道徳教育ノート 「手品師」2

  前回、「手品師」の文章そのものと、実習生の授業や大学生の意見をもとに考えてみたが、今回は、明治図書の『道徳教育』2013.3号で、手品師の特集を組んでいるので、それを参考にしながら、再度考えてみたい。
 この特集を読むまで、実は私自身誤解していたことがあった。それは「手品師」という文章が、原作は欧米で、日本語に翻訳したものを使っていたのかと思っていた。大道芸人の手品師などは、日本であまりみかけないし、また、大劇場での演技というのも、あまり聞かないからである。しかし、江橋照雄という、日本人の道徳教育の専門家が、道徳教材として創作した文章であることがわかった。『道徳教育』のこの特集号には、江橋照雄が作者としてきちんと記入された文章が掲載されているだけではなく、「手品師の履歴書-手品師のこれまでの人生を知る手がかりとして-」という、前史と「手品師に熱き思いを寄せて」という江橋氏の文章が載っている。このふたつの文章によって、「手品師」の内容そのものがよくわかり、作者の意図も理解できる。しかし、いくら作者であるといっても、既に書かれてかなり経過しているこの物語は、作者の意図を超えて、多様な解釈に委ねられているし、道徳教材としての賛否もまた活発に議論されている。始めて公開されたのが、1976年というから、既に40年以上経っているわけである。社会状況やそれに応じた子どもたちの意識にも大きな変化がある。そうした変化を無視して、作者の意図通りの授業をしても、心には訴えないと考えざるをえないのである。


<作者による前史>
 さて、前史から見ておこう。この教材を教える教師であれば、作者による前史を読まなくても、大方は想像がつく内容である。概要は以下の通り。
・父親も手品師で、人のいい大道芸人で、やっと稼いだ金も、もっと貧しい人たちに恵んであげてしまうような人だった。
・母親はそれをよしとし、不満がちな子ども(主人公の手品師)に「もっと貧しい人がいるのだから、親子3人で暮らせるだけでも幸せだ。心の豊かな子どもになってくれ」と諭す母親だった。
・そういう両親が好きだった子どもは、自分も手品師になろうと思い、一生懸命練習していたが、15歳のときに父が亡くなり、内職の母を助けるために、大道芸をして稼いでいた。
・しかし、自己流だったために、大きなステージにたつチャンスはなかった。・父親同様、わずかに稼いだお金を、より貧しい人たちに差し出していた。
・幼友達が演出家になり、お互いの夢を語り合っていた中で、チャンスがあったら声をかけるといってくれた。


<作者の意図> 
 これが前史である。単に売れなかっただけではなく、売れても、その稼ぎを貧しい者に恵んであげていたということが示されている。そして、物語の場面に至るわけである。
 次の作者の意図を説明した文章では、以下のようなことが書かれている。
・少年を傷つけず、自分もショーに出られる方法があったのではないかという人がいて、それは事実そうだろうが、それは、「どんなに理由を付けても、少年の立場より自分の都合が優先してしまう。どのように考えても、自分勝手になってしまう。そう考えたひとは、自分自身の心を偽り、少年との約束を破るという二重の不誠実な生き方をすることを拒否したのです。」
・迷いをきっぱり捨てたことが、誠実に生きる喜びを感じさせるのだ。
・それは自己犠牲ではなく、自己犠牲と考えるなら、それは冒涜である。
・相手と自分に誠実にいきたとき、その喜びは大変大きいし、それは誰でも経験している。
・これはありえないメルヘンではなく、実際にこうした生き方をしている人がいる。
 さて、みなさんはどう思うだろうか。
 この雑誌の特集には、様々な立場の人が文章を寄せており、教材としての「手品師」を否定する人もいるし、また、作者の線で授業をやることを模索している人、逆に、もっと多様な立場を引き出すような授業をよしとする人、多様である。しかし、私の印象では、作者もそうだが、作者と同じ方向性で考えている人は、この教材を「道徳」という枠組みに限定して考えている、あるいは、この教材が、単なる道徳の領域からはみ出していることを想定しないで、授業を考えているということである。しかし、私の見る限り、道徳の領域で考えても、作者とは異なる考えかたをせざるをえない点があると思うのである。


<誠実の対象>
 作者は「誠実であること」をこの物語の核心として提示している。そして、少年との約束に対する誠実性が、自分に対する誠実性でもあるとする。
 ところで、教師は、道徳だけを教えているわけではないし、また、道徳的な成長だけを目標にしているわけでもない。むしろ、現代社会においては、社会にでたときに必要な能力、資質をきちんと身につけた状態になって世にでられることを目標にしているはずである。世の中に出たとき、誠実さの対象は、たまたま出会った少年というよりは、日常的に実行している「仕事」や「家族」に対する誠実さが、何よりも重要だろう。
 前史を振り返ってみよう。
 父親が、自分で稼いできたお金を、家族ではなく、より貧しい人たちに与えてしまうことについては、家族への誠実さを疑わざるをえないが、少なくとも、家族が認めている以上、それは父親の価値観によるのだと認めてもいいかもしれない。しかし、親は子どもを育てる責任がある。父親は大道芸人だったというのだから、専門的なマジックの手ほどきを受けていなかったのだろう。だからこそ、貧しい芸人に留まっていた。
 父親を尊敬する子どもが、手品師になろうとして努力を始めたとき、この父親は、なんとかきちんとした教育を受けさせようと思わなかったのだろうか。私の考えでは、少なくとも「誠実な」親であれば、自分が充分な教育を受けられなかったから、思うような活躍する場がえられなかったという経験を、子どもに伝え、かつ、可能な限り、りっぱな親方なりに弟子入りをさせて、芸を学ばせようとするのではないか。作者による前史には、そんな形跡は微塵もないのである。私は、親としての誠実さを疑わざるをえないのである。貧しい者に恵むお金の一分でも、子どもの教育費に回すのが、親ではなかろうか。
 手品師と友人の関係はどうだろう。子どものころから、お互いの夢を語り合っていたという。そして、その夢は、大きな劇場にでて、手品師として成功し、社会的に認められることであった。だから、先にチャンスを獲得した友人は、手品師に「声をかけるよ」と約束してくれたわけである。
 「誠実さ」とは、自分の仕事に対しても向けられるべきものではないだろうか。あらゆる職業は、社会的に存在しており、仕事に誠実であることは、社会的に認められることを求めることを、不可欠のこととしているといえる。社会から認められることを自己目的化するわけではないにせよ、社会に認められることは重要なことだと考えるはずである。「社会がおろかだから、自分のよさがわからないのだ」といって、済ましているのは、誠実とはいえない。
 この手品師は、男の子から明日もきてとせがまれたとき、「どうせ、ひまなからだ、あしたも来てやろう」という気持ちになっている。自分の仕事に日々励み、誠実に取り組んでいる人ならば、決してこのような発想はしないのではなかろうか。
 この物語では、手品師は結婚していないのだろうが、家族がいたとしたら、友人の申し入れを断って、男の子との約束を果たすことを重視して、自分勝手だから、両立できる方法は探らない、などとしたら、それは家族に対して誠実だろうか。


<時代の変化> 
この物語は、1970年代だが、21世紀も大分経過して現在では、小学生だって、多くはスマホをもっている。あるいは、自分でもっていなくても、連絡手段は知っている。だから、約束を調整することは、簡単にできる。そんな中でも、少年を傷つけず、自分もショーに出られる方法を探ることは、自分勝手だという判断をとるべきなのだろうか。
 いろいろ書いてきたが、基本的に、私は作者自身が想定した意図は、容認できない。それは、当時であってもそうだったろう。人間は、いろいろな側面での人間関係をもっており、ある特定の人たちにだけ誠実であることはできない。また、人間関係でも、近所、仕事、遊び、学校など、様々な関係があり、それぞれ誠実さは微妙に違うが、駈けてよいような人間関係はないからである。
 私は、作者が想定したこととは違う点で、「手品師」は、非常に優れた教材だと思う。それは、年齢によって、目をむける側面が広がっていき、多様な側面から考えられると同時に、人生の非常に重要な局面を、どう乗り越えることができるのかを、創造的に考えられる教材だからである。
 小学校の低学年あるいは中学年であれば、「男の子」を中心に考え、手品師が男の子との約束を重視したことを「よかった」と思い、そこから、約束や誠実さの重要性を確認するような授業でよいと思う。
 しかし、年齢があがるにしたがって、約束は友人ともしていたことを自覚する子どもが出てくるし、自分の夢をどうするのかと問いかける子どもも少なくないだろう。そして、もっと大きくなれば、職業に対する姿勢を問う者も必ず出てくるし、この教材はそういう要素をもっている。
 年齢段階や精神的発達段階に応じて、子どもたちの問題意識を引き出す授業こそが、この教材にふさわしいと思う。 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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