教育行政学ノート(2)子どもは何故学校にいくのか

 教育行政学は、通常、義務教育、あるいは「教育権」から入る。しかし、教育学としての教育行政学の構想のために、もうひとつ前の問いから入ろう。義務教育とか、教育権という概念は、やはり、教育の外からみている、あるいは外部的存在である。そこで、問いは次のようになる。

Q 我々は、子どもたちは、何故学校に行くのか? 現在の大きな学校教育上の問題である「不登校」を考察するとき、「何故学校に行かないのか」「何故学校に行けないのか」という問いをたてて、答えを見いだそうとする。しかし、不登校は、通常前の段階とて登校していた事実がある。学校に行っていたのに、行かなくなる、あるいは行けなくなるわけである。したがって、まずは、学校に行っていた時期の「行っていた理由」をきちんと理解しておくことが必要だろう。不登校は、その「学校に行っていた理由」が揺らいだ、あるいは消えてしまったが、その原因であると考えられる。

 これまでの調査では、日本の子どもは、「学校が楽しい」と感じている者が多数で、楽しい理由は、「友人」との交流であるというのが、ほぼ定説となっている。学校の本来の目的である「勉強」が楽しいと感じている子どもは、極めて少ないことも、調査で常に明らかになっている。そもそも、義務教育である小学校や中学校で、勉強が楽しいので毎日通っている、という子どもの割合が高い国があるかは別として、日本での状況については、以下のことも考える必要がある。

 欧米では、学校は決して子ども時代に学ぶ唯一の組織ではなく、むしろ、学校外の学習機関が充実しており、義務的共通内容は学校で学ぶが、趣味に応じた学び(スポーツ・芸術等)は、学校外で主要になっているのが、多くの先進国の状況である。したがって、日本では学びの場が学校に集中している。もちろん、習い事や塾という、学校外での学習機関がたくさんあり、また日本の子どもたちは、そういうところで学んでいるという反論もあるだろう。しかし、日本の学校外での、子どもの学ぶ機関は、商業的に運営されていることが多く、月謝等も高額である。だから、学校と同じような友人が形成される機会は少ないと思われる。 では、学校外の勉強の場である「塾」には、何故通うのだろうか。

                                                         (平成20年8月 文部科学省調査) 

 やはり「勉強が好きだから」という理由は、小学校低学年でこそ多いが、急速に減少する。あいかわらず「友人に会えるから」という理由は多いが、「先生の教え方が分かりやすい」「学校で教えてくれないことを教えてくれる」という勉強に関わる回答が多くなっているのは注目される。簡単に決めつけることは避けねばならないが、「教え方が分かりやすい」「学校で教えてくれないこと」というのは、おそらく、問題の解き方に特化した教えに関係しているのではないだろうか。また、近年の学習塾は個別教授が多いので、自分のわからない、学びたいところに焦点をあてて学べることも大きいだろう。逆に、大人数で教えなければならない点、また、塾のように特定の教科に限定されない、多様なことを教えなければならない学校の困難さも浮き彫りになる。

Q 結局、勉強や学習が楽しくなることは、ありえないことなのか 学校にしても、塾にしても、結局、勉強本来の楽しさを求めて通うのではなく、勉強のためとはいえ、塾も狭い成績や受験のために通っていることは否定できない。塾で、勉強本来の楽しさを獲得することは、通常は無理だろう。可能だとしたら、それは学校においてである。

 では、学校で勉強は楽しいものだということを確信させるようなことは、不可能なのだろうか。

 私の一年生の「教育学か異論」は、最初にアメリカ・ボストンにあるサドベリバレイ校のビデオを見せてきた。この形態の学校は、既に日本にも数校存在するが、一切の強制がなく、登校したら、どのように過ごすかは自分で決め、何をしても自由である。 この映像をみると、多くの学生は、こんな学校に入ったら、自分はまったく勉強しなくなるのではないかと感じるようだ。これまでずっと試験などの強制で勉強してきたから、強制がなくなれば、勉強するはずがない。しかし、ここでふたつのことが思い出される必要がある。

 第一に、サドベリバレイでは、好きなこと、つまり遊びも一種の勉強だと考えられていること。設立者のダニエル・グリンバーグ氏は、「人は遊びのなかでたくさんのことを学んでいる」と言っている。遊びを徹底して行えば、様々なことを学ばなければ進めなくなる。そして、そういう学びは、好きなことをするためだから、まったく苦にならないし、かなり困難なことでも乗り越えようとする。

 第二に、「人間は好奇心をもつ動物である」というアリストテレスの考えと同様に、まわりの人たちがやっていることは、早い遅いの違いはあっても、必ずいつかは、誰もがそれをやろう、学ぼうという姿勢になっていくという確信である。

 逆に、人間は、強制されると、必要だと感じていることでも、やることに嫌気がさすことが少なくない。だから、本当に必要なことは、本人が自覚するまで待つのがよく、無理に外から強制しないほうが、最終的には効率的に学ぶことになるというわけである。

 実際にサドベリバレイ校の卒業生は、ほとんどが自分の希望する路を歩んでいるという。 このことを見れば、決して子どもたちは、勉強を好きになることはない、というのではなく、学校や教育のあり方によるのだと、ひとまず確認することができるだろう。

 もちろん、日本の学校制度のなかで、サドベリバレイのような教育ができるわけではない。しかし、だからといって、教育の原則を考える上では、無視せず、この視点もを捨てずに、学校制度や教育制度を、そして、教育行政のあり方を考えていくことにする。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。