有名な道徳教材であり、私が学生の教育実習の研究授業で何度かみたものでもある。子どもたちも活発に意見をいえる一方、教師がどのようにまとめるのか、子どもたちの発達段階との兼ね合いで、けっこう難しい教材でもある。小学校で行われた研究授業で出た意見と、実際に大学生に概要を話してだしてもらった意見とは、かなりの隔たりがあった。コールバーグ理論のある意味、よい検証の材料にもなる教材である。
まずテキストを確認しておこう。(次の文章は、大阪府のホームページで公表されている資料から転記した。http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/9723/00000000/syougattkou2.pdf )
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スマホ規制 フランスとドイツの議論
子どもが使うデジタル機器の是非は、多くの国で議論になっているし、また様々な対応がなされている。しかし、国によって問題とする仕方は微妙に違うようだ。2月14日に、フランスの新聞フィガロが、この問題で特集を組み、いろいろな側面から検討をしている。また、16日には、ドイツの Der Tagesspiegelという新聞が、スマホを通じて子どもがポルノにアクセスすることを問題にした記事を掲載している。そこで、これらの記事を参照しながら考えてみたい。
フィガロの記事を読んで、最初に驚いたのは、フランス語では écranという語が使われており、スクリーンや画面という意味だが、これが、スマホだけではなく、タブレット、テレビゲーム、テレビ、パソコンなどを総称して課題にしていることである。因みに日本の「対策」をインターネットで検索すると、ほとんどがスマホのフィルタリングに関するもので、しかも、企業のアプリの宣伝が大部分である。タブレットなどが問題となっている雰囲気ではないが、フランスでは、言葉の問題だけではなく、総体として話題になっている。(日本語で似た使い方をしている語としては、ディスプレイだろうか。しかし、 écranという言葉では、画面そのものではく、画面をもった機具を指しているので、ここでは、 écranをそのまま使用する。)
“スマホ規制 フランスとドイツの議論” の続きを読む教育行政学ノート(2)子どもは何故学校にいくのか
教育行政学は、通常、義務教育、あるいは「教育権」から入る。しかし、教育学としての教育行政学の構想のために、もうひとつ前の問いから入ろう。義務教育とか、教育権という概念は、やはり、教育の外からみている、あるいは外部的存在である。そこで、問いは次のようになる。
Q 我々は、子どもたちは、何故学校に行くのか? 現在の大きな学校教育上の問題である「不登校」を考察するとき、「何故学校に行かないのか」「何故学校に行けないのか」という問いをたてて、答えを見いだそうとする。しかし、不登校は、通常前の段階とて登校していた事実がある。学校に行っていたのに、行かなくなる、あるいは行けなくなるわけである。したがって、まずは、学校に行っていた時期の「行っていた理由」をきちんと理解しておくことが必要だろう。不登校は、その「学校に行っていた理由」が揺らいだ、あるいは消えてしまったが、その原因であると考えられる。
“教育行政学ノート(2)子どもは何故学校にいくのか” の続きを読むイギリスの若者がメンタルヘルスの改善を求めて活動
イギリスの10代の若者たちが、グループを作って、メンタル・ヘルスを必要としている若者へのサポートを、確実に実行させるための働きかけをしたという記事の紹介です。Mental health The students who helped themselves when support was too slow comingというThe Guardian2019.2.12の記事で、作者はLouise Tickleです。
イギリス全土かどうかはわかりませんが、ここで紹介されている地域は、Cumbriaという地方で、元々医療・福祉体制が遅れていると思われます。イギリスに限らず、先進国のほとんどでは、若者たちは、試験競争にさらされ、常に誰かと比較され、いい評価をえないと上級への進学に不利になり、人生そのものがやりにくくなるというストレスをかかえながら生きることを余儀なくされます。もちろん、そのことによって、誰もが精神的な疾患をかかえるわけではありませんが、どこでもサポートを必要とする若者が増加しています。それだけではなく、この記事では、治療を申請したのに、ウェイティング・リストに載せられて、3カ月も待たされ、そのうちに、すっかり参ってしまった若者が紹介されています。彼女はそのために学校にいくことができなくなりました。いろいろなことを真剣に受けとめながら生活していれば、誰でもそうした危機に陥る危険があると、彼女は述べています。
そんななかで、何人かの若者が集まって、We Willというグループを作り、精神的な問題を抱えている若者に、サポートをするように働きかける活動を始めます。集会を開き、そこで強調されたことは、今の若者が生きている世の中は、古い世代が若者だったときとは違うのだ、ということです。まずは試験の圧力、そして、ソーシャル・メディアの中毒的な関わりからくるストレスです。
“イギリスの若者がメンタルヘルスの改善を求めて活動” の続きを読むクラウディオ・アバドのボックス
2014年になくなったアバドは、現代最高の指揮者の一人であったし、私のもっとも好きな指揮者の一人だった。自分で勝った初めてのオペラのレコードが、アバドの「セビリアの理髪師」だったが、すべてとはいえないが、かなりのCDを所有している。交響曲ボックス、オペラボックス、ソニーのボックス、そしてDVDボックス(25枚組)である。新しく購入したオペラボックスとDVDボックスについて、感想を書いておきたい。
“クラウディオ・アバドのボックス” の続きを読む空き家のようになってしまいましたが
私も本当は定年の年齢になりました。尤も、教員免許の課程申請の関係で、もう一年勤めなければならないことになったのですが、いよいよ定年後にむけて、どのように活動していくかを、真剣に考えなければならないようになりました。そこで、ひとつが、ブログを再開しようかと思っています。もちろん、もうひとつ、主要なブログをもっていて、そちらで普段は活動しているのですが、定年後は、違う形での情報発信をしていこうと考えており、それには、wordpressを使うのがいいようなので、少しここで肩慣らしをしようと考えたわけです。
夏休みに行ったこと「他国の教育・特別活動についてーフィンランドー」
Ⅰはじめに
学校の教育の現場において特別活動は、「よりよい人間関係の形成」を育てる授業としてなくてはならない教科の一つであると言える。また、その内容が道徳と結びついている。特別活動と道徳が深く密接している点として、「総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育と密接に関連を図りながら、計画的、発展的な指導によってこれを補充、深化、総合し、道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め、道徳的実践力を育成するもの」という目標からも見られる。つまり日本においては、道徳の時間などに、資料や読み物を通して考えてたり話し合ったりしたことを、特別活動の学級活動や集団活動で実践して振り返り、「なすことにより学ぶ」道筋が成り立っていることがわかる。
では、外国ではこのような特別活動・道徳の取り組み、指導方法はどういったものだろうか。日本を基準として示唆していこうと考える。
Ⅱ研究内容
主に、教育の先進国といえる「フィンランド」に注目し、日本の特別活動の目標や内容などを比較、考察する。
なお、上記に挙げたフィンランドは「OECD学習到達度調査(PISA)」という国際的な生徒の学習到達度調査のことで、主に「数学的リテラシー」「読解力」「科学的リテラシー」によるテストの結果が平均的に高かったため、取り上げることとした。
日本におけるPISAの順位は2012年度において「数学的リテラシー」…7位、「読解力」…4位、「科学的リテラシー」…4位であった。
Ⅲ研究結果
まず、フィンランドの国を挙げての教育に対する考え方に注目する。フィンランドは7歳〜16歳までが義務教育であり、授業料、通学時の交通機関、給食、教科書や学用品等が全て無償化されている。また、学級は20人以下でPISAを実施した国々の中で最も年間の授業数が少ない。すべての教師を大学院で養成し修士号取得を義務とし優秀な人材が集まるため、社会的地位・信頼が高い。このように大学院での教師を専門とした養成をおこなっているのはヨーロッパの中でフィンランドのみである。
教育の理念としては、「社会主義的学習概念」をあげている。つまり、知識を教え込むのみならず、その知識を自分のものとし、社会進出時にどのように生かすか、使いこなせるか、自ら追求していく教育を行っていることが考えられる。
結果的に述べると、フィンランドには「特別活動」という授業は存在しない。しかし、「アヤトゥス・カルタ」という「マインドマップ形式」のノート手法が国語の授業で取り上げられていた。マインドマップ形式とは、連想ゲームのようにあるメインテーマから考えられる事柄を次々と地図のように書き足していく脳の思考を引き出す技法である。これにより、思考が整理され、記憶力が高まることはもちろん、「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」「コミュニケーション力」が飛躍的に向上するという。このマインドマップにより、子供達の「道徳的価値」が養われているのではないかと感じた。
Ⅳまとめ
今回はフィンランドに注目したが「特別活動」における資料が僅少であり、まだまだ研究の余地があった。しかし、教育に対する理念や考え方などを知るきっかけにもなり、多くの学びがあった。さらにフィンランドの教育について研究していくとともに、他国における「特別活動」の指導法についても取り上げていきたいと考える。
Ⅴ引用文献
阿部 敬信(2015),「小学校の教育課程における特別活動の意義と課題」別府大学短期大学部紀要
秋山 麗子(2014),「特別活動を中心にした小学校の学級集団形成に関する研究」関西学院大学教育学論究
トニー・ブザン著・近田美季子監訳(2008),「マインドマップ超入門」ディスカバー・トゥィワン
藤村宜之、鈴木豪(2015)「フィンランドの児童の思考に影響を及ぼす環境要因の検討 : フィンランドの教師の授業観の分析」東京大学大学院教育学研究科紀要
米澤 利明(2010)「求められる学力と教員養成―フィンランドとの比較を通して―」教育デザイン研究
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/detail/1344310.htm
https://www.tfu.ac.jp/liaison/edu/navi_PDF/navi06-03.pdf
http://www.ne.jp/asahi/harmas/biocosmos/finland.html
春学期行ったこと「特別活動について」
「環境としての人間」というゼミテーマのもと、「学級・授業」というグループ内で研究を進めることにした。
ゼミ開始当初は、児童ひとりひとりの能力の差が激しく現れる「体育」や、近年苦手意識が高い児童が多いとされる「理科」などといった教科に注目し、「授業の良し悪し(環境)により、子供一人一人の能力向上にどのような変化があるのか」、「子供一人一人が持っている能力の最大限を引き出すために、教師はどのような授業を行っていくべきか」を研究テーマとして掲げた。
そこで「学級・授業」グループにおいて、上記に挙げた「能力の上がる授業作り」について議論を行った。その結果から、それぞれの教科で「苦手」という意識を持たせないことが大切であり、児童が興味を持つような授業を行っていく必要があると考えた。そのためには「クラスには得意な子と苦手な子の差」があるということを把握し、クラスを幅広く見渡しながら授業を進めなければならないことを再認識し、まずは児童ひとりひとりの個性や能力を理解するべく「クラスの学級づくり」に目を向けた。
学校にいる間のほとんどの時間を占める授業は常に子供との意思疎通で成り立つ。その授業を充実させるために、子供同士の人間関係、グループ性を把握しきれていれば、アドバイスやよい計らいを促すことができる。また、困ったことがあればよき理解者にもなれる。クラス全体を見渡し、顔色の変化、子供達どうしの歪を見逃さないようにすれば、いじめも防ぐことができると考えられる。
このように日々担任としてクラスを見ていく中では、多くの発見がある。同時に、担任として児童を正さねばならない場面に遭遇することも少なくない。このように、学校や学級における問題改善のための基盤としての生徒指導の場が「特別活動」の場であるのではないかと考えた。
特別活動とは、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の教育課程に設けられた領域の一つであり、学校教育法施行規則第50条においては「小学校の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭及び体育の各教科、道徳、外国語活動、総合的な学習の時間並びに特別活動によって編成するものである」と定められている。特別活動は、各教科に肩を並べ、小学校の教育課程を編成する大きな役割があり、重要な教育であることが分かる。
特別活動の主な目標は、「望ましい集団活動を通して、自主的・実践的な態度を育成するとともに、自己の生き方を深め、自己を生かす能力を養うこと」と学習指導要領にはある。
しかし、特別活動には、「学習指導要領において学習活動の内容の指示だけにとどまり、子供達自身の能力目標があいまいであること」「指導にあたっての教科書がない」といったことが課題として指摘されている。また、「授業計画が学級担任の裁量に任されているため、各教科の時間確保が優先される」ことも問題とされている。
「子供の成長に役立つような、よりよい人間関係を構築するための特別活動のあり方」「教師は各教科の指導力のみではく、特別活動の役割を踏まえ授業をどのように組み立てていくべきか」をテーマに研究を進める。その根本的な知識として特別活動のそれぞれの区分、「学級活動」「児童会活動」「クラブ活動」「学校行事」における目標と内容を以下にまとめる。
学級活動は、「学級活動を通して,望ましい人間関係を形成し,集団の一員として学級や学校におけるよりよい生活づくりに参画し,諸問題を解決しようとする自主的,実践的な態度や健全な生活態度を育てる。」ことを目標としている。内容は学級を単位とし、仲間同士で協力・信頼し合い、豊かな学校生活を送るとともに、日常の生活や学習に自主的に取り組もうとする態度の向上に資する活動を行うことである。
児童会活動は、「児童会活動を通して,望ましい人間関係を形成し,集団の一員としてよりよい学校生活づくりに参画し,協力して諸問題を解決しようとする自主的,実践的な態度を育てる。」ことを目標としている。内容は学校の全児童をもって組織する児童会において,学校生活の充実と向上を図る活動を行うこととされる。
クラブ活動は「クラブ活動を通して,望ましい人間関係を形成し,個性の伸長を図り,集団の一員として協力してよりよいクラブづくりに参画しようとする自主的,実践的な態度を育てる。」ことを目標としている。その内容は、学年や学級の所属を離れ,主に第4学年以上の同好の児童をもって組織するクラブにおいて,異年齢集団の交流を深め,共通の興味・関心を追求する活動を行うことである。
学校行事は「学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。」という目標が掲げられている。内容としては、全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこととされる(文部科学省ホームページより一部参照)。
特に、「人間関係」の形成を図るために指導していかなければならない「学級活動」においては、「学級活動で学んだことを各教科等や朝の会等の他の教育活動で定着を図ること」「学級活動の授業の終末における振り返りの充実」「学級活動の授業に対して児童が意欲的に取り組めるように学級集団の状態に応じた工夫を行うこと」が重要な点として挙げられる。
以上が春学期期間で学習した結果である。
【環境としての人間】「スクールカースト」~夏休み行ったこと~
この夏休みは春学期の続きとして「スクールカースト」をいかにしたらなくすことができるかを出発点として始めた。
どうしたらなくせるのか考えるにあたって私は、スクールカーストの根本にある各個人の値踏みの思考(この人間はこの程度の人間だろうから私のほうが高い、あるいは低いと思考)が「どうして無意識のうちに人間間で行われてしまうのか」を解明しないと示しがつかないのではないかという見地に至った。
そこで、太田先生の勧めもあり、中根千枝さん著の「タテ社会の人間関係~単一社会の理論~」も研究文献に加えることにした。
なぜ人は無意識のうちに値踏みを行い、人間間で優劣関係を見出そうとするのか。簡単に言ってしまえば、現在の日本社会が序列主義を重んじて成長してきた経緯があるからだと推測できよう。終身雇用、そして人間平等主義が蔓延する中で人は必ず順序の中で自分の社会的地位を気にしながら育ってきたとされる。例えば、会社の役職や給料は能力の高いものから充てられるので序列にしたがったものである。つまり、“できる”人間が偉いポストにつき、いい給与を得る。逆に“できない”人間は序列関係では下なのである。しかし、必ずしもそうでない場合も多々あるが、一般的な傾向はそうである。
しかし、現在はハイパーメリトクラシーの時代であり様々な能力が求められるようになった。文部科学省が推奨する「生きる力」の育成なんかもこうした流れを受けていると考えられる。また今はこれといって何かしていればいいという正しい生き方もなく、序列に対する意識が戦後と比べて変わってきたのは確かである。
しかし、序列の構図が少なからず、今現在の社会に根強く残っていることは否定できないだろう。スクールカーストの背景にはこうした序列の構図があり、学校「スクール」に浸透してきたということであると推測できる。だとすると、この社会で生きる人間は値踏みという行為を必然的に行ってしまうのではないかと考えられる。また、なぜ今になってスクールにこうした序列構図が浸透してきたのかという疑問もある。
このように考えると、スクールカーストのような状況が叫ばれるようになったのは必然的であるとも考えられる。よって私は社会の在り方を変えることを前提にしなければ、スクールカーストをなくすということは難しいという見解に至った。
といってもスクールカーストがいじめの温床になっていること、それに加え、各個人の将来性が左右されてしまう現状があるのである。この現状を「しかたない、そういうものだ」として手を打たないのは学校教育を考える上では望ましいことではないだろう。
したがって私はスクールカーストをなくすことは現実的に難しいとしても緩和することは出来ないかを模索したい。
そこで緩和策として太田先生からお借りした津田 八洲男さん著の「5組の旗」という本を研究文献の一つに加えた。この本は生活綴り方教育として津田さんが行った教育とその学級記録が鮮明に載っている。生活を綴らせることで自分の気持ちを改めさせるということである。また、相手の様子を綴ることによって相手に対する思いやりの気持ちを深め、絆ある学級にしたという。こうした試みがスクールカーストの緩和につながるのではないかと推測したい。
スクールカーストというと、どうしても人をマイナスの面で捉えたり、人に対しての偏見や上辺だけでの関係が多いのではないかと思う。
こうなってしまった要因の一つには電子機器の急速な発展を受け、文字を書くことが減ってしまったということが考えられないだろうか。
つまり、スクールカーストのような状況が問題視される以前の状況に比べて、相手のことを思いやり、生活にその様子を綴るという事が減ってしまったのではないかという事である。
こうした視点を夏休み期間に得られることが出来た。秋学期のインタビューでは生活で綴ることがスクールカースト緩和に繋がるのかどうかを文献やインタビューを通して研究を進めていきたい。
また、この夏休みには大学生だけでなく大学教員の方にもインタビューすることが出来た。その先生とのインタビューの中で新たなヒントを得ることが出来た。
○インタビュー内容
・先生の学生時代スクールカーストと呼ばれる現象はありましたか?
・はい、ありましたよ。比較的に偏差値は高いところでしたが、当時高校では先生や周りからちやほやされている人気者がいました。人気者の発言には重みがあり、皆は否応なく聞き入れましたね、僕は嫌だと感じませんでしたが、中には嫌だと感じる人はいたかっもしれませんね。
・スクールカーストはやはり望ましいことではないと先生もお考えになっているようですがどうしたらなくすことが出来ると思いますか。
・完全になくすというのは難しいと思いますよ。それこそ学校でのクラス制を廃止するとか思い切ったことをしなくてはならないとおもいます。中学や高校から単位制の導入をしてクラス単位でも行動を減らすというのも一つの手かもしれませんね。ただし、クラス制廃止が果たして本当に良いことなのか否かは別に問われる問題かと思います。僕個人としての考えはスクールカーストという権力構図を上手い具合に活用すれば少しは和らぐのではないかと思います。
・具体的にはどういうことですか。
・例えば、数学の得意な子がいたら、数学の時間はその子が輝けるように、みんなが各個人の得意分野を理解し合えるような関係を作るという事です。理科の時間でしたら、理科博士はあの子だというような感じです。
・なるほど、各々の長所が共有できるクラスを作ることは大事な視点かもしれませんね。ありがとうございます。
・ですが、それでも外見や雰囲気でなんとなく判断してしまうのは子どもなら多いと思います。完全になくすことは子どもの価値観を変えていくことが大事なのかもしれませんね。
といったようなインタビュー内容であった。このようにスクールカーストを緩和する策として糸口が開けた気がする。
秋学期からクラス運営にも視点をもって大学生にインタビューしていきたい。そして秋学期からは補助教員ボランティアが始まるので補助教先の学校の先生方にもインタビューをしたいと考えている。
夏休み行ったことは以上です。
夏休み中に進めたこと 子どもの遊び 「遊びとは何か」 遊びの分類
・夏休みに進めたこと
まずは「遊び」とは何かということについて考えることにした。はじめに、遊びの定義を唱えているとして有名な、ホイジンガとカイヨワの学説を整理してみた。
ヨハン・ホイジンガは、著書の『ホモ・ルーデンス』の中で、「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』をという意識に裏づけられている。」と述べている。
一方でロジェ・カイヨワも、その著書である『遊びと人間』において、ヨハン・ホイジンガとほぼ同様に、遊びについて以下の6つの特徴を挙げている。
1.自由な活動;すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2. 隔離された活動;あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3.未確定の活動;ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者側に残されていなくてはならない。
4.非生産的活動;財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5.規則のある活動;約束事に従う活動。この約束事は通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
6.虚構の活動;日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
ホイジンガの定義からは、遊びはやはり特定の時間、空間の範囲内で行われるということ、自発的な行為であること、遊びの中には規則があるということ、遊びの目的は行為そのものにあり、緊張と歓びの感情を伴うということがわかる。カイヨワの定義からは、自由・隔離・未確定・非生産的・規則的・虚構という特徴を示していることがわかる。カイヨワが挙げている6つの特徴のうち、自由と未確定・隔離・規則的・虚構の5つはホイジンガの定義とも一致する点があり、残りの非生産的という条件はカイヨワが新たに述べたものであるとわかった。
次に、遊びの種類・分類について考えた。ホイジンガは、遊びを競争と演技(表現)に分けたことに対し、カイヨワはアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(めまい)の4つに分類した。ホイジンガについて、競争とはかけっこや球技遊全般を指し、演技(表現)とは工作やダンス、楽器演奏などを指す。カイヨワは、それに付け加えるように分類を増やしている。アゴン(競争)は取っ組み合いやかけっこ・おにごっこ、剣玉・こま回し・お手玉・腕相撲、サッカー、野球、バスケなどの球技、将棋、チェス、囲碁などのボードゲームを指す。アレア(運)は、じゃんけん、すごろく、パチンコ、宝くじなどを指す。ミミクリ(模擬)は、まねっこ遊びを指し、ままごと・学校ごっこ、人形遊び、仮面・仮装・演劇などが含まれる。イリンクス(めまい)は、ぐるぐるまい、ブランコ、シーソー、メリーゴーランド、ダンス、スキー、スケート、バイクなどを指す。なお、実際の遊びでは、少なからず要素の複合がありうるとしている。例えばトランプ、麻雀などはアゴンとアレアの2つの側面があるということである。また現代社会では、イリンクスとミミクリは徐々に減退させ、アゴンとアレアの要素を優先させる必要があるとしている。それは、現代の社会が競争と運で動く社会であるからだ。さらにカイヨワは、遊びの発達水準の観点から、パイディア(即興的で気まぐれな遊び)とルドゥス(秩序の明確な遊び)の二極を設けた。これによると、カイヨワの4つの分類の1つ1つが、さらにこのパイディアとルドゥスに分けられる。
パイディア ルドゥス
アゴン けんか、取っ組み合い サッカー・野球
アレア (存在しない?) パチンコ
ミミクリ ごっこ遊び・演劇 工作・組み立て遊び
イリンクス サーカス (存在しない?)
そのほかに遊びを分類する基準として考えられるのは、遊びをする人数、空間、性別などであると考えられる。人数による分類は、一人遊び、平行遊び、役割遊び、集団遊びなどである。空間による分類は、外遊び、室内遊び、辻遊びである。性別による分類としては、例えば女の子が好きな遊びはおはじきやお手玉、男の子が好きな遊びはこま回しなどに分類される。しかし、これらの分類はどれも年齢が関係しているおり、年齢による変化も考慮する必要があると考えられる。
※平行遊び・・・同じ場所で同じ遊びをしていながらも、相互のかかわりを持たない状況のこと
※辻遊び・・・若者が夜、外に出て遊ぶこと
次に、ビューラー、パーテン、ピアジェによる遊びの分類について見ていきたい。まず、カール・ビューラーは遊びを、機能遊戯・想像遊戯・受容遊戯・構成遊戯の4つに分類した。
ビューラーの4分類
機能遊戯 感覚遊び、運動遊び
想像遊戯 ママゴト、ごっこ遊び
受容遊戯 絵本を読む、音楽を聴く、おとぎ話を聞く
構成遊戯 積み木、砂遊び、描画
機能遊戯とは、感覚遊びや運動遊びを指す。手や足で物に触れた時の重量感や平衡感覚、質感などの様々な感覚を楽しむものや、走る、飛ぶ、つかむなどのように自分の体の機能を使って楽しむものである。日本の幼稚園や小学校では、室内の遊具よりも園庭・校庭遊具が充実しているというスタイルが多いが、どちらも子どもの成長には重要であり、感覚遊びでは小さな筋肉(手先の器用さ)を、運動遊びでは大きな筋肉をバランスよく育むことができると考えられる。想像遊戯は、いわゆるごっこ遊びを指す。ごっこ遊びとはすなわち、ロールプレイであるため自分以外の人物や動物などのほかの生き物、物などの気持ちを理解することにつながると考えられる。特に子どもが、自分の親や様々な職業人といった役割を演じ、他人を疑似体験することによって自分とは別の視点で見方を理解しにつながる。また、友人や家族と一緒にごっこ遊びをすると、リアルな人間関係を通じて他人と玩具を分け合ったり、自分の要望を相手に伝えたり、逆に他人の要望を理解して優先させてあげたりするといった高度な社会性を育むことができ、コミュニケーション能力や問題解決能力の向上にもつながると考えられる。受容遊戯は手足や全身を使って積極的に遊ぶのではなく、絵本やテレビを見る、話しや音楽を聴くなど、受け身的なの遊びを指す。この遊びは、子どもの間接経験が豊かになり、自然に知識を身につけるという効果があると考えられる。構成遊戯とは、 何かを作る、組み立てる、壊すといった遊び指す。いろいろなものを組み立てたり、作り出したりするところに楽しみを感じ、積み木、絵をかく、ねんど細工、折り紙などの遊びを通し、創造的能力を養うことが出来ると考えられる。
ミルドレッド・パーテンは、子どもの遊びを専念しない行動、傍観者遊び、ひとり遊び、平行遊び、連合遊び、協同遊びというように、社会的参加度に着目して遊びを分類している。
パーテンの6分類
専念しない行動 何もせずにぶらぶらしている状態。ぼーっとしている状態。
傍観者遊び 他の子供の遊びを見ているだけの傍観の状態。観察する状態。
ひとり遊び 友だちと関わらずに一人だけで遊ぶ状態。
平行遊び 他の子供のそばで、友だちと関わらないが、友だちと同じように遊ぶ状態。互いがかかわり合わない。
連合遊び 他の子供とおもちゃのやりとりをして、同じようなおもちゃで遊ぶ状態。
協同遊び 共通の目標に向けて仲間関係が組織され、役割をそれぞれが持っている状態。力や知恵を合わせて協力をする。
そしてジャン・ピアジェは、認知発達理論に基づいて子どもの遊びを、実践的な遊び、シンボル的な遊び、規則遊びの3つに分類し、発達段階の中で順序に従った出現の仕方をすることを指摘した。
ピアジェの3分類
感覚運動遊び(実践的遊び) 感覚や運動の機能を働かせること自体に喜びを見出す。(感覚運動期)
象徴遊び(シンボル的な遊び) 現実を離れた想像による遊び。ごっこ遊び、空想遊び、模倣遊びなど。(前操作期)
規則遊び ルールのある遊びで、社会的遊びである。(具体的操作期以降) 競争遊びへの発展。象徴遊びと違い、必然的に社会的あるいは相互個人的関係を意味する。
参考文献
深谷昌志・深谷和子 『遊びと勉強 子どもはどう変わったか』 1976 中央公論社
深谷昌志・深谷和子 『子ども世界の遊びと流行』 1990 大日本図書
・インタビューについて
当初は夏休み中に遊びに関するインタビューを行うはずだった。しかし、春学期に行っていた調査について見方を修正しなければならなくなったため、それに応じてインタビューで何を調査すべきかを再度考え直したのだが、現時点ではインタビュー内容を決定するまでに至らなかった。よって、夏休み中はインタビューをしなかったので、もう少し研究を進め、再度内容を吟味してから改めてインタビューを行いたい。