鬼平犯科帳1 笹やのお熊

 「鬼平犯科帳を見る」シリーズは、「笹やのお熊(小説では、「お熊と茂平」)」から入ることにした。
 通常、犯罪を扱うドラマでは、犯罪が進行し(あるいは最初に終わっており)、捜査を通じて事実を少しずつ究明していく形式をとる。しかし、この「笹やのお熊」では、当初犯罪が行われていたり、行われそうになっていたりしているわけでもないのに、長谷川平蔵がそれを疑い、様々な手をうつ。つまり、当初は平蔵の勘違いなのだが、途中から、盗賊のほうで盗みの可能性を見いだして、平蔵の錯覚が事実となっていくという、非常に珍しいあらすじ構成になっている。鬼平シリーズでも、このような展開は他に見られないと思う。
 またこの回では、江戸時代に関するふたつの興味深いことが展開に関わっている。
 ひとつは、当時の金融のあり方であり、またひとつは、火付け盗賊改め方の捜査方針に関わることである。これは、筋の中で触れる。

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道徳教育ノート 「手品師」2

  前回、「手品師」の文章そのものと、実習生の授業や大学生の意見をもとに考えてみたが、今回は、明治図書の『道徳教育』2013.3号で、手品師の特集を組んでいるので、それを参考にしながら、再度考えてみたい。
 この特集を読むまで、実は私自身誤解していたことがあった。それは「手品師」という文章が、原作は欧米で、日本語に翻訳したものを使っていたのかと思っていた。大道芸人の手品師などは、日本であまりみかけないし、また、大劇場での演技というのも、あまり聞かないからである。しかし、江橋照雄という、日本人の道徳教育の専門家が、道徳教材として創作した文章であることがわかった。『道徳教育』のこの特集号には、江橋照雄が作者としてきちんと記入された文章が掲載されているだけではなく、「手品師の履歴書-手品師のこれまでの人生を知る手がかりとして-」という、前史と「手品師に熱き思いを寄せて」という江橋氏の文章が載っている。このふたつの文章によって、「手品師」の内容そのものがよくわかり、作者の意図も理解できる。しかし、いくら作者であるといっても、既に書かれてかなり経過しているこの物語は、作者の意図を超えて、多様な解釈に委ねられているし、道徳教材としての賛否もまた活発に議論されている。始めて公開されたのが、1976年というから、既に40年以上経っているわけである。社会状況やそれに応じた子どもたちの意識にも大きな変化がある。そうした変化を無視して、作者の意図通りの授業をしても、心には訴えないと考えざるをえないのである。

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ベルギーの高校生が温暖化のデモ

 先日スウェーデンの新聞を読むまで、ベルギーの高校生が温暖化対策の生ぬるさに抗議して、毎週デモを組織していることを知らなかった。当初、環境問題に熱心なスウェーデンの高校生の話かと思って読み始めたのだが、実はベルギーのことだった。
 スウェーデンの新聞がとりあげているのは、単純な「ニュース」としてではなく、実はスウェーデン人の若い女性活動家Greta Thunbergを、デモの主催者が呼ぶことになっているからのようだ。2003年生まれのグレータは、オペラ歌手の母親と俳優の父から生まれたが、アスペルガーや緘黙症で、やがて不登校になる。他方環境汚染問題に先鋭な意識をもち、様々な活動を始め、外国でも演説にでかけたりして、今や若者の環境活動家として有名な存在である。彼女は、スウェーデンでも地球温暖化対策を訴えたデモを呼びかけている。そして、私が読んでいるスウェーデンの新聞Svenska Dagbladから、表彰されているのである。
 しかし、「 生徒たちの気候の抗議が、ベルギーの学校世界と政治を分断している Elevers klimatprotester splittrar skolvärlden och politiken i Belgien 2019.2.16」と題する記事は、ベルギーの高校生たちのデモに対して、全面的に肯定的な評価をしているわけではない。

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教育行政学ノート(3)国民が主人公である教育行政

 国民主権とは、国民が国政の主人公であるという意味である。しかし、ルソーが語ったという「選挙のときだけ主権者になる」という、主権者の実態を疑わせるような事態は、残念ながら普通にみられる。言葉として民主主義、国民主権をいっても、実際には国民のためではなく、一部の勢力のための政治が行われていることは、国民のために政治が行われていることよりも多いだろう。しかし、厳密に考えると、「国民」とは誰のことなのか、主権をもつとはどういうことなのか、非常に難しい論手がたくさんある。
 政治一般ではなく、教育行政学として、国民が主人公であるようなあり方を具体的に考察していきたい。
 教育行政は、法が、法律(国会による国全体の法)、条例(地方議会による当該地域に効力をもつ法)に分かれているように、国家機構のレベルに応じて、行政機構が存在する。
 国→文部科学省、都道府県→都道府県教育委員会、市町村→市町村教育委員会、学校→校長、(学校運営協議会)、学級→担任 教育行政が、教育組織の運営に関わる行為である以上、学級もその一種であることに変わりはない。

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道徳教材分析(1)手品師

有名な道徳教材であり、私が学生の教育実習の研究授業で何度かみたものでもある。子どもたちも活発に意見をいえる一方、教師がどのようにまとめるのか、子どもたちの発達段階との兼ね合いで、けっこう難しい教材でもある。小学校で行われた研究授業で出た意見と、実際に大学生に概要を話してだしてもらった意見とは、かなりの隔たりがあった。コールバーグ理論のある意味、よい検証の材料にもなる教材である。
 まずテキストを確認しておこう。(次の文章は、大阪府のホームページで公表されている資料から転記した。http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/9723/00000000/syougattkou2.pdf )

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スマホ規制 フランスとドイツの議論

 子どもが使うデジタル機器の是非は、多くの国で議論になっているし、また様々な対応がなされている。しかし、国によって問題とする仕方は微妙に違うようだ。2月14日に、フランスの新聞フィガロが、この問題で特集を組み、いろいろな側面から検討をしている。また、16日には、ドイツの Der Tagesspiegelという新聞が、スマホを通じて子どもがポルノにアクセスすることを問題にした記事を掲載している。そこで、これらの記事を参照しながら考えてみたい。

 フィガロの記事を読んで、最初に驚いたのは、フランス語では écranという語が使われており、スクリーンや画面という意味だが、これが、スマホだけではなく、タブレット、テレビゲーム、テレビ、パソコンなどを総称して課題にしていることである。因みに日本の「対策」をインターネットで検索すると、ほとんどがスマホのフィルタリングに関するもので、しかも、企業のアプリの宣伝が大部分である。タブレットなどが問題となっている雰囲気ではないが、フランスでは、言葉の問題だけではなく、総体として話題になっている。(日本語で似た使い方をしている語としては、ディスプレイだろうか。しかし、 écranという言葉では、画面そのものではく、画面をもった機具を指しているので、ここでは、 écranをそのまま使用する。)

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鬼平犯科帳ノート(1)はじめに

 いろいろな話題があっていいと思い、私がはまっているテレビドラマをふたつ、ひとつずつとりあげていくつもりだ。
 現在考えているのは、「鬼平犯科帳」と「Law & Order」のふたつだ。
 今回は「鬼平犯科帳を取り上げる理由とその魅力を書く。
 鬼平犯科帳は、1967年から1989年にかけて『オール読物』に連載された小説で、135話ある。文春文庫24冊で刊行されている。テレビでは4回ドラマ化されているが、最も多数の作品がドラマ化されて、また、作者の池波正太郎が気にいっていたのは、最後のフジテレビによる中村吉右衛門主演のものである。さらに、中村吉右衛門が主演のドラマは、おそらく時代劇のテレビドラマとしては、最高の質を誇っているように思う。原作も面白いが、ドラマは、原作を歪めない範囲で工夫を加えて、見るドラマとして非常に丁寧に作られている。

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教育行政学ノート(2)子どもは何故学校にいくのか

 教育行政学は、通常、義務教育、あるいは「教育権」から入る。しかし、教育学としての教育行政学の構想のために、もうひとつ前の問いから入ろう。義務教育とか、教育権という概念は、やはり、教育の外からみている、あるいは外部的存在である。そこで、問いは次のようになる。

Q 我々は、子どもたちは、何故学校に行くのか? 現在の大きな学校教育上の問題である「不登校」を考察するとき、「何故学校に行かないのか」「何故学校に行けないのか」という問いをたてて、答えを見いだそうとする。しかし、不登校は、通常前の段階とて登校していた事実がある。学校に行っていたのに、行かなくなる、あるいは行けなくなるわけである。したがって、まずは、学校に行っていた時期の「行っていた理由」をきちんと理解しておくことが必要だろう。不登校は、その「学校に行っていた理由」が揺らいだ、あるいは消えてしまったが、その原因であると考えられる。

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イギリスの若者がメンタルヘルスの改善を求めて活動

 イギリスの10代の若者たちが、グループを作って、メンタル・ヘルスを必要としている若者へのサポートを、確実に実行させるための働きかけをしたという記事の紹介です。Mental health The students who helped themselves when support was too slow comingというThe Guardian2019.2.12の記事で、作者はLouise Tickleです。

 イギリス全土かどうかはわかりませんが、ここで紹介されている地域は、Cumbriaという地方で、元々医療・福祉体制が遅れていると思われます。イギリスに限らず、先進国のほとんどでは、若者たちは、試験競争にさらされ、常に誰かと比較され、いい評価をえないと上級への進学に不利になり、人生そのものがやりにくくなるというストレスをかかえながら生きることを余儀なくされます。もちろん、そのことによって、誰もが精神的な疾患をかかえるわけではありませんが、どこでもサポートを必要とする若者が増加しています。それだけではなく、この記事では、治療を申請したのに、ウェイティング・リストに載せられて、3カ月も待たされ、そのうちに、すっかり参ってしまった若者が紹介されています。彼女はそのために学校にいくことができなくなりました。いろいろなことを真剣に受けとめながら生活していれば、誰でもそうした危機に陥る危険があると、彼女は述べています。

 そんななかで、何人かの若者が集まって、We Willというグループを作り、精神的な問題を抱えている若者に、サポートをするように働きかける活動を始めます。集会を開き、そこで強調されたことは、今の若者が生きている世の中は、古い世代が若者だったときとは違うのだ、ということです。まずは試験の圧力、そして、ソーシャル・メディアの中毒的な関わりからくるストレスです。

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教育行政学ノート(1)教育学と教育行政学

大学での講義は、新年度が最後になる。教育行政学も当然最後だが、テキストをかなり書き直したいと考え、ノートという形で書きためていきたい。最も、新年度には間に合わないので、これまでのテキストと併用する予定である。


1 教育行政学のように、ふたつの学問領域が併記されている場合、どちらの領域に属する学問なのかが問題となる。教育学として、行政分野を扱うのか、行政学の対象領域が教育であるのか。これは単なる言葉の遊びではなく、学問の性格を決めるほどの重要性をもっている。 教育学の分野として、行政の教育的あり方を追求する学問と考えるならば、制度としての教育、あるいは学校の管理・運営・行政が、教育者や学習者の活動を促進するようなあり方を考えることが課題となる。他方、行政学としての対象が教育であるならば、それぞれの対象の固有性よりは、行政としての効率性、有効性のありかたを課題とするだろう。 例をあげてその違いを考えてみよう。

Q1 教科書を選ぶのは誰がよいか。日々の教育計画を立案するのは誰がよいか。

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