『教育』2019.12号を読む 「黙」の強制

 『教育』2019.12号の第二特集が「学校にしのびこむ『黙』」である。ここには、5人の論考が掲載されている。
・安原昭二「黙食・無言清掃がもたらすもの」
・霜村三二「黙を強いられる学校現場の声を聴く」
・内海まゆみ「子どもが食を表現するとき」
・北村上「無言清掃と藩閥意識」
・山本宏樹「無言清掃はどこからきたのか」
 煩雑になるので、どの論考かはいちいち示さないが、すべてここに書かれていることを紹介しつつ、考えていくことにする。
 日本の学校には、摩訶不思議な慣行が少なくない。黙食、黙働は、その最たるものだろう。食事は、多人数でおしゃべりしながら食べるのが、最も消化によく、健康的であることは、常識となっている。にもかかわらず、給食を食べるときに、会話をしてはいけない、というのが黙食であるから、これは、まったく常識に反する不健康なことなのだ。確かに、学校には、この他にも、「黙」が強制される場面が少なくない。ここで紹介されている一例だけみてもわかる。
・無言でじっくり朝読書
・集会の整列や移動は無言ですばやく
・無駄な話はせず無言で清掃
・無言で給食

蝶々夫人のオリジナル版

 昨年二期会の「蝶々夫人」を聴きにいったので、多少このオペラに関心が高まっていた。私はプッチーニは、「ボエーム」以外はあまり好きではないので、「蝶々夫人」も敬遠してきた。だから、いまだに細かいところまで理解ができていないのだが、リッカルド・シャイーが「蝶々夫人」の第一稿による公演をして、それが市販されていることを最近知り、アマゾンで購入して早速聴いてみた。
 オペラ好きの人には、よく知られていることだが、今日名作とされて、頻繁に上演されているこのオペラも、初演は大失敗で、一日だけで引っ込めてしまい、2カ月後に改訂版を上演して成功をおさめたとされている。初演を指揮したのは、著名なトスカニーニで、彼の忠告で2幕構成を3幕構成に改訂して、今に至っている。
 演奏はミラノのスカラ座のもので、歌手、指揮、オーケストラすべて優れている。演出もなかなかよかったが、私の興味はバージョンなので、そこに絞って書く。HMVのレビューで村井翔氏が、第一稿がもっとも優れているとずっと思っていたと書いているが、音楽よりは、劇の進行上、第一稿のほうが多少合理性があるように感じる。ただ、音楽という点では、「ボエーム」はどこをとっても魅力的な音楽だが、「蝶々夫人」はけっこう退屈な部分があるので、より長い第一稿は、まだすっと入っては来ない。唯一、何度も聴く第一幕最後の二重唱は、多少違う部分があったが、改訂版(通常演奏される)のほうが優れているように感じた。 “蝶々夫人のオリジナル版” の続きを読む

思い出深い演奏会3

 今回で最後だが、まずはカルロス・クライバーの2度目のオペラ。クライバーの正規録音、録画はすべて所有しており、また、すべて何度か聴いているが、すごいと思いつつ、やはり、指揮者としては、あまりに特殊な存在だったと思う。小沢征爾は、クライバーについて、「いつでも、演奏会をどうやったらキャンセルできるかを考えているようだ」などと語っていたことがあるが、およそ指揮者で、なんとか演奏を逃れたいなどという人は、この人以外には、いないだろう。ピアニストには、かなり長期間演奏活動をやめてしまう人がいるが、病気でもないのに、演奏しないというのは何故なのか。父親に対するコンプレックスという解釈が広く支持されているが、どうなのだろう。父親エーリッヒ・クライバーは、戦後は比較的早く亡くなってしまったので、あまり親しまれていないが、私自身はいくつかのCDをもっている。そして、カルロスが演奏する曲は、だいたい父親が得意にしていた曲で、その他はあまりやりたがらなかったらしい。そして、父親の演奏になんとか近づきたいという意識が強かったそうだが、二人の演奏を聴き比べた誰もが感じるように、息子のカルロスのほうが、ずっと優れていると思う。にもかかわらず、自分の演奏は父親の足元にも及ばないとずっと言い続けたというのは、本当に不思議だ。 “思い出深い演奏会3” の続きを読む

アイデア盗用なのか 新作寅さん、横尾氏の抗議を考える

 寅さんシリーズは、前半はとても面白いと感じ、よく映画館にも見に行っていたが、後半になると、なんとなくつまらなくなり、全然見ないようになってしまった。DVDなどでも見ていない。山田洋次監督が関与している「釣りバカ」シリーズも一度見て、「何だこれ」と呆れて見る気力が失せた。「釣りバカ」に関しては、原作のもつ社会批判、企業文化批判がかなり薄められて、スーさんの恋愛ドタバタのような感じがしたので、がっかりしたのだ。もちろん、その一回が特にそうだったのかも知れないが、最初の印象はやはり抜きがたいものがある。
 寅さんシリーズは、当初は、寅さん自身が恋をして、実らずにまた旅に出ていくというコンセプトだったのが、次第に、恋愛指南的になっていって、いかにも不自然さを感じてしまうようになった。一般的には、人気は高く、渥美清さんが演じられなくなるまで続いたわけだし、またその後、渥美清という存在ぬきに寅さんを撮ることはできないということで、打ち切りになっていた。それが、サバイバル映画が作られ、話題になっているが、思わぬ騒動が起きているようだ。 “アイデア盗用なのか 新作寅さん、横尾氏の抗議を考える” の続きを読む

ゴーン氏脱出と日本政府の対応

 単に年末年始だったからというのではないように思われる。なんとも、日本政府の反応が鈍いのだ。これは、海外メディアでも指摘されている。とにかく、日本での法的拘束を受けていて、海外渡航を禁じられている被疑者が、無断で出国し、かつ、これから日本と闘うなどと宣言しているにもかかわらず、政府としての見解をまったく出していない。少なくとも、検察は、公式表明ができるはずであるし、また、出入国を管理している当局は、これが犯罪であると、「世界に向けて」発信すべきものだろうと思う。これから、確実にゴーン氏は情報戦をしかけてくるし、また、日本の司法に対する批判は国内外に強い(私も一部批判的だ)のだから、対応を間違えれば、日本の司法の評価はどんどん低下していかざるをえない。
 しかし、何故か政府は何も語っていない。
 だからか、日本政府にとって、ゴーン氏の逃亡は都合がいいことだったのではないか、ひょっとして、助けていたかも知れない、などというコメントもある。 “ゴーン氏脱出と日本政府の対応” の続きを読む

ネルソンスのニューイヤーコンサート

 恒例のニューイヤーコンサートを聴いた。
 初登場のネルソンスが独特の服装で指揮をして、ときに踊るように、また、わずかな指先だけの合図を送ったり、はたまたオケに委ねたり、多様な指揮ぶりを見せてくれた。最初のインタビューで10年間のウィーンフィルとの仕事があったので、練習などがやりやすかったと語っていたように、相互の信頼が深いことが感じられた。ラトビア出身だから、ウィーン音楽をバックボーンに育った人ではない。ウィーンの民族音楽ともいうべきウィンナワルツを指揮することは、決してやさしくないが、小沢とは違って、ウィーン流にやろうとする姿勢が明確だったように思う。小沢は、ウィーン方言ともいうべき慣習は、ほとんど無視して、楽譜に書いてあるとおりにやるのだという指揮をして、ウィーンフィルを怒らせてしまったが、若いころから国際的に活躍しているし、また、なんといってもヨーロッパ出身なので、小沢とは違うのだろう。(ウィーン以外にいけば、小沢流は多数派だが)
 しかし、それでも、やはり、違和感が感じられるところが散見された。 “ネルソンスのニューイヤーコンサート” の続きを読む

ナルシスト国家になりつつある日本

 12月29日付けで、渡邊裕子氏(ニューヨーク在住)執筆の「メガネ禁止、伊藤詩織さん、小泉環境相…2019年海外メディアは日本をどう報じたか」という非常に優れた文章が掲載されている。ぜひ多くの人に読んでほしいと思う。
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/メガネ禁止、伊藤詩織さん、小泉環境相…2019年海外メディアは日本をどう報じたか/ar-BBYqC3j?ocid=spartandhp

 ただ、全面的に賛成なわけではなく、より多面的な見方が必要であると感じる部分もあるので、そういう点も含めて紹介しよう。
 執筆の基本姿勢として、日本に帰国するたびに、「日本はすごい」と外国人からみられていることを紹介するテレビ番組が増えたことに驚いている。日本人は、どう見られているかを気にするのに、日本のメディアしか見ない人が圧倒的である。外国の報道をみればわかるのだが、かなり辛口に言われることが多くなっているのだ。こうした観点から、辛口に論評されていることを、外国のメディアによって、いくつか紹介している文章である。
 最初に、あるジョークが紹介されている。

ある教授が、「象についてのレポートを書きなさい」という宿題を出した。ドイツ人は「象の存在についての哲学的考察」、アメリカ人は「象を使ってできるビジネス」、中国人は「象の料理の仕方」、フランス人は「象の性生活について」というレポートを書いてきた。日本人は?というと、「日本人は象をどう見ているか。象は日本人をどう見ているか」だ……というオチだった。 “ナルシスト国家になりつつある日本” の続きを読む

カルロス・ゴーンの脱出劇

 日本人だけではなく、世界中で驚きだったようだ。
 ふたつ考えた。
 ひとつは、やはり、保釈したにもかかわらず、あまりに制限が大きいことについては疑問を感じる。保釈中は、少なくとも逃亡しないことが最重要で、居場所の把握が常に可能なようにしておけば、通常の生活が可能なようにすべきである。「推定無罪」なのだから、保釈中でも、司法が著しい生活上の制限、例えば家族とも自由にあえない、などというのは、やはり批判されてしかるべきではないかと思う。海外にいってしまったゴーン氏が、今後日本批判の言論を自由に行うことができるわけだから、日本の検察当局は、国際的な論戦を強いられることになるわけだ。かなり劣勢になるのではないかと危惧する。 
 もうひとつは、どうやって脱出したか。 “カルロス・ゴーンの脱出劇” の続きを読む

スウェーデンで精神疾患用救急車導入の議論

 元農水省次官が息子を殺害した事件では、激しかった家庭内暴力があったのに、何故警察を呼ばなかったのか、という議論がかなり出されていた。私も何故かと思ったりした。
 ずいぶん前のNHKスペシャルの番組だが、「少年法廷」に関するドキュメント番組があった。少年法廷(ティーン・コート)は、10代の若者が若者の初犯の容疑者の裁判を行うというもので、財政基盤の脆弱さからそれほど普及していないが、高く評価されているシステムだ。NHKの番組は、ラスベガスの少年法廷を取材したものだったが、そこで裁かれている少女は、妹の子守をするように言いつけられたことに抵抗して、部屋に入ろうとした母親をドアで防いで怪我させたことで、警察を呼ばれてしまった。そして、裁判になり、少年法廷を選択したわけだ。そのとき、番組のナレーションは、ラスベガスでパトカーが呼ばれる理由の3分の1は家庭内暴力だというのだ。もちろん、子どもが呼ぶことは少ないので、多くは子どもが親に暴力を振るったときに、親がパトカーを呼び、子どもを逮捕させるわけである。日本とアメリカの家庭観の相違に驚いた。もし、元農水次官が、アメリカに住んでいるアメリカ人なら、躊躇することなく警察を呼び、自分が殺人犯になることはなかったのかも知れない。しかし、警察を呼び、息子を傷害罪の被告にして、投獄することが本当によいことなのかは、全く別問題だろう。
 では、どうしたらよいのか。最善かどうかはわからないが、こうした事例を念頭においた議論が、スウェーデンでおきている。一部では実施されている地域もあるということだ。 “スウェーデンで精神疾患用救急車導入の議論” の続きを読む

思い出深い演奏会2

 昨日の続きで、思い出深い演奏会第二弾です。
 以前facebookで、友人と好きな指揮者の話になり、彼がフルトヴェングラー・ムラビンスキー・カルロス=クライバーという名前をあげたので、ずいぶん通だなあと感心し、対応した感じであげれば、私はワルター・カラヤン・アバドになる。彼が「精神派」とすれば、私は「感覚派」ということになるだろうか。非精神派といってもいい。音楽の演奏が、何か精神的な思考や思想を表現しているというのが、精神派で、フルトヴェングラーファンはだいたいそうだ。そして、たいていアンチカラヤンである。非精神派は、音楽は音楽で、思想とは関係ないというの考えで、純粋に音楽的な美を重んじるわけだ。ワルターは、私が高校生のときに死んでしまって、もちろん日本には一度も来ていないので、実演を聞く機会をもった日本人は、極めて少ないのだが、カラヤンとアバドは何度もきた。カラヤンは2度演奏会で聴いたが、会場が普門館という、音楽ホールではなく、何か宗教的な会場らしいのだが、とにかく広大なホールで、音が分散してしまい、あまり、ベルリンフィル・カラヤンの醍醐味を味わうことはできなかった。とても残念だ。そのときの曲目は、ベートーヴェンの1番と3番、そして、2日目が第九だった。第九は最前列だったので、カラヤンの指揮姿をよく見ることができないはよかった。カラヤンの指揮はさっぱりわからないと、アンチのひとたちはよくいったものだが、第九は音大の学生が合唱で多数出ていたのだが、不安なく歌っていたから、わかりにくいことはないのだろうと感じた。この一連のベートーヴェン全曲演奏は、CDにもなっているので、もう少し安くなったら購入しようかと思っている。 “思い出深い演奏会2” の続きを読む