鬼平シリーズ3 旗本の転落1

 鬼平犯科帳には、江戸時代の支配層の代表である「旗本」が犯罪をして転落する物語が、いくつかある。代表的なものは、「密通」「毒」「春雪」「鬼火」の4つだ。「鬼火」だけは長編で、単独で一冊になっている。そして、犯罪もまったく異なる。「密通」は、平蔵の妻久栄の伯父が、家臣の若い妻を、地位を利用して月に1度密通する話。「毒」は、明確には示されないが地位の高い旗本が、おそらく将軍の子どもの暗殺を図るために、毒を入手する話。「春雪」は、自分の放蕩でつくった借金のために、裕福な商家の娘だった妻の実家を襲わせようとする話。「鬼火」は、他家に養子となった自分の子をその家の跡継ぎにするために、既に継いでいた兄を盗賊の女を近づけて追い出す話。どれも、本来大切にしなければならない人を、自分の欲望のために、亡き者にしたり、排除するという、陰惨な話である。
 今回は、「密通」と「春雪」を扱う。
 しかし、残念ながら、「密通」は、ドラマになっていない。中村吉右衛門主演のテレビドラマは、原作をすべて消化してしまったという理由で、シリーズものは打ち切りになり、そのあとは、年一度のスペシャルで同じ話のリメイクを作っていたということらしいが、どういうわけか、「密通」はドラマ化されていない。話としては骨格が単純で、しかも、主要ゲストが、この話にしか登場しないので、他との連携もうまくいかないと判断されたのだろうか。しかし、最後に「封建的武士道」に逆らって、家臣が主人に切りつける場面があるし、また、そもそもの発端が、主人の横暴に逆らう下人の行動だから、興味深い物語だと思う。
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ブログ題名を変更しました

 このブログは、太田ゼミでの発表を、きちんと文章化して残すことを意図して設定したものですが、3年ほど前からは、evernoteを使用するようになったので、ここは開店休業のようになっていました。私の定年が近づいてきたので、定年後の活動の一環として、試験的にこのブログを活用するようにして、少したちますが、この3月に最後のゼミ生が卒業します。卒業認定も既に済んでいるし、ゼミそのものは1月で終了していますので、太田ゼミブログという名称も卒業し、私の個人ブログとしました。なお、ゼミ生としてここに書き込んだ者は、カテゴリーとしてハンドル名のようなものになっていますが、とりあえずしばらくの間残すことにします。

読書ノート 妻を帽子と間違えた男2

 優れた声楽家のpが、見え方が変になって、眼科医で診察をうけたところ目に異常はないと診断され、「脳の視覚系に異常があるようだから」というので、オリバー・サックスのところにやってきた。人間性も豊かなpに、特におかしな点を感じなかったが、違和感をもったのは、相手を見る目が普通ではなく、顔をみても顔を把握していない感じで、むしろ聞き耳をたてているようだった。そこで、通常の検査をいくつかする。靴を脱がせて腱反射のチェックをしたあと、靴を履くようにようにいっても履かない。足と靴の区別がつかなくなっていて、どうしたらいいかわからないのである。自分の足をみて、「これ私の靴ですよね。」といったりする。サックスには初めての経験だったそうだ。写真などを見せていると、写真を全体として見るのではなく、細部のみ見ている。そして、帰るときに、帽子を探しているような仕種で、妻の頭を持って、かぶろうという動作をする。ここが、「妻を帽子と間違えた男」の題名になっている場面である。

 まず、最初に起きた奇妙なことを確認しておこう。
 pは優れた音楽家として認められていて、音楽学校の教師をしている。そこで、
・生徒が前にいても気付かない。
・顔を見ても誰かがわからないが、声を聞くとわかる。
・相手がいないのに、いるかの如くふるまう。
・町で消火栓などを、まるで子どもの頭のようにポンとたたく。
・家具のノブの彫り物に向かって話しかける。

 みなさんはどう思うだろうか。
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音楽の国際化3 平均律

 今回は、グッドールの5大発明のなかの「平均律」である。もっとも、平均律よりは、そこに至る無数ともいえる音楽家たちの苦闘が主題ともいえる。
 最初から余談になってしまうが、確かニュートンが、宇宙のことを理解するようになればなるほど、この宇宙は神が創造したものだという畏敬の念が強くなる、神の存在を意識せざるをえなくなる、と言っていた。しかし、音律の問題を考えると、とても神など存在するはずがないという意識になる。もし神が存在するとしたら、全知全能などとはほど遠い無能な存在か、あるいは能力があるのだとしたら、相当にいじの悪い存在だと思う。
 さて、音楽が民族文化の相違を超えて、同質性がかなりの程度あるのは、音が自然現象だからだということを前に述べた。この音律の問題こそ、自然現象であることの特質が出てくる。そして、音律の実践的・理論的発展があったのは、ヨーロッパだけであるが、理論に限っていえば、かなり広い世界で同じことが論じられていたのだそうだ。いろいろな書物に、これから紹介することと、ほとんど同じことが、中国の古い文献に既に出てくるそうである。では、何故、音律はクラシック音楽の専売特許のようになったのか、それを今回考えてみよう。
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透析中止で死亡-生涯を決定する権利はあるのか2 安楽死の検討

 しばらくこの話題を続くのだと思うが、今日(3月8日)の毎日新聞には、当該病院での「問題提起」のようなことが紹介されているので、それを検討しておきたい。
 以下毎日の記事。
 センターの腎臓内科医(55)によると、患者には透析治療とともに「透析しなかったらお亡くなりになります」と説明。非導入が死に直結することを明確に伝えたという。患者の家族から「死ななくて済む方法があるのに、なぜ死を選ぶのか」という疑問が出た場合には、患者本人に家族を説得してもらったという。
 亡くなった女性を担当した外科医(50)と腎臓内科医は、現行の透析治療を「対症療法」と独自に解釈。そのうえで「患者に苦痛を負わせる対症療法を医師が問答無用で押しつけることはできない。透析治療導入後にご家族が後悔することもあり、通り一遍の流れの医療をすべきではない。導入時にどうしたいのか(患者に)確認する時代になってくる」と主張している。(以上)

 この部分が、問題提起であろう。要約すると、
・透析治療は「対症療法」であり、苦痛を負わせる対症療法は、患者の意思によって実施するものだ。
・意思確認のために、導入と非導入の選択肢を示し、非導入は死に直結することを説明する。
・非導入を選択した患者の家族が納得しない場合には、患者本人が説得する。
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透析中止で死亡–生涯を決定する権利はあるのか

 3月7日の毎日新聞には、人工透析中止の選択肢を提示され、意思確認書を書いた女性が死亡した事例で、当該病院に立入検査が入ったことが報道され、この問題に多角的な分析が加えられている。私は、オランダを研究しているが、世界で始めて安楽死を国家として合法化した経緯やあり方について調べたこともあり、この問題について考えざるをえなかった。多数の記事が掲載されているので、いちいち示さないが、すべて資料とするのは、毎日新聞の3月7日の報道である。
 この病院では、本人の意思確認によって人工透析を中止した患者が3人おり、そのうち2人が中止後短期間に死亡している。ここで、問題になっているのは、そのうちのひとりである44歳の女性である。何が起きたのかを、時系列で追ってみよう。
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高校生デモから選挙権年齢議論–子どもは国民?

Der Tagesspiegel2019.3.4より

 

 気候変動に対する高校生のデモは、ドイツでも行われており、盛んに議論されている。
 前に、メルケルが高校生デモを非難していると書いたが、全非難でもないようだ。’Merkel lobt Schülerproteste – Kritik aus der eigenen Partei’ Rheinische Post 4 Mar 2019によると、「生徒たちが、気候保護のために、街路に出て闘うことを強く支持する」と毎週公表されるビデオ放送で述べたという。しかし、メルケルは保守的な政党CDUの党首だから、党内からは批判が起こっている。 「連邦の首相が、いつも就学義務に違反するデモを、区別もなく、とてもよい創意だ、などと呼ぶのは、無責任だと、私は思う。」「彼女は、そのことによって就学義務の意義を低めているし、また、教育大臣や責任感を自覚している校長や教師たちを裏切っている。」と保守的な会派CDUのWerteunionの代表Alexander Mitschの言葉を紹介している。
 このような議論は、高校生デモが起きているところでは、かならず賛否両論で出てくるが、次に紹介する議論は、いかにも「論理」の国ドイツらしい。つまり、ドイツでは、高校生デモで見られるように、彼らの政治意識は高いのだから、選挙権の年齢をさげようという提案がSPD(社会民主党)の議員から提起されているというのである。’Das Recht der Jugend’ Der Tagesspiegel 4 Mar 2019が伝えている。筆者は、 Von A. Fröhlich, H. Monath und J. Müller-Neuhofの3人。
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道徳教育ノート「泣いた赤鬼」2

 ここでの道徳教育ノートは、授業案を考えることに目的があるのではなく、道徳教育を行う、あるいは、教育全体のなかで道徳教育を位置づけることを考えている教師に、まずは大人として、道徳教育の理解をぎりぎりまで、深く、かつ広く掘り下げてほしいという目的で書いている。私自身は、子ども相手に道徳教育をしたことはないので、正確には、わからないが、もちろん、起きることの予想はできる。そういう点も含めて今回は考えてみたい。
鬼って何?
 子どもが、「鬼って何」「なんで、人間は鬼とつきないたくないと思っているの?」「赤鬼と青鬼は人間に対して、違うような態度をとっているけど、鬼にもいろいろあるの?」とか、そういう疑問を出すことはあるだろうか。
 というより、そのような疑問が出てこないクラスがあったら、普段から興味や疑問をもって学習をしていないのではないかと、心配になってしまう。
 もちろん、節分などで、鬼は怖い存在だとという意識をもっているとしたら、じゃ、なぜ赤鬼は、自分はやさしくて怖くないのだから、人間につきあいまょしうなどといっているのか、という疑問が出てくるはずである。
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同性婚の親の記入法– フランスで大激論

 フランスで新しい学校法が承認されたというが、かなりの激論が交わされたという。最も大きな論点になったのが、生徒の保護者名を記入するときに、どのようにするのかということ。これまでは、ごく当たり前のように、「父」と「母」という欄があって、そこに名前を記入するというものだった。日本でも同様だ。
 ところが、ヨーロッパでは、同性婚あるいは同性のカップルを、容認している国が多い。法的に同性婚を認めていなくても、結婚しないまま同性している二人を「カップル」という概念で認め、様々な法的な便宜を図っている国が多いのである。LGBTの権利を認める方向に進んでいる国では、当然同性婚が容認され、子どもがいて(多くは養子)、学校に通っている。そこで、書類にどう書くかという問題が生じるわけである。
 ル・モンドの2月19日の記事« Parent 1, parent 2 » : vie et mort d’une idée controversée du projet de « loi Blanquer »によれば、学校法の議論の過程で、女性議員のValérie Petitによって、「父と母」ではなく、「親1と親2」という概念にすべきであるという提案がなされ、大論争になったようだ。

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道徳教育ノート 泣いた赤鬼1

 道徳の教材としてよく用いられる文章の第二位が「泣いた赤鬼」だそうだ。もちろん、一位は「手品師」である。
「泣いた赤鬼」は、日本のアンデルセンといわれた浜田廣介の作品であり、発表は昭和8年である。最初の題は「鬼の涙」であり、「鬼同士の絆を描いたこの童話に出てくる犠牲という言葉からは、恩人さよへの負い目が廣介の心を離れなかったことが想像される」と、浜田廣介記念館の名誉館長をしている娘の留美は書いている。(小学館文庫『泣いた赤おに』の解説より。さよは、廣介の母の従姉妹で、廣介が経済的に困っていた時期に、ずっと援助し続けた恩人)
 留美氏によると、浜田は、常に人の善意を重視する物語をつくり続けたという。
 一貫して「童話」を書き続けたことからみて、それはごく自然なことだろう。
 しかし、世界の名作童話は、実は、ほとんどが、作者の意図を超えて、(あるいは、元々作者が意図していたのかもしれないが)大人が読んでも、様々な解釈が可能で、単なる善意とか、愛とか、友情などの枠におさまらない内容をもっているし、その多くは、実は大人でなければ充分には理解できないことさえある。
 アンデルセンの「裸の王さま」を考えてみよう。

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