アイデア盗用なのか 新作寅さん、横尾氏の抗議を考える

 寅さんシリーズは、前半はとても面白いと感じ、よく映画館にも見に行っていたが、後半になると、なんとなくつまらなくなり、全然見ないようになってしまった。DVDなどでも見ていない。山田洋次監督が関与している「釣りバカ」シリーズも一度見て、「何だこれ」と呆れて見る気力が失せた。「釣りバカ」に関しては、原作のもつ社会批判、企業文化批判がかなり薄められて、スーさんの恋愛ドタバタのような感じがしたので、がっかりしたのだ。もちろん、その一回が特にそうだったのかも知れないが、最初の印象はやはり抜きがたいものがある。
 寅さんシリーズは、当初は、寅さん自身が恋をして、実らずにまた旅に出ていくというコンセプトだったのが、次第に、恋愛指南的になっていって、いかにも不自然さを感じてしまうようになった。一般的には、人気は高く、渥美清さんが演じられなくなるまで続いたわけだし、またその後、渥美清という存在ぬきに寅さんを撮ることはできないということで、打ち切りになっていた。それが、サバイバル映画が作られ、話題になっているが、思わぬ騒動が起きているようだ。「映画寅さん 横尾忠則氏が「山田監督のアイディア盗用」に激怒」という記事が、Newsポストの2020.1.4に掲載されている。要は、渥美清演じる寅さんでないと意味がないが、生存していないのだから、新作映画はできないと悩んでいた山田洋次監督に対して、アートディレクターの横尾忠則氏が、「過去49本の寅さんの映画から抜粋、引用してコラージュすればいい」と提案したところ、山田監督は、そのときには何も言わなかったが、横尾氏に無断で採用したというのである。映画の完成間近になってそれを知った横尾氏が、山田監督に抗議をしたが、山田監督の対応が二転三転しているので、不信感をもったという。そこで、吐き出す意味で週刊誌のインタビューにこたえる形をとった抗議をしたようだ。もっとも、山田監督に対して、訴訟を起こしたりというような措置をとる意思ではなく、あくまでもプライドの問題としての抗議に留めるようだ。 
 このような問題は、実は表に出ないだけで無数にあるのではないだろうか。そして、単に口頭でアイデアを述べたことを、それを聞いた側が何かの成果に反映させたとき、それはどのような問題となるのだろうか。横尾氏はあくまでも「プライド」と「礼儀」の問題としているが、学会ではもう少し大きな騒ぎになったことがある。
 ある大学院でともに学んだ院生の間で起きたことだ。AがBに、研究上のあるアイデアを述べた。資料の扱いとか課題などで、要するに普段のおしゃべりの一環だったろう。少なくとも、研究会におけるペーパーに書かれた形での提示ではなかった。そして、それを聞いたBが、おそらくそのアイデアに触発されて、研究を進め、学会誌に投稿して採用された。そのうち地方の大学に職を得た。ところが、その論文が掲載されると、Aは、自分がBに語ったアイデアで論文を書いており、一種の盗作ではないかと、学会誌の編集部に抗議をしたのである。そこで、編集部は事態を調べ、かなり議論をしたようだが、このアイデアについては、Aにプライオリティがあり、したがって、Aが自分のアイデアに基づいて進めていた研究成果を、同雑誌に特別掲載した。通常、同じような課題で、同じような資料を使った研究は、掲載しないものだが、特別措置をとったのである。そして、わざわざAにプライオリティがあるという声明文も掲載していた。
 当時、論文集か何かの関係で、Bと連絡をとっており、かなり落ち込んでいた。盗作したような感じで、学会誌の編集部に書かれてしまったからである。
 私は多いに疑問に思った。学会の仕事をしていたわけではないので、ブログ(別のbiglobeのブログ)に感想を書いた。簡単に要約すると、そもそも、友人同士がおしゃべりをしているときに、気軽に会話した内容に、プライオリティなど認定することがおかしい。しかも単なるアイデアであり、そのアイデアに基づいて、実際に資料を集め、分析をし、論文を書いたわけだから、別に不正をしているわけではない。だから、編集部の認定は間違っているというものだ。
 文系の論文で、こうしたことは滅多に問題になることはない。それは、文系の論文が社会的な「報酬」をともなった成果に繋がることは、まずないからである。理系であれば、特許に繋がったり、はては、ノーベル賞受賞につながるような各種賞とも直結する。つまり、経済的な利害に深く絡んでくる場合が少なくない。だから、理系の論文の認定などは、裏で相当などろどろした動きがあると聞いたことがある。審査員が、審査論文の判定を意図的に遅らせ、その間に、その論文によるアイデアで論文をまとめてしまい、成果を横取りする、というようなことすらあるらしい。理系の論文で、もし特許に繋がるとしたら、一番始めの論文が該当するわけだから、そこらは極めて熾烈な競争になっており、だからこそ、影もあるわけだ。逆にいえば、理系の研究者はそうしたことをされないために、様々な努力を強いられる。
 文系の場合には、そうした一番争いなどはまず考えられず、やはり問題となるのは「質」である。だいたい、文系の研究に、アイデア自体に価値があるなどということは、ほとんどないはずである。同じアイデア、課題を追求した研究がたくさんあるのが普通だ。そのなかで、課題をどれだけ深く、合理的に、重要な資料を使って分析したかが、問われるのであって、誰が思いついたアイデアであるかなどということは問われない場合がほとんどだ。「正義とは何か」とか、「本能寺の変はなぜ起きたか」などというのは、アイデアや課題として誰でも共有している。
 学問の世界では、論文という明確な文章として残されているものがあり、他人がそれを借りるときには、「引用」という形式が決まっている。だから、引用して、引用先を明示しさえすれば、他人のアイデアを借りることは、合法的に行うことができる。
 しかし、芸術の世界では、確かにそう簡単ではないようだ。音楽の世界でも、引用は頻繁に行われる。モーツァルトの「ドンジョバンニ」で、終わりのほう、ドンジョバンニがディナーを食べているときに、楽団が音楽を奏でるが、モーツァルトも含めて、当時のいろいろな作曲家の音楽が演奏されるようになっている。ビゼー「カルメン」の有名なハバネラは、別の作曲家の曲だったために、抗議を受け、ビゼーはそれを認め、応分の金銭を支払っている。ブラームスの「ハンガリー舞曲」は、ハンガリーの民謡だけではなく、実際の作曲家の作品も含まれていたために、訴訟になったが、ブラームスは「作曲」と表示せず「編曲」と表示していたために、敗訴を免れ、和解が成立した。しかし、今では、ハンガリー舞曲は、どうどうと「ブラームス作曲」と表示されている。実際の作曲者は、抹殺されてしまったわけだ。ブラームスを擁護するとしたら、あくまで素材として利用したのであって、現在ある形、つまり聞き応えのある曲に仕上げたのはブラームスだ、原曲の作曲者の音楽は、優れていたら、彼の作曲した形で、彼の名前で演奏されることが妨げられているわけではない、ということになるのだろうか。ブラームス自身は、編曲したという意識だったのだから、今でもそれを尊重すればいいのではないかと、私は思っているが。
 さて、今回の横尾氏の抗議と山田監督の行為は、どのように考えられるのだろうか。
 あくまでも横尾氏の文章を読んでいるだけだから、実際のところはわからない。横尾氏が、過去の映画から引用して、コラージュとして使えばいい、とアイデアを語ったとき、本当に山田監督が、初めて知ったのか、あるいは、既に自分で考えていたり、あるいは別の人からアイデアをもらっていて、ただ、横尾氏には、どうしようもないと語ったのか、それはわからない。既に構想があった可能性は否定できないだろう。山田監督ほどの経験と知識をもっている人が、そんなことを思いつかないはずはないとも考えられるからである。
 結局のところ、口頭でのアイデア伝達というのは、いった方が、オレのアイデアを盗んだというような批判をすることは、あまり共感できないというのが、私の感想だ。私のいうアイデアをよく使ってくれたといって、感謝するほうが気持ちがいい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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