教育行政学ノート(3)国民が主人公である教育行政

 国民主権とは、国民が国政の主人公であるという意味である。しかし、ルソーが語ったという「選挙のときだけ主権者になる」という、主権者の実態を疑わせるような事態は、残念ながら普通にみられる。言葉として民主主義、国民主権をいっても、実際には国民のためではなく、一部の勢力のための政治が行われていることは、国民のために政治が行われていることよりも多いだろう。しかし、厳密に考えると、「国民」とは誰のことなのか、主権をもつとはどういうことなのか、非常に難しい論手がたくさんある。
 政治一般ではなく、教育行政学として、国民が主人公であるようなあり方を具体的に考察していきたい。
 教育行政は、法が、法律(国会による国全体の法)、条例(地方議会による当該地域に効力をもつ法)に分かれているように、国家機構のレベルに応じて、行政機構が存在する。
 国→文部科学省、都道府県→都道府県教育委員会、市町村→市町村教育委員会、学校→校長、(学校運営協議会)、学級→担任 教育行政が、教育組織の運営に関わる行為である以上、学級もその一種であることに変わりはない。



Q1 教育という行為は、誰のためなのだろうか。
 この問いへの答えによって、誰が主人公なのか、主人公であるべきなのか、それはどういう組織形態かが変わってくる。
 学校教育に限定しても、決して、「子ども」だけが目的の対象とはいえない。
 子どもの教育に熱心な親が、何故子どもにそれほどの教育的情熱を感じ、時間や費用を惜しまないのか。それは単純に子どもへの愛情だけではなく、将来自分が引退したときに、子どもに世話してほしいという、ある意味実利的な目的もあると言われることが多い。つまり、子どもの教育は、将来の親としての自分に対する保険であることになる。(ただし、この点については、欧米のように、扶養義務を親が未成年の子どもに対してのみ負う義務と考えるか、あるいは日本のように、高齢になった親に対する子どもの義務と考えるかによって、意味が異なるかもしれない。高齢社会となっている日本では、この扶養義務と高齢者福祉がどのような関係になるのか、もっと議論がなされるべきだろう。)
 子どもが学校に通っていない地域住民にとって、学校教育は、彼ら自身にとっての「目的」があるのだろうか。近年の日本では、学校と地域の連携が強調されている。実際に、地域住民が学校に協力したり、あるいは逆に地域の行事に教師が協力したりしている。それが、本当に学校や地域住民の要求から生じているのか、あるいは、「連携」を政策としている行政によって、促されてのことなのか、検討する必要があるだろう。
 連携の組織的現れとして、「学校評議員」「学校運営協議会」という組織があり、そこに地域住民が参加することがある。しかし、こうした学校の運営に関与する組織は、それぞれの「代表」が参加するわけではなく、あくまでも校長や教育委員会が人選するものである。だから、地域住民が参加しても、「主人公」といえるかどうかは疑問である。
 ヨーロッパでは、学校の運営にかなり強く権限をもっている理事会があるが、そこには、親の代表(親の団体で選出される)や、中等教育以上では生徒代表もはいるが、地域住民の代表は通常入らない。つまり、ヨーロッパでは、学校教育の目的は、子どもをいれているわけではない地域住民は、とりあえず対象にはいっていないのである。
 では、地域連携が主張される日本では、子どもが学校にいない地域住民も、学校教育の目的対象なのだろうか。だとすれば、それはどのようなものなのだろうか。
 即物的には、学校が荒れているような状況は、その荒れは地域にも浸潤していくから、学校教育が円滑に進むように地域住民が協力していくことは、地域の安定にも寄与するといえる。しかし、それはあまりにネガティブなレベルの目的である。
 長野県の伊那小は、長く経験主義のプロジェクト学習を実行してきた。総合的学習のヒントになった実践と言われている。その実践には、地域住民からの大きな援助がある。例えば家畜や農地を貸し出して、牛や豚を世話する一年間のプロジェクトを実現させたり、あるいは、農地で農作業をやりつつ、収穫物をつかって、資金獲得に利用したりする。貸し出す農家も、かつては伊那小で学んだ経験があり、今度はそれを支える側になることによって、それを地域の財産として守っていこうという姿勢といえるだろうか。
 市町村、都道府県レベルの教育行政、つまり本格的な意味での教育行政では、教師や生徒だけではなく、住民が重要な意味をもってくる。文教政策に関わる首長、議員を住民が選挙で選ぶからであり、また、教育行政も生涯学習を対象とするようになるからである。ここでは、住民は自らが学習主体として、教育の目的の主体となり、「主人公」である。
 しかし、時代とともに、地方教育行政における住民の主権的位置は低下してきた。
 戦後「教育委員会」ができたときには、公選であった。住民が自ら教育委員を選出したのである。しかし、2,3回選挙が行われたあと、「任命制度」に代わり、首長が議会の承認をえて任命する形になった。そして、いじめ・不登校などの学校教育の問題が社会的に注目されるまでは、教育委員会は事実上機能不全に陥っていたといえる。部屋や椅子・机もなく、手当もほとんど出ない状況で、月1の会議は30分程度であったといわれている。これで教育問題の審議などできるわけがない。教育行政を行う教育委員会は、「事務機構」になっていた。その後、あまりに不活発な教育委員会の改革が行われてきたが、行政委員会としての「審議機関」としての機能は、それほど変化が生じているようには思えない。以前は委員の代表として「教育委員長」が存在したが、今では廃止され、事務機構のトップである教育長が責任者となっている。
 ただ、議会には文教委員会があり、そこで住民から選出された地方議会の議員が審議をしているから、むしろ、ここで住民意志が反映しているといえる。一般的制度で政策が議論されるのか、あるいは教育委員会の公選のように、教育自体を問う選挙が適切なのか、住民の意志を反映させるシステムとして議論の余地があるだろう。そのことは、文部科学省についても同様のことがいえる。

Q2 主人公であるとはどういうことなのか?
 まず考えられることは、自身がよいと思う教育をうけ、信頼できる教師に学ぶことができる、そのような状態を保障するシステムが存在して、かつそれを活用できることだろう。しかし、現代社会の特質から、これを実現することは簡単ではない。身分社会であれば、身分に応じた教育が当然のこととされ、選択の余地はなかったが、複雑な現代社会では、教育に対する要求も多様である。好ましい教師も、人によって異なる。
 学校のレベルで考えれば、オランダの教育制度がそれに近いのであるが、教育理念に沿った学校を設立すること、そしてその理念に基づく内容や方法で教育することができることを自由に認め、かつ、それを財政的に国家が保障している。小学校は一学年一学級がほとんどだから、学校を選択すれば、教師を選択したことになる。学校を作る主体、教える主体も自身の理念を実現できるし、また、教育を受ける側も望む教育を実現できる。このような状態が、学校レベルでの「国民が主人公である学校システムとそれを運用する教育行政」なのだろうか。
 しかし、このようなシステムに対して、肯定的ではない日本人は多いに違いない。これでは、国家、社会としての共通教養や規範が形成されるのだろうか。人気のある学校に集中して、学校間の格差が生じるのではないか等の疑問がでてきそうである。
 それでは逆に、民主主義的な政治が行われているという前提で、国家や公的な機関が、学校を設立し、あるいは認可し、教育内容を定め、一定の教育水準を満たすことを保障しつつ、地域の学校という位置、つまり、地域の子どもが同じ学校に通うというシステムが、国民主権が実現しているという意味で、国民が主人公になっている制度や行政なのだろうか。
 しかし、その制度の「主人公」性を認めるとすると、教育内容や方法は、多数決原理で決めることが適切だということになるのだろうか。
 こうしたまた、振り出しに戻ってしまうことになるのだろうか。
 具体的に考えていこう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です