さて、ここから授業の続きになるが、何故、こんなことに拘るのかを説明しておきたい。私は教育学者なので、どうしても今回の事件に関しては、原因となったパティ教師の行った授業が気になるだけではなく、はっきり言うと問題が多いものだったのではないかと考えている。もっと、教育学的に適切な授業をしていれば、殺害の対象となるような悲劇は起きなかった可能性が大きいと思うのである。だから、どういう授業であればよかったのかを考える必要があるわけだ。
パティ教師の授業の問題は、再度整理すると、「表現の自由」を教えるために、風刺画を掲載することを認めることが、表現の自由の具体化なのだ、という立場を一方的に説明したと思われる点にある。しかも、その際に、不快な思いをする可能性があるからという理由で、イスラム教徒の生徒を教室から退出させた。これは、どのような問題を感じるか。