大学での講義は、新年度が最後になる。教育行政学も当然最後だが、テキストをかなり書き直したいと考え、ノートという形で書きためていきたい。最も、新年度には間に合わないので、これまでのテキストと併用する予定である。
1 教育行政学のように、ふたつの学問領域が併記されている場合、どちらの領域に属する学問なのかが問題となる。教育学として、行政分野を扱うのか、行政学の対象領域が教育であるのか。これは単なる言葉の遊びではなく、学問の性格を決めるほどの重要性をもっている。 教育学の分野として、行政の教育的あり方を追求する学問と考えるならば、制度としての教育、あるいは学校の管理・運営・行政が、教育者や学習者の活動を促進するようなあり方を考えることが課題となる。他方、行政学としての対象が教育であるならば、それぞれの対象の固有性よりは、行政としての効率性、有効性のありかたを課題とするだろう。 例をあげてその違いを考えてみよう。
Q1 教科書を選ぶのは誰がよいか。日々の教育計画を立案するのは誰がよいか。
この問いは、これまでの講義のなかで、何度も学生たちに発してきた。教育行政学を履修する学生は、ほとんどが教職課程をとっていて、多くが教師になろうと思っている。近年の学生の回答は、「教育委員会」「学校の指導的教員」などというものが多い。「実際に使用し、授業をする教師が、学年として決めるのはどうか」と尋ねると、「いや、ちゃんと決められる人が決めたほうがよい、教師はそういう力が不十分だと思う」という答えが多く返ってくる。
このような回答は、端的に、行政的な立場から考えているといえる。もちろん、学生たちは、実際には、行政的立場で考えているわけではなく、多くが、個々の教師がそんな大事なことを決められるはずがない、そんな能力をもっていない、と考えているようだ。だから、行政で指導的立場にあるひとが決めれば間違いないと考えているのだろう。
しかし、教育学的立場から考えれば、これは非常に問題である。 日々の教育計画について考えてみよう。
私がある都市の学校に、教育実習生を引率して挨拶にいったときのことだ。教育実習生は、全員が、自分が担当する単元はどこかを、できるだけ早く知りたがる。だから、私が校長に、それを質問したところ、主幹教諭が席を外して、しばらくして分厚いA4の冊子をもってきた。そして、実習をする学生にわたして、ここにかいてありますと言う。それは、学年ごとに分かれている電話帳のような冊子で、すべての教科のすべての時間、つまり何月何日の何時間目の何の教科は、どの単元の何ページから何ページまで扱い、目標、方法などが、さらに書かれている。1コマずつすべての時間に関して、あらかじめ計画が記されているのである。「これは誰が作成するのですか」と質問すると「主幹教諭」といい、その当の主幹教諭が、3学期はほぼこの作成に費やしました、大変でした、と語ってくれた。この市のすべての学校がそのようにしているかどうかはわからない。
このような授業計画書は、有効だろうか。行政的には、すべての担任の下で、同じ質の授業が行われている、少なくとも管理者はそのように設定・指導しているということになる。しかし、現実的に、このようにやれば、かなり無理が生じるはずである。たとえば、4年生の授業が開始されるときに、あるクラスでは、そのまま始められるが、あるクラスでは、3年生のときのことが充分に理解されていないので、多少、3年生の復習に時間を費やす必要があると、担任の教師は考えるかも知れない。その場合、計画にそって、まだ理解不十分な子どもを置き去りにするのか、あるいは、彼らに、4年生の内容を理解する上で必要なことを復習させてから入るのか。後者であれば、計画を変更しなければならなくなる。はっきりしていることは、作成した主幹教諭が、いかに個人的に優秀であっても、一人で6年生分の年間授業計画を、ある一定時期に集中的に作成するのだから、実際の子どもたちの理解状況を考慮にいれることは、極めて難しいということである。
教育そのものを考えれば、やはり、実際に授業を行う学年の教師集団が、実際の状況を見ながら、授業を進めることが、教育学の立場から大切であるという結論になる。大雑把な計画にしても、また、そこに主幹教諭のリーダーシップを発揮するとしても、学年教師たちの関わりは当然あるべきだし、また、実際に授業を始めてこそわかる状況が出てくるわけだから、計画が詳細にたてられるのも無理を生じさせる。 したがって、先のQに対する教育学的な教育行政学の回答は、実際に教える教師が学年集団として作成する、である。教科書の選択については、基本的には同様であろう。
しかし、教育委員会や指導的な教師が決めるのがよい、と回答する学生は、個々の教師は、そんな大きなことを決めることができる能力をもっているのかという疑問をもっている。これは次のような問いを生む。
Q2 教師に計画をたて、教科書を選択する能力があるのか。なくても任せるのがよいのか。現在ない教師が、どのようにしたら計画作成や教科書選択の能力が身につくのか。
現実問題としては、最初からすべての教師が、そうした能力をもっているとは考えられない。新採用やまだ経験の浅い教師は、経験豊かな教師と組み、その指導の下に、計画をたてていくことになるだろう。そして、実際に自分がかかわってたてた計画を実行する段階になれば、当然想定とは異なった事態が生じてくるはずだから、そこで、自分で考え、また、同僚に相談しながら実践していく。そういうプロセスのなかで、計画する力もついていくわけである。実際に計画作成を任せることがなければ、作成能力が発達するはずがない。子どもでも大人でも、能力は実際に「行う」ことによって発達するのである。一切を主幹教諭が決めていく体制のなかで、中堅教諭となって、主幹教諭になったとする。それまでやったことのない計画作成が、任務として課せられるわけだが、突然できるはずもないだろう。
この項目に関して、簡単なまとめをしておこう。 教育学としての教育行政学は、教師や子どもが、発達する道筋を保障するための行政のあり方を考察する学問である。