要単位を満たすにしても、当初から6年、あるいは7年計画をとった場合、日本の大学の授業料の仕組みでは、一年分を6回、7回支払う必要がある。これはかなりの負担となるだろう。したがって、やはり、申請単位数によって、授業料を決める方式にすべきであろう。(社会人限定でもいいのだが、やはり、すべての学生にとって、申請単位数で授業料を決めるほうが、経営側にも学生側にも合理性がある。)
 次の壁は、定員管理である。現在の大学にたいして、かなり厳格な定員管理があり、定員を一定割合以上超えてもいけないし、当然少なくてもいけない。そうした規定に反すると補助金をカットされることになる。長期間での卒業を前提とした社会人の入学を促進させようとすれば、そうした厳格な定員管理をされると、社会人を受け入れにくいことになってしまう。もっとも、これによって、経営危機を救いたいとおもう大学は、定員割れをしているわけだから、そういう大学にとっては、定員管理はあまり関係ないといえるのだが。
 欧米の大学には、社会人の学生が多数いることは周知のことである。日本もそうなる必要がある。それは新しいことを学ぶ社会人にとってもそうだし、社会人が入ることによって、教育の質が向上することは間違いない。私自身、何度もそういうことを経験した。
 18歳人口の減少による大学の危機は、社会人が学びやすい社会システム、教育システムをつくりあげることで乗り越えるべきなのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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