イギリスの作曲家ハワード・グッドールの著書『音楽を変えた5つの発明』という本がある。クラシック音楽が発展した契機となった音楽上の「発明」が5つ記されている。
・記譜法
・歌劇(オペラ)
・平均律
・ピアノ
・録音技術
の5つである。このうち4つが、クラシック音楽が国際化した理由を明らかにしていると、私は思う。オペラは結果として、様々な形で存在している民族的「歌芝居」のなかで、国際化したのが、17世紀以降にヨーロッパで発展したオペラだけであるという、国際化の結果を示すものとして重要だが、それは別の機会に書くとして、ここでは残りの4つを取り上げてみたい。
記譜法1 多様な記譜法
私たちが、誰でも知っている五線譜という、音楽を記録する方式は、ヨーロッパだけで発達し、そして、楽譜の形として世界中で利用されている。もちろん、古今東西、五線譜とは異なる記譜法はいくらでもあるし、また現在でも使われていると思うが、普遍的に使用可能といえる記譜法は、五線譜のみである。
では、五線譜と他の記譜法は、何が違っているのか。
日本の鉦の楽譜をみてみよう。みればわかるように、音そのものを記しているのではなく、どこをどの強さで叩くかを記している。
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&id=9E9B0660453539B54C6BBC46123EAF90D12AB1FA&thid=OIP.S9J9j7Br6MyybTD4xjgoqQHaFF&mediaurl=http%3A%2F%2Fblogimg.goo.ne.jp%2Fuser_image%2F65%2Fc9%2F210eee75e40d55edc26547fd8af7c11f.jpg&exph=789&expw=1148&q=%e6%a5%bd%e8%ad%9c&selectedindex=189&ajaxhist=0&vt=0&eim=1,2,6&ccid=S9J9j7Br&simid=608004807551158906
尺八はどうか。
流儀によって、異なっている上に、現代では、五線譜の影響もあるということだが、比較的古い形の例である。
http://尺八.net/shaku_fu.html
琴はどうか。
http://koto-shami.info/koto-gakuhu.html
琴も流派によって異なる。私自身もよくわからないが、要するに、抑える絃と抑え方、弾く拍等が記され、時間的には縦に移動していく。
古い時代に使われた記譜は、五線譜やアラビア数字を使っているわけではないので、もっと現代人にはわかりにくいものである。
そして、いずれも、楽器を前提にしており、楽器の扱い方(どの穴を抑えるか、どの絃をどこで抑えるか等)を指定するのが、楽譜の役割となっている。楽器を伴奏として歌がつく場合には、歌詞の脇に上げ下げの記号がついていたり、あるいは、音名の脇に歌詞がついていたりする。しかし、厳密に音高を記しているわけではない。
記譜法2 何故五線譜ができたか
五線譜は、これらの記譜法と異なるのは、どのような楽器でも、また、歌であっても、そのまま使えることが、最も違う点である。日本の記譜法は、楽器ごとにそれぞれまったく異なる様式で記譜されていた。それは、楽器の操作方法を記しているのに対して、五線譜は、「音楽」そのものを記してある。その音楽を演奏するために、どのような指使いや抑える場所を示すことはなく、それらは楽器の演奏法を学ぶなかで修得するものとされる。つまり、楽器の制約から完全に自由になって、音楽のみを記すところに、五線譜の特徴があり、また、国際化した要因がある。
では、何故、ヨーロッパで「音楽を記す」譜面が登場したのか。
グッドールによれば、聖歌隊の練習の必要からだという。
ヨーロッパではルネサンス以降、大きな教会が建設されるようになり、それとともに、教会で聖歌が歌われるようになる。聖歌隊が組織され、大きな教会では、100名近くの聖歌隊になる。当初、そうした宗教音楽は、単旋律のグレゴリオ聖歌として、まず発展した。しかも、ある程度長い旋律をもっているために、聖歌隊全員が、正確に歌わないと、きちんとした音楽にならない。人数が少なければ、口伝えに教えて、みんなが揃うように練習すればよいが、大人数だと、極めて能率が悪くなる。もし楽器群であれば、日本の譜面のように、それぞれの楽器の操作法を記せばよいが、声は音楽そのものを記譜しなければ、譜面をみて音楽を再生することはできない。そこで、音楽自体を記す方法が求められたのである。
音楽の旋律は、音の高さと長さが示されれば、その音の連続として成立する。従って、音の高さを示す五線と、長さを示す音符を組み合わせることで、音楽そのものが表現されることになったのである。
私の知る限り、日本の歴史のなかで、聞かせる声の音楽で、50名以上で一切に、そろって歌われるような音楽は存在しなかったと思う。だから、ヨーロッパの聖歌隊の指導者が直面した状況は、経験したことがなかったろうし、だから、音楽そのものを記譜する必要が生じなかったのだろう。
記譜法3 五線譜は何をもたらしたか
五線譜は、文学や思想における「文字」にあたるものであり、文字が発明されることが文明に与えた影響を考えれば、音楽に与えた五線譜の影響の大きさはわかるだろう。グッドールのあげる5つの発明のなかでも、最も大きな変革要因になったのは、五線譜であることは間違いない。ではどのような影響をもたらしたのか。
1 歌やどんな楽器でも、正確に音楽を記録することができるようになったことである。このことは、直接その音楽を創作し、演奏したいた人たちとはまったく無関係な人たち、遠く離れた人たち、更にずっと後代の人たちにも、音楽を正確に伝えることができるようになったわけである。文字が発明されて、文学や思想が正確に伝達されるようになったことに相応する。それは楽譜が出版されることによって、更に拡大された。
2 楽譜が発明されるまでは、作曲した人が演奏し、あるいは一緒に演奏する人に、口伝えに指導していた、つまり、作曲と演奏は、不可分の関係だったのが、分離できるようになったことである。それによって、作曲が独自の作業になり、次第に複雑になっていく。単旋律から服旋律の音楽になり、器楽も楽器も増え、オーケストラの形まで展開していく。そういう音楽を作曲できるようになった。
私がもっているワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』というオペラのスコアは、電話帳なような大きな版で、650ページもある。ワーグナーが書いた音符は100万近くにもなるのではないか。このような作曲は、五線譜なしに不可能であることは自明だろう。
3 民間伝承の音楽を、記譜することによって、伝承されている空間から、世界に向けて知らせることが可能になる。19世紀後半以降は、こうして採譜された音楽をもとにして、新たな作曲の素材になって生まれ変わった名曲がたくさんある。リストのハンガリー狂詩曲、ブラームスのハンガリー舞曲等。
クラシック音楽とは、正確に記譜された音楽であるという定義を紹介したが、五線譜こそ、クラシック音楽を作り出した要素なのである